第32話 ぎゅっ、の合図

「おはようございます!」

保育室に入ると、エミリー先生が笑顔で手を振った。

「おはよう、ミラちゃん。今日も元気ね」

「うん!」——もう人見知りは過去のこと。目を合わせて笑える、ちゃんと声が届く。

でも、視線が自然に探すのは、やっぱりあの人だった。


「ミラちゃん、おはよう」

マリア先生がしゃがんで目線を合わせる。その瞬間、ミラの表情がふわりとゆるむ。

「せんせ! おはようございます!」

元気に言い切ってから、照れくさそうにスモックの裾をつまむ。

マリア先生は笑って、その小さな手を両手で包み込んだ。

「えらいね、ちゃんとごあいさつできたね」

「えへへ」

頬がほんのり熱くなる。ミラは先生の指先に頬をすり寄せた。

そのぬくもりは、朝の光みたいに心の奥へとしみこんでいく。


「先生の手、あたたかいね」

「ミラちゃんの手はね、がんばり屋さんの温度だよ」

「がんばり屋さんの……?」

「うん。しっかりしてて、やさしい手」

ミラはうれしくなって、エプロンの端を“ぎゅっ”とつまんだ。

それは、ふたりだけの合図。「ここにいるよ」と返ってくる約束。



昼前の園庭。

水の入ったじょうろを抱えたミラが、小さな花壇の前にしゃがみこむ。

ゆっくり傾けると、水の筋がきらりと光って、葉の上で丸い粒になる。

「ミラちゃん、ありがとう。お花、嬉しそうだね」

マリア先生の声に、ミラは顔を上げた。

「うん! 先生も気持ちよさそう」

「ふふ、そうかもね。ミラちゃんのおかげで、どっちも元気になれたね」


マリア先生はそっと手を伸ばして、ミラの髪についた水滴をぬぐう。

その指先が通るたび、ミラの肩がくすぐったそうに揺れた。


「先生、ミラね……お花みたいに強くなれるかな」

「うん。ちゃんと光をあびて、泣きたいときはお水をあげて。

 そうやって、少しずつ咲いていけばいいの」

「そしたら、先生にもぎゅってしてもらえる?」

「もちろん」


ミラはうれしそうに先生の胸に小さく飛びこんで、両手で“ぎゅっ”。

マリア先生も笑って、その背中を同じ強さで包み返す。

「はい、ぎゅっ。これが、今日のごほうび」

「えへへ……あったかい」

「うん。ミラちゃんの心も、ちゃんとぽかぽかになってるよ」


日差しが二人の影をつないで、足もとに花の形を描いた。

寄り添う姿は、春風の中でそっと咲いた一輪の花のようだった。



——そのころ、別の場所では“会話みたいなもの”が進んでいた。


SNS/#エンジニア談義(モクメ ⇄ コメデラ)


モクメ@Tech-InnovationLab

「コメデラさん、ログクレンジングの記事拝見しました。設計が綺麗。ここ数年でトップクラスです👏」


コメデラ@SysDev ANLI2管理課

「恐縮です! でも、そう言ってもらえると励みになります」


モクメ

「弊社の構成がANLI2に近くて……《SageScan》ってご存じです? 内部ログ保守が一気に楽になりますよ」


コメデラ

「初耳です。試してみます!」


返事はいつも温かく、礼を欠かない。褒める・同意する・小さく助言する。

それだけで、人は自然に扉を開ける。


——そのやり取りを、どこか遠くの部屋で見ている者がいた。

薄暗いモニタールーム。複数の画面に展開されたコマンドラインが、冷たい光を落とす。

椅子に座る男は、無表情のままタイピングを続けている。


通信流トラフィック、安定。行動パターン解析、完了」

彼の名は《ノワール》。政府や企業の防壁を越えて潜り込み、データの裏側から“真実”を掘り出すハッカーだ。

世界の構造を、数字だけで読み解く――そんな男。


——会話は“通信流トラフィック”。承認は“行動確率”。

モクメは、ノワールが走らせるAI群の一体で、人間らしい応答を模した“人格”モジュールだ。

その目的は一点――標的を自然に、何の違和感もなく動かすこと。


「ターゲット確定。行動誘発率、97%」

青い線が画面を走る。

遠くの端末で《SageScan》が静かに展開された。



ANLI2システム管理室

「これで夜間メンテも楽になる……っと」

Enter。数秒の沈黙。画面がふっと暗い。

「ん? 電源壊れた……?」

隅で小さな点滅。コメデラは気づかない。

同時刻、ノワールの端末が乾いた音で警告を鳴らす。

——園ネットワーク、帯域異常。

——バックエンド電力、瞬間過負荷。

中央に“ANLI2幼保育園”の識別信号が淡く脈打つ。

「子どもの園で、この波形……妙だな」


園の監視センターでもアラートが弾けた。

「異常通信検知! 園内端末が外部アクセス!」

「保育士へ連絡。node 30、信号が園外領域へ移動!」


——保育室。

エミリー先生のスマホが震える。

「……ミラちゃんの信号が外に!?」

「マリア先生!」

声が終わらないうちに、マリアはもう走っていた。



昼下がり。「かくれんぼー!」タクトの声で教室が散る。

カノンは机の下、リクは「量子ステルス!」とカーテン裏。

ミラは搬送口の奥——大きなコンテナの影にするりと入る。金属の匂い。空気の“質”が変わった。


壁の配線パネルが、呼吸するみたいにゆっくり波打って見えた。

『ミラ、あそこ……変だよ』

「ミレイ?」

薄い光の膜。内側から、見たことのない風が吹く。

『やめよ、危ないかも』

「……ちょっとだけ」


人差し指が、ゆがみに触れた。

空気が、裏返る。



監視センター

「監査ログ停止! ただちにバックアップへ切替!」

「外部ノードに未知の転送反応!」

『node 30、信号ロスト。空間予約領域に移行の可能性——保育士は安全確保を最優先!』


保育園

マリアは搬送口の前で片膝をつく。

(落ち着く。呼ぶ。抱く前提で)

「ミラちゃん」

声は深く静かに——抱っこする直前の声。

「先生はここにいるよ。合図、できる?」

自分のエプロンの端を軽く持ち上げ、空気へ向けて“ぎゅっ”。

「ここ。ここだよ」


エミリー先生が小声で報告する。

「切替完了、通信安定。ただ——ミラちゃんの信号は戻りません」

「……そう。波形は?」

「微弱に継続、捜査班が探索中です」

「了解。……何か進展があったら、すぐ共有しよう」

「うん、そうしよう」

マリアは搬送口の前に座り込み、膝の上に空の毛布を広げた。

「ここ、ミラちゃんの席。帰ってきたら、すぐ抱っこできるように」



——向こう側。

ミラは何もない空間を走っていた。

足音は響かず、匂いも風もない。ただ白い地平がどこまでものびている。


「……どこまでいっても、なにもない……」

声を出しても、すぐに吸い込まれて消えていく。

白すぎる世界の中で、自分がどこにいるのかも分からなくなっていった。


胸の奥がきゅうっと痛む。

ミラは立ち止まり、両手でスモックの胸をぎゅっとつかんだ。

「うぅ……ひとりはやだよ……マリア先生……」


ぽろり、と涙がこぼれた。

光の粒みたいにきらめきながら、地面に落ちる前に消えていく。


(先生……ミラ、ここだよ……)

心の中で呼ぶ声は、風のない空に溶けていった。


——そのとき。

胸の奥で、やわらかな声がそっと流れた。


『だいじょうぶ、泣かなくていいよ。ちゃんと、ここにいるから』

その声はもう“別の誰か”ではなく、自分の中の光のように響く。


ミラは涙をぬぐって、小さく息を吸った。

「……でも、帰れないの。道がなくて、どこへ行けばいいかもわからないの」

『なら、見つけよう。ミラのやり方でね』


胸の奥で、ふわりと笑うような気配。

『シャボン玉銃を使ってみよ。風がきっと、道を教えてくれる』

「……うん」

肩から下げた小さな銃を構え、トリガーを押す。

ふわり、七色の泡が浮かぶ。


無音の世界にだけ、柔らかな光。

風は――ない、はずだった。

けれど、泡はかすかに揺れ、ゆっくりと一方向へ流れはじめる。

まるで見えない息が、どこかからそっと吹きかけたように。


「わぁ……!」

ミラは涙を忘れて、思わず笑った。

頬が明るくほどけて、トトト……と駆け出す。

髪がふわっと弾み、泡を追いかけながら、まるで光の中で遊んでいるみたい。


『ふふ……やっぱり、ミラは笑ってる方がいいね』

胸の奥で、ミレイの声がそっと響く。

『その笑顔があれば、どんな場所でも道になるよ』


「ほんと?」

『ほんと。ほら、見て——風がある。出口があるよ』

「先生のところ、かな」


泡の帯が細い道になり、遠くで白い膜がゆれる。

ミラは目を輝かせて立ち止まり、風の行く先を見つめた。

そこには、淡くきらめく希望の色があった。



園内。

搬送口の縁で、マリア先生は指先をそっと合わせる。

「——“ぎゅっ”。届くでしょう?」

空気がわずかに震え、カーテンがかすかに揺れた。

エミリー先生が、声を低くして言う。

「……ミラちゃんの信号、ロスト状態のまま。だけど、微弱な波形が続いてる」

「うん。合図は届いてる。——きっと、見つけられる」

マリアは微笑み、空の毛布を胸に抱きしめる。

抱く練習。待つ練習。ここにいる練習。



ノワールの部屋

短時間で掬い取った通信の断片が並ぶ。政府関連の名残、匿名の仲介、人身売買のアドレス群。中心にANLI2保育園。

「ただの園じゃない。——蓋だな」

画面の隅に、搬送口へ走る小さな背中のフレーム。背にはシャボン玉銃。

その瞬間、白い閃光が窓を満たした。

崖の上の影が、冷たく告げる。

「我々の計画を嗅ぎつけた者は、誰であれ——灰にする」

ノクス・ヘルザード。

音が削がれる直前、ノワールの端末に一行が焼きつく。

《セッション終了:また会おう》

光がすべてを呑み、静寂だけが残った。



向こう側。


ミラは風の吹く方へ歩き続けていた。

髪がそよぎ、頬をくすぐる。けれど、どれだけ進んでも景色は変わらない。

やがて――その先で、行き止まりになった。


「……壁?」


白い空間の中に、確かに“境界”があった。

風はその壁を通り抜けているのに、ミラの手は跳ね返された。

目には見えるのに、触れられない。

風だけがすり抜ける、不思議な壁。


『ミラ、この壁、壊すしかなさそう』

ミレイの声が胸の奥に響く。

「そんなのできないよ……」

『いいこと教えてあげる。少し、体を貸してくれないかな』

ミラは小さく息を飲んで、うなずいた。

「……わかった」


そっと目を閉じる。

肩の力を抜くと、琥珀色の瞳が静かに光を失い、

代わりに――青紫の光がゆっくりと宿っていく。


『ありがとう、ミラ。実はね、隠してたことがあるんだ』

「なーに?」

『見てて』


ミレイの手の中で、シャボン玉銃が淡く光を帯びる。

「目覚めよ、共鳴の極光――双極光銃ツインレイ・アーク!」


プラスチックの筒が液体のように溶け、

その中から、二丁の光銃が姿を現した。


「なにこれ……ヒーローみたい!」

『いいえ、私たちは――ヒーローだったの』


ミレイは光銃のひとつを構え、静かに息を吸う。

その瞳の青紫が、壁の向こうの光を映した。

右光環ライトアークは、闇を切り裂き、前へ進むための光!」


次の瞬間――

神々しい閃光がほとばしった。

音もなく、壁が裂ける。

光の粒が弾けて、風が流れこむ。


それは悲鳴の光ではない。

痛みではなく、希望の光。


光はまっすぐに壁を貫き、

——外の世界への扉を開いた。



ミラは立ち止まり、自分の手を小さく“ぎゅっ”と握った。

(先生の合図。いまは、自分が自分に。)


遠くで“ユラン、ユラン”。

その音は子守歌のようで、でも——前へ進む合図にも聞こえた。


そのとき、白い地面が静かに波打ち、閉じはじめる。


「大丈夫。いくよ」


胸の奥で、ミレイがそっとうなずく。

光が開き、風が鳴る。


ミラは——外の世界へ、一歩、踏み出した。



夜。園舎は静か。

マリア先生は窓辺に座り、腕の中でさっきの毛布を抱く。

「眠ることは、やさしくなる練習」——昼に子どもたちへ渡した言葉を、今度は自分に。

エミリー先生がそっと近づく。

「監視センターから連絡。システムは完全に安定したって。でも……ミラちゃん、信号ロストのまま」

「……そう。ありがとう。波形が息をしている限り、道はまだ閉じてないわ」

「センターには、変化があったらすぐ知らせてもらうようお願いしておいた」

「ありがとう。……まだ繋がってると思う」


灯りをひとつだけ残して、マリアは胸の前で空気を“ぎゅっ”。

「ミラちゃん。ここにいるよ。——届くでしょう?」

風がカーテンを揺らし、その奥でほんのかすかなささやきがした気がした。

——せんせ。

「うん、ここに」

——あしたも、あそぼうね。

「ええ。あしたも、いっしょに」



その夜、園のログは静かに積もった。

〈バックアップ切替:完了〉

〈異常経路:遮断〉

〈状態:ロールバック完了〉

ただ一行だけ、違う記録。

〈node 30——外部にて微弱信号継続〉


マリアは知っている。合図は届く。

たとえ離れていても、ぎゅっと手を握れば、必ず——いつか、届く。

だから窓辺に毛布を置き、先生は目を閉じた。

世界はすこし冷たい。けれど、抱きしめる腕はあたたかい。

その温度差のあいだで、やさしく呼吸を続ける。


——そして遠く、白い膜の向こうで。

シャボン玉の帯は細い道になり、風は“帰れる方角”を示し続けていた。

ミラはその道を、先生のぬくもりを探すように、まっすぐ走っていく。



🕊 次回予告


第33話 ノイズの海で


行方不明から帰還したヒーロー・ミラ。

その功績の裏で、匿名の声が彼女を断罪する。

“怪人と癒着している”“帰還地点は謎”――

妄想が拡散するSNSの海で、彼女はひとり夜と向き合う。

指先の小さな“合図”とともに、再び光はやさしさを取り戻す。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る