第19話 光を描く少年と、光を奏でる少女
保育園の朝は、いつもやさしい光で始まる。
子どもたちの笑い声、先生たちの呼びかけ、
そして――ミラの静かな笑顔。
彼女は今日も、誰よりも早く笑ってみせる。
それが、泣かない日の始まりだった。
廊下の隅で、ミラが転んだ。
小さな靴がすべって、膝をすりむく。
擦り傷の赤が、幼い肌の上でじんと滲んだ。
「ミラちゃん!」
すぐにエミリー先生が駆け寄る。
抱き上げられたミラは、一瞬、ぐしゃっと顔を歪めた。
目の奥が熱くなって、今にも涙があふれそうになる。
けれど――彼女はそれを、ぐっと飲み込んだ。
胸の奥を押さえるように息を止め、
喉の奥が焼けるほどきゅっと固くなる。
震える唇をひき結び、無理に笑った。
「だいじょうぶ……泣いてないよ。」
「……痛くないの?」
「うん、ぜんぜん!」
その声は明るいけれど、どこか震えていた。
エミリー先生はそっと膝を拭きながら言う。
「ミラちゃん、痛かったら“痛い”って言っていいのよ。」
「でも……泣いたら、みんな困るでしょ。」
先生は一瞬、手を止めた。
そして、小さくため息をついて、微笑んだ。
「困らないわ。泣いてもいいの。
泣くことって、わるいことじゃないのよ。」
その言葉に、ミラは少しだけまばたきをした。
けれど次の瞬間、また笑ってしまった。
「……だいじょうぶ。もう痛くないもん。」
エミリー先生は、膝を拭く手をそっと止めた。
その笑顔の奥に、ふと違和感を覚えたのだ。
(……この子、痛みをごまかしてる。
“泣かない”ことを、まるで義務みたいに守ってる……)
指先で絆創膏を押さえながら、
先生の胸に小さな痛みが走る。
それは以前、マリア先生から聞いた“分析結果”と
同じものだった。
(感情を分けてるのね……悲しみも怒りも、
誰かに“預けて”生きてきた子。
本当の心を隠したまま、笑顔だけを残して……)
目の前のミラは、泣かずに笑っている。
けれどその瞳の奥には、
泣けなかった誰か――ミレイの影が、確かに揺れていた。
先生は何も言わず、頭をそっと撫でた。
「……痛かったね。」
その一言に、ほんの少しの祈りを込めて。
絆創膏を貼る指先がやさしくて、
そのぬくもりが逆に胸を締めつけた。
近くで見ていたカノンが、小声でつぶやく。
「ミラちゃん、えらいね……」
その言葉にミラは、また少しだけ笑って見せた。
――そのとき。
胸の奥から、声がした。
『また笑った。
結局、なにも変わってないんだね。』
それは、ミレイの声。
泣くことを許されなかったもうひとりの自分の声。
ミラは唇を噛みしめ、立ち上がった。
(……ちがう。泣きたくなんてないだけ。)
けれど、その言葉はどこかでひび割れたままだった。
⸻
昼下がりの保育園。
保育室には柔らかな陽が差し込み、
絵の具の匂いとクレヨンの色が混ざりあっていた。
ユウマは床に座り、白い画用紙いっぱいに保育園の風景を描いていた。
エミリー先生が子どもたちを見守り、
その奥のピアノには、内気なカノンちゃんの姿があった。
ユウマが立ち上がり、描き上げたばかりの絵を掲げる。
「できた!」
そこには、みんなの姿が描かれていた。
ブランコで遊ぶタクト、ピアノの前のカノン、
そして、笑っているミラ。
……ただ、ミラの目だけが、なぜか涙を浮かべていた。
「えっ……どうして、泣いてるの?」
ミラが首をかしげると、ユウマは少し恥ずかしそうに笑った。
「わかんない。でも……そう見えたんだ。」
カノンはその絵をじっと見つめ、
小さく息をのむように、そっと口を開いた。
「……泣いてる顔も、きれいだよ。」
ミラは答えに困って視線を落とす。
胸の奥で、なにかがかすかに疼いた。
その沈黙をやわらげるように、
エミリー先生が穏やかな声で言った。
「じゃあ、カノンちゃん。ピアノ、聴かせてくれる?」
カノンは少しだけ頷き、ピアノの前に座った。
⸻
カノンが鍵盤に指を伸ばす。
淡いプラチナブロンドが陽を受けてきらめき、
音が響くたびに髪の光もまた、かすかに揺れた。
その横顔は、ピアノの旋律そのもののように静かで澄んでいた。
ぽろん――
小さな音が、保育室の空気に染み込む。
少しずつ、音が連なっていく。
拙いけれど、まっすぐな旋律。
その曲には言葉がなかった。
でも、伝わってくる。
“だいじょうぶ”という気持ちが。
音の粒が光に変わるようで、
ミラには、部屋の空気がほんのり明るく見えた。
まるで心の奥の“何か”が、
少しだけ融け出していくように。
(あの夜の、冷たい闇も……
この音で、少しずつ薄れていく気がする。)
エミリー先生が静かに目を細める。
ユウマはその音を聴きながら、
もう一枚の紙を取り出して、またクレヨンを動かした。
ミラは机に頬杖をつき、ぼんやりとその光景を眺めていた。
――音が、胸の奥に染みていく。
(あの子、うたってる……言葉じゃなくて、心で。)
ミラはゆっくりとまぶたを伏せた。
音に包まれながら、胸の奥でなにかが溶けていくような感覚。
昨日まで痛んでいた場所が、少しずつ温かくなっていった。
⸻
音が止み、カノンがそっと手を下ろした。
「……どうだった?」
ミラは、まっすぐカノンを見た。
「すごく……きれいだった。
言葉より、ずっと優しかった。」
カノンは頬を赤らめ、うつむく。
「ピアノを弾いてるとね……
言葉よりも、自分の気持ちが出てくるの。」
その言葉を聞いて、ミラは小さく息を呑んだ。
(……わたしも、そうなれたらいいな。)
⸻
夕方。
オレンジ色の光がカーテンの隙間から差し込む。
エミリー先生が笑顔で声をかけた。
「今日はよく頑張ったわね。お片づけしましょう。」
カノンはピアノの蓋を閉め、
ユウマは絵を丁寧に並べていた。
ミラは二枚の絵を見比べる。
最初の一枚――泣いている自分。
そして、今描かれた二枚目――笑っている自分。
(どっちも、わたしなんだ。)
窓の外で、夕陽が揺らめく。
笑うことと泣くことは、同じ場所から生まれるんだと、
ほんの少しだけ理解できた気がした。
その理解の奥で、
ミレイの小さな声が、遠くで微かに笑った気がする。
“ようやく見つけたね”――そんな囁き。
胸の奥が、ほんのり温かくなる。
そのぬくもりに、
“もうひとりのわたし”――ミレイの存在を感じた気がした。
(これは、きっと……あの子の涙。)
ミラは、そっと微笑んだ。
もしこの笑顔を、あの子と一緒にできたなら。
泣くことも、少しは怖くなくなるかもしれない。
でも、その答えに辿りつくには、
もう少しだけ時間が必要だった。
⸻
保育室の片隅。
ユウマの絵の上で、二人の少女が並んで笑っている。
その笑顔の中には、昨日までの涙が静かに光っていた。
――光は、涙の中から生まれる。
そのことを、彼らはまだ知らない。
⸻
🕊 次回予告
第20話 アルバイトウォーズ!〜怪ミーさん高単価案件〜
高単価バイト案件に挑む若き日のキューティーグリズリー。
だが彼女の癒し系能力は、戦場をスパで満たしてしまう──。
「みんなが元気なら、それでいいの♡」
⸻
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