第14話 おひさまの行進曲
その日、園の空は雲ひとつなく、風もやさしかった。
午後の陽が、白いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
音楽室の中央に置かれた黒いグランドピアノが、
まるで深い湖のように光を映している。
「ねぇカノンちゃん、“ちょうちょ”ひいて!」
「つぎ“きらきらぼし”!」
「“どんぐりころころ”も〜!」
カノンちゃんのまわりには、園児たちの輪ができていた。
彼女は小さく微笑んで、コトリと椅子に座る。
ふわふわのプラチナブロンドが肩に流れ、まつ毛の影が頬に落ちた。
まるでロシアン人形が、そのままピアノの前にちょこんと座ったような可憐さだった。
「……うん、じゃあ、ぜんぶ順番にね。」
指が鍵盤に触れた瞬間、音が生まれた。
まるでガラスの粒が跳ねるような、透明な音。
ひとつ、ふたつ、みっつ――
童謡が連なり、音楽室がやさしい旋律に包まれる。
「わぁ……!」
「ほんとにカノンちゃんがひいてるの?」
園児たちは目を丸くして聴き入り、エミリー先生も微笑んでいた。
「すごいわね、カノンちゃん。音がきれいで、まるで風みたい。」
カノンちゃんは少しだけ恥ずかしそうにうなずいた。
でも、次のリクエストが飛んでくる。
「ねぇ、“おひさまの行進曲”ひける?」
――それは、幼児番組でよく流れる、明るくて華やかなクラシックの旋律。
テンポも早く、和音も多い。園児には少し難しい曲だった。
カノンちゃんは小さく息を吸い、頷いた。
「……うん、ひいてみるね。」
両手を構え、補助ペダルに足を乗せる。
グランドピアノの黒い鏡面が、彼女の小さな姿を映し出す。
指が鍵盤の上を流れ、軽やかな行進のリズムが生まれる。
タタタ、タン、タタタ――
“おひさまの行進曲”が音楽室いっぱいに広がる。
その音に合わせて、リリアちゃんが立ち上がった。
スカートの裾がふわりと広がり、足先が軽やかに跳ねる。
両手をひろげ、くるりと回るたび、ピアノの音と一緒に光が舞うようだった。
「わぁ〜、リリアちゃんすごーい!」
タクトが手をたたくと、ユウマも笑って言う。
「なんか、ほんとのステージみたいだね!」
リリアちゃんはくるりと回りながら、にっこり笑った。
「えへへっ、カノンねえねの音、だいすきなの! おひさまみたいにきらきらしてるんだもん!」
その言葉に、カノンちゃんの頬がほんのり染まる。
「ありがと、リリアちゃん。じゃあ、もっとキラキラにしなくちゃね。」
カノンちゃんの音に合わせて、リリアちゃんのステップが続く。
テンポが上がり、行進が盛り上がる――
だが、そのとき。
音が、ふっと途切れた。
リリアちゃんの動きも止まる。
右手が止まり、高音の鍵盤を探るように宙をさまよう。
「……あれ?」
カノンちゃんは首をかしげる。
眉を寄せ、もう一度弾こうとする。
けれど――届かない。
オクターブの端から端まで、指があと少しで届かない。
(おかしいな……頭の中では弾けるのに。)
その瞬間、胸の奥に何かがかすかにざわめいた。
“わかっているのに、できない”という不思議な感覚。
まるで、かつて持っていたものを手放してしまったような。
エミリー先生がそっと近づき、カノンちゃんの肩に手を置いた。
「大丈夫よ、カノンちゃん。そこは無理して弾かなくてもいいの。」
「……でも、前は……できたのに。」
「前?」
「ううん、なんでもないの。」
カノンちゃんは微笑もうとした。
けれど、その笑みは少しだけ揺れていた。
再び指が鍵盤をなぞる。
足りなかった音の代わりに、彼女は小さくハミングを重ねた。
やがて、音と声が重なり合って、新しい旋律が生まれる。
すると、その音に合わせて、リリアちゃんもまた踊り出す。
手をひらひらと振り、太陽の光をすくうように。
その動きに合わせて、止まっていた空気が再び流れ出す。
「カノンねえね、リリアね、ちゃんと届いたよ。ねえねの音、ここにあるもん!」
リリアちゃんは胸に手を当てて、笑った。
その声に、カノンちゃんの目がやわらかくほどける。
そこへ――
「よーし! 先生もまぜて〜っ!」
豪快な声とともに、音楽室のドアがガラリと開いた。
ベア先生が登場。
両肩には、それぞれレオンとレンが乗っている。
「うわー!」「ベアせんせー! たかーい!」
「せんせーもおどっちゃうぞー!」
ベア先生がリズムに合わせて大きくステップを踏むと、床がドン、ドンと揺れる。
でも、不思議とみんな笑顔。リリアちゃんの踊りもカノンちゃんの音も、ますます明るく響く。
「みんなー! “おひさまの行進”だー!」
ベア先生の声に合わせ、園児たちが手拍子を重ねる。
音が重なり、光がきらめき、
カノンちゃんのハミングが音楽室いっぱいに広がった。
エミリー先生はそっと息をついた。
(この子たち……ほんとうに、音でひとつになってる。)
最後の音が消えたあと、
カノンちゃんは静かに両手を膝の上に重ねた。
グランドピアノの蓋が、カタンと静かに閉まる。
窓の外。
風が花壇の花を揺らし、午後の日差しがやさしく彼女の髪を照らす。
――その瞳に、一瞬だけ空色の光が宿った。
⸻
🕊 次回予告
第15話 バブルガン
夕焼けの帰り道。
ワゴンに乗るのは、ひとりの少女――ミラ。
けれどその瞳の奥に宿るのは、もうひとつの心。
光はまだ、帰る場所を知らない。
⸻
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