第7話 光の中へ

お昼を過ぎて、教室にはあたたかい光が差し込んでいた。

窓の外では木の葉が揺れて、風がカーテンをふわりと膨らませる。

――でも、どこかいつもと違って見えた。


ミサキちゃんの席が、空いている。


朝、エミリー先生が言った。

「ミサキちゃんは、転園しました」

その言葉を聞いて、みんな「そっかぁ」とうなずいた。

でも、シホには少しだけ胸の奥がざわついた。


(きのうまで、いっしょにいたのに……)


積み木の塔を作るタクトの動きが、どこかぎこちない。

クレヨンを握ったまま、何も描かないユウマ。

そして、その様子をそっと見ているシホ。


(……なんだか、タクトくん、元気ないな)


やがて、タクトが口を押さえた。

顔が青ざめ、ゆっくり立ち上がる。


「せんせい……おなか、いたい……」


エミリー先生はすぐに駆け寄り、やさしく背中をさすった。

「まぁ……あらあら、今日は少し体調がすぐれないのね。

 大丈夫よ、ゆっくり休みましょうね〜」


先生に手を引かれ、タクトは小さくうなずいて教室を出ていった。

その背中を見送りながら、シホは胸の奥がざわつくのを感じていた。



保健室の前の廊下には、午後の光が静かに差し込んでいた。

カーテンの向こうから、マリア先生のやさしい声が聞こえる。


「お水を飲んで……そう、ゆっくりね。もう大丈夫だから」


シホは迷った末に、ドアの前に立った。

(少しだけ……顔、見ていこう)


そっと扉を開けると、

タクトがベッドの上で小さく丸まっていた。

マリア先生はタオルを整え、穏やかに微笑んでいる。


「少し寝たら、すぐ元気になるわ」


そう言ってマリア先生は出ていき、ドアが閉まった。

保健室には、二人きりの静けさが残る。



「……シホ」

タクトが顔を上げた。

その瞳はどこか遠くを見ているようだった。


「どうしたの? ちょっとびっくりしちゃった」

シホが小さく笑って近づく。

「お見舞い、ね。はい、これ」


ポケットから取り出したのは、小さな鳥のぬいぐるみ。

「“フクフクバード”っていうんだって。押すと“フクッ”て鳴くの」


シホがそっと押すと――

「フクッ」

くすぐったいような音がして、二人の間に小さな笑いが生まれた。


「泣いてる子を笑顔にするんだって。だからね、タクトくんにあげる」


タクトは少し驚いたように目を瞬かせた。

「……俺に?」


「うん。だって、タクトくん、さびしそうだったから」


タクトは視線を落とし、ぬいぐるみを両手で受け取った。

押すと、また“フクッ”と鳴いた。


「……ありがと」


「ふふっ、笑った!」

シホの声が弾む。

タクトもほんの少し、口元をゆるめた。


その時、ドアの外からマリア先生の声がした。

「シホちゃん、そろそろお部屋に戻りましょうか〜」


「はーい!」

シホは振り返り、もう一度タクトに笑いかけた。

「またあとでね」


タクトはうなずいて、手の中のぬいぐるみを見つめた。

小さな光が、その瞳に映る。



「フクッ……フクッ……」


保健室に響く、やさしい音。

タクトは目を閉じた。

まぶたの裏に浮かぶのは、笑っている誰かの姿。

園庭には、やわらかな光が差し込んでいた。


お散歩ワゴンが、いつものように門の方へと押されていく。

黄色い鉄枠。動物の絵がプリントされた布。

ピカピカの車輪がきらりと光る。

――中は空っぽ。それも、いつものこと。



ユウマは教室の窓際に立ち、外の光景を見ていた。

(……今だ)


先生たちは門の方に視線を向けている。

園児たちはお絵かきに夢中だ。


ユウマは静かに立ち上がり、ドアを開けた。

息を殺して廊下を抜ける。

目の前に、門。

差し込む光の向こうには、風と世界の気配がある。


ワゴンがちょうど外へ出ようとしていた。

ユウマはその瞬間を狙って――走り出した。


「これで! 出られ――」


――パシィン。


鈍い衝撃。

見えない壁に弾かれ、体が床に叩きつけられる。

空気が歪み、耳の奥で何かが軋むような音が響いた。


「……な、に……これ……!」


立ち上がろうとした瞬間、全身にしびれるような痛みが走る。

足元から淡い光の線が伸び、衣服の内側をすり抜けるように流れていく。

まるで“道”そのものが、彼の存在を確かめるように動いているかのようだった。


「や、だ……はなして……っ」


目に見えない力が、背中を押し返す。

息を吸おうとしても、胸の奥が硬く締めつけられる。

何かが、内側から自分を“書き換えよう”としていた。


「おそと……いくのに……っ!」


足元の光が脈打つ。

輪郭が崩れ、体の感覚がぼやけていく。

色も音も、ひとつずつ遠ざかっていった。


――そして、その声が聞こえた。


「ユウマくん、どうしたの?」


エミリー先生だった。

足音ひとつ立てず、いつの間にか後ろに立っていた。

微笑みはやさしい。けれど、その瞳は底の見えない静けさをたたえている。


「そんなところで転んで……あらあら、泣きそうなお顔ね」

そっとユウマの頬をなでる。


「だ、だいじょぶ……ぼく……」

「無理しなくていいのよ」


ふらりと体が傾き、先生の腕の中におさまる。

やわらかな声が耳元で響く。


「さぁ、もう大丈夫。少し休みましょうね」


先生の腕に抱きとめられる。

耳元で、やさしい歌声が流れた。


――子守唄。


穏やかな声。

あたたかく、どこか懐かしい響き。


ユウマの視界がゆっくりとぼやける。

胸の鼓動が遠ざかり、手の感覚が薄れていく。


光が満ちる。

体が淡く包まれ、空気が柔らかく震えた。


ユウマの小さな指が、先生のエプロンを握る。

そのまま――光の中に、溶けていった。


午後の陽射しが揺れる。

園庭には、いつもと変わらない笑い声が戻ってきた。



――微かな電子音。

暗い部屋の中で、複数の光点がゆらめく。


〈node 5、障害発生。第2層および第3層に破損を確認〉

〈特に第3層整合率の低下が著しい〉


沈黙。

ひとつの声が低く応じる。


〈修復は可能か〉


短い沈黙ののち、応答が返る。

わずかに人間的なため息を混ぜて。


〈隔離、……時間をかければ、回復の見込みあり〉

〈ただし、現行出力での維持は困難〉


〈了解〉


〈node 8、全層安定。出力波形、標準値を超過〉

〈第2層・第3層とも完全に同期〉


〈……ならば、ロールの一時置換を検討〉

〈つまり5を下げて、8を上げる〉

〈一時的なリプレイスとして〉


〈判断を待つ〉


しばしの静寂。

別の声が、わずかに低く応じた。


〈現場判断で問題ない〉


電子音がひとつ、短く鳴る。

〈観測を継続〉


通信が切れる。

無音の闇の中、心拍のような電子音だけが、かすかに続いていた。


🕊 次回予告


第8話 みんなの笑顔が、少しでも長く続きますように


お昼のあとの、のんびりした保育園。

積み木に、ぬいぐるみ、ミルクの時間。

子どもたちは笑い合い、先生の声がやさしく響く。

――みんなの笑顔が、少しでも長く続きますように。


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