第6話 お話の中のユウマくん
お昼ごはんが終わって、教室にはカレーの匂いがまだ少し残っていた。
陽の当たる窓辺には、いつものように白い柵のベビーベッド。
ふわふわの毛布がかけられ、その上で小さな手がぱたぱた揺れている――レンちゃんだ。
淡い銀髪が陽の光を受けて、ふわりと透ける。
長いまつげの影が頬に落ち、群青の瞳がきらきらと瞬いた。
毛布の隙間からのぞく小さな足が、まるで空を蹴るように動いている。
「順番ね〜、やさしく触ってあげてね」
柔らかい声が保育室に響く。
白と淡いピンクを基調としたエプロンを着たおほしさま組の担任・マリア先生が、
赤ちゃん用のベッドのそばで手を振っていた。
肩のあたりでふんわりと波打つ淡い栗色の髪。
落ち着いた琥珀色の瞳が、まるで春の午後の光みたいにやさしい。
エプロンの胸元には、小さなクマの刺繍。
その穏やかな笑顔だけで、部屋の空気がふわっと和らぐ。
「レンちゃん、気持ちいいねぇ」
マリア先生の声に、レンちゃんは声にならない笑いを返す。
その笑顔はあまりに無垢で、見ているだけで胸の奥があたたかくなるようだった。
「レンちゃーん!」
ミサポンが椅子からぴょんと降りて駆け寄った。
ベッドのそばには、小さなおもちゃと布のボール。
園では、みんなが“やさしく”をお約束に、自由に赤ちゃんと触れ合っていいのだ。
ユウマもそっと覗きこむと、レンちゃんはきょろっと目を動かして、ユウマの指をぎゅっと握った。
「……おっ」
思わず笑みがこぼれる。
「レンちゃんは果敢だね〜」
そう言うと、レンちゃんは嬉しそうに「あうー」と声を出し、もう片方の手で布ボールをつかもうとする。
ミサポンが「いないいない……ばあっ!」とやると、ベッドの中から可愛い笑い声が弾けた。
教室の真ん中では、タクトが積み木で高い塔を作っている。
そこへ、淡い茶色の髪を肩のあたりでまとめた女の子が近づいてきた。
優しい目をしていて、笑うとまつげの影が頬に落ちる。
シホ――落ち着いた雰囲気で、どこか“お姉さん”のような子だ。
「タクトくん、ここ、支えてあげる」
「助かる! シホ、やっぱり上手いな」
ふたりは息がぴったりだ。
ミサポンがちらりと見て、「わたしも手伝う〜」と近づくと、
タクトは嬉しそうに「じゃあ門を作って!」と積み木を渡した。
シホは小さく笑い、タクトの袖をくいっとつまむ。
――タクトはシホと話すとき、少しだけ声が優しい。
お昼の時間が終わって、教室の中はぽかぽかしていた。
ミサポンはぬいぐるみを並べ、タクトとシホは積み木を積んで遊んでいる。
笑い声が広がる中で――ユウマだけが、ひとり窓際にいた。
机の上にはクレヨンと、描きかけの空の絵。
「……別に、描く気なんてないけど」
そうつぶやきながら、ユウマは外をぼんやり眺めていた。
そこに、やさしい足音が近づく。
エミリー先生だ。
「ユウマくん、どうしたの? なんだか退屈そうね」
ユウマは少し考えてから、肩をすくめた。
「ううん……ちょっと、絵が思いつかなくて。」
「そうなのね。じゃあ少し気分転換をしましょうか」
微笑んだ先生が、本棚から一冊の絵本を取り出した。
表紙には、森と、笑っている動物たち。
「先生ね、このお話を読もうと思ってたの。聞いてみる?」
ユウマは少し口を尖らせて言った。
「えっと……ぼく、もうそういうのは小さい子が見るものでしょ?」
でも、言ったあと少しだけ気まずそうに笑った。
先生はくすっと笑って、そっと椅子を引き寄せた。
「じゃあ、この主人公、今日は“ユウマくん”にしてみようか?」
「え?」
「この子ね、名前がまだないの。だから今日だけ特別に、“ユウマくん”にしちゃおう」
ユウマは目をぱちぱちさせて、
「……へんなの」と言いつつも、先生の隣に座った。
先生がページを開くと、部屋の空気が少しだけやわらかくなった。
「森の中に、かわいい動物さんたちがいました。
みんな仲良しで、毎日たのしく遊んでいました」
ユウマは腕を組んでそっぽを向く――が、
ふと絵の中の草花が鮮やかに見えて、つい目を凝らしてしまう。
「うさぎさんがぴょんぴょん! ことりさんがぴぴっ!」
先生の声が優しく響くと、ページの動物たちが動いた――そんな“気がした”。
ユウマは思わず笑ってしまう。
「……ほんとにぴょんぴょんしてるみたい」
「ふふ、そうでしょう?」
ページが一枚進むたび、ユウマの背すじが、糸に引かれるみたいに前へ寄った。
「わぁ! くまさんでっけぇ!」
「おおきいねぇ〜、力もちさんだねぇ」
「ことりさん、あっち飛んでった!」
「どこ行くのかなぁ? 追いかけてみようか?」
ユウマは笑いながら立ち上がり、絵本の世界を追うように身を乗り出す。
声がいつの間にか高く、楽しげに変わっていた。
「ある日、森に“暴れん坊の大人”がやってきました」
「わるいひとだ!」と、ユウマが叫ぶ。
先生がにっこり笑ってうなずく。
「そうね。でもね、そこに小さな男の子――“ユウマくん”が立ち上がったの」
「ぼ、ぼくが!? がんばる!」
「うん、ユウマくんはみんなを守って、暴れん坊を追い出しました」
「やったーっ!」
小さな手を握りしめ、ユウマは椅子の上で飛び跳ねた。
「そしてね……夜になりました」
先生の声が少しだけ柔らかくなった。
「動物さんたちは、ユウマくんといっしょに夜空を見上げました。
お星さまがいっぱいで、みんなキラキラしていたの」
ユウマは天井を見上げながら、ぽつりと言う。
「ほんとに見えそうだね……」
「そうね。うさぎさんが歌って、ことりさんが踊って、くまさんが拍手をしました。
“ユウマくん、ありがとう!”って言ってね、みんなで楽しい夜のパーティーをしたの」
「パーティー!」と、ユウマが笑う。
声がはしゃいで、頬がほんのり赤く染まっている。
先生は続ける。
「みんなお腹いっぱいになって、やがて“おやすみなさい”の時間になりました。
ユウマくんも、みんなのまんなかで、目をとじました。
――楽しい夢を見ながら、ぐっすり眠りました」
読み終えた瞬間、ユウマは夢から覚めたように瞬きをした。
頬がほんのり赤く、息が弾んでいる。
絵本の光だけが、胸の奥でしばらく消えずに揺れていた。
その光が消えないうちに、何かを描きたくなる――そんな気がした。
「……な、なんか変な話だったな」
「ふふ、そうかしら? ユウマくん、とっても楽しそうだったわ」
「そ、そんなことないしっ!」
顔を真っ赤にしてそっぽを向くユウマに、先生は優しく微笑む。
「でもね、ユウマくん。お話って、心をやわらかくしてくれるの。
むずかしいことを考えてるときほど、少し“子ども”に戻るといいのよ。」
ユウマは首をかしげる。
「子どもに……戻る?」
「ええ、そう。そうすると、もっと楽しく過ごせるから」
先生はそのままやさしく頭を撫でた。
「今のユウマくん、いちばん“ユウマくんらしい”顔をしてるわ」
ユウマは頬を赤らめて、そっぽを向く。
「べ、べつに……!」
窓の外にはやわらかな午後の光。
ほかの園児たちの笑い声が遠くで響く。
ユウマの机の上では、絵本が静かに閉じられていた。
教室の真ん中では、塔がついに完成する。
「できたー!」
タクトが両手を上げ、シホがぱちぱちと拍手する。
少し離れた場所で、お人形を並べて遊んでいたミサポンが、声につられて振り向いた。
「えっ、もうできたの? ずるーい!」
「見て見て! ほら、門までつくったんだぞ!」
タクトが胸を張ると、ミサポンはとことこと駆け寄り、勢いよく跳ねた拍子にタクトの袖に少しだけぶら下がる。
シホがくすっと笑って、その手をやさしく取った。
「ミサキちゃんも、いっしょ」
塔の積み木がカタリと揺れ、三人の笑い声が重なる。
午後の光がカーテンを透かし、床に四角い光を落としていた。
少し離れた窓際で、ユウマは机に向かっていた。
クレヨンの先が、白い紙の上をすべる。
「何を描いてるの?」とエミリー先生がそっと尋ねる。
ユウマは少し照れたように笑った。
「さっきの絵本の、つづき……」
「森の夜のあと、朝がくるとこを描いてるんだ」
先生はやわらかく頷き、「すてきね」と小さくつぶやいた。
夕陽が差し込んで、画用紙の上で色が光る。
クレヨンが一筋走るたび、紙の上で朝が少しずつ明るくなる。
⸻
夜。
寄宿舎の廊下には、足元灯だけが淡く灯っていた。
子どもたちの寝息が重なり、園全体が静かに息をひそめている。
そのとき――。
エミリー先生のスマホが、小さく震えた。
「……はい、こちらエミリーです」
受信音の向こうからは無機質な声。
『node 3、出力エネルギーが警告値を下回りました。
状態を確認してください』
しばらく沈黙。
エミリー先生は目を伏せ、
小さく息を吸い込んだ。
「……わかりました」
通話を切る手が、かすかに震えている。
窓の外では、風が園庭の砂を揺らしていた。
その瞳に、
ほんの少し――悲しさにも似た光がよぎる。
先生は静かに立ち上がり、
宿直室の扉を開けた。
夜の園に、
冷たい静けさだけが残った。
⸻
夜の園を、ひとすじの風が通り抜ける。
寄宿舎の寝室には、常夜灯がやわらかく灯っていた。
子どもたちの寝息が重なり、空気がふわりと温かい。
その中で――タクトが、ふと目を覚ました。
胸のあたりが少しむずむずして、
毛布をめくると、下腹がきゅっと縮む。
「……おしっこ」
彼はそっとベッドを抜け出した。
スリッパを履く音を立てないように、
両手で体を支えながら廊下へ出る。
足元灯が淡く灯り、
長い廊下の奥に影がいくつも重なっていた。
トイレの扉を開け、
小さな音で水が流れる。
手を洗って顔を上げると、
鏡の中の自分がぼんやりと揺れていた。
まだ少し眠たそうな目。
そのとき――ふと気づく。
廊下の向こう、お世話室の扉が
ほんの少しだけ、開いていた。
中から、
かすかな明かりが漏れている。
やさしいけれど、不思議な光。
(……誰か、いるの?)
タクトは首をかしげながら、
ゆっくりと近づいた。
足元灯が、彼の影を長く伸ばす。
お世話室の前に立ち、
息をひとつのむ。
そして――
そっと、扉のすき間を覗き込んだ。
⸻
次回予告
第7話 光の中へ
午後のやさしい光の中、静かに動き出すお散歩ワゴン。
それはいつもの、何気ない光景のはずだった――。
けれど、ユウマの心には、かすかな違和感が芽生えていた。
「いまなら……出られるかもしれない」
その先にあるのは、夢か、それとも――。
⸻
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