第5話 赤ちゃんのゆりかご
夜の帳が静かに降りるころ。街の外れにある大きな洋館に、やわらかな灯がともっていた。
深紅のカーペットを照らすシャンデリアの光は、まるで金色のゆりかごのように揺れている。
「……もうすぐ来るわ」
夫人が胸に手を当てて小さくつぶやく。その声には、長い年月を待ち続けた人の震えが混じっていた。
指先は少し冷たい。けれど、胸の奥は燃えるように熱い。ひとつの季節が終わり、今日、新しい時間が始まる。
彼女はその予感を、まるで祈りのように受け止めていた。
窓の外では、冬の名残を残した風が木々の枝を揺らし、遠くで教会の鐘がゆっくりと鳴り響いている。
その音が、まるで新しい命の前奏曲のように思えた。
「やっと……家族になれるんだな」
隣で夫が微笑む。その目には、誇りと安堵が入り混じっている。
彼もまた、長い年月を経てようやく手にした“日常”を、信じられない思いで見つめていた。
夫は手元の懐中時計を開き、針が時を刻むたびに小さく息を整えた。
「この音も……今日からは違って聞こえるな。」
この夫婦は、長年子どもに恵まれなかった。
財も地位も手にしたが、どんなに豪奢な部屋も、子どもの笑い声のない家は寂しいものだった。
食卓に二人分の皿を並べるたび、もうひとつの小さな席を思い浮かべては、そっと手を止めたこともあった。
夫人は、夜遅くにふと起きては、空っぽの子ども部屋を見つめた。
まだ新しい木の香りが残る小さなベッド。カーテン越しの月明かりが床を照らし、彼女の影を長く伸ばしていた。
玄関のベルが鳴る。重厚な音が廊下を震わせ、屋敷の時計が一度だけ鳴いた。
夫が立ち上がり、扉を開ける。
外には黒いコートの職員が立っていた。その腕には、毛布に包まれた小さな命が眠っている。
「こちらが……お約束のお子さまです。」
淡々とした声。形式的な言葉なのに、どこか冷たさを帯びている。
けれど、その冷たさが現実感を与えた。夢ではない。確かにここに――“わが子”がいる。
「まあ……」
夫人は息をのんだ。毛布の隙間からのぞいた顔は、まだ世界の光を知らぬまま、穏やかに夢を見ているようだった。
淡く金の糸を編んだような髪が、ランプの灯に照らされてきらりと光る。
長いまつ毛の影が頬にやさしく落ち、透き通るような肌の上を、微かなぬくもりが流れていく。
その寝顔は、氷の国で見つけたひと粒の春――触れれば溶けてしまいそうな、儚い温度をまとっていた。
夫は小さく息をのむ。
「こんなに小さな存在が……人の心を救うんだな。」
「なんて……なんて可愛らしい子……」
夫人はそっと抱き上げた。その瞬間、小さな手が指をぎゅっと掴む。
温もりが、指先から胸の奥へと流れ込んでいく。ほんの一瞬のことだったが、世界のすべてがその手に集まるような感覚。
夫もその光景に目を細めた。
「まるで……天使だな。」
夫人の頬を伝う涙が、赤子の毛布にひと粒落ちる。
そのしずくは、ゆっくりと滲み、まるで祝福の印のように輝いた。
暖炉の前。夫人は赤ん坊を抱きながら椅子に腰を下ろす。
赤子の呼吸は、朝霧のなかで立ちのぼる湯気のように静かで、
そのたびに胸元で、やわらかなぬくもりが広がっていく。
確かに生きている――そう感じさせる、穏やかなリズム。
それはこの家に初めて宿った、やさしい心音だった。
夫は火かき棒で薪を動かし、ぱちり、と小さな火花が舞う。
橙の光が壁に揺れ、二人の影がゆっくりと重なっていく。
背後のテレビでは、淡々とニュースが流れていた。
『本日、ヒーロー連合所属の“
政府は現在、戦闘の詳細を調査中です――』
夫は眉をひそめ、音量を下げた。
「まったく……ヒーローですら敗れる時代か。」
声の奥には、世の中への疲れが滲んでいた。
「でも、きっとまた立ち上がるわ。」
夫人は静かに言った。その声は、胸に抱いた命へと語りかけるようでもあった。
「この子には、戦いのない世界を見せてあげたいの。」
その言葉を聞いた夫は、目を伏せて微笑んだ。
「そうだな……この子の笑い声が、この国の未来に響く日が来るといい。」
赤子のまぶたがかすかに震えた。まるで母の言葉を理解しているかのように、ふっと口角がゆるむ。
その笑みは、夜明けの光よりもやさしい。
その瞬間、夫人の中で何かがほどける。長い間、張りつめていた心の糸が切れ、
代わりに、あたたかな涙が頬を伝った。
この瞬間だけは、世界の痛みも悲しみも、すべて眠っているように感じられた。
遠くの空で雷鳴のような音が微かに響くが、この部屋には届かない。
まるで、この小さな命を包むために、夜そのものが祈りを捧げているようだった。
黒服の職員は静かに一礼し、屋敷を後にする。
外に出ると、夜風が吹き抜け、彼のコートを揺らした。
携帯電話を耳に当て、短く報告を始める。
「……はい。無事に引き渡しました。登録は正式な養子縁組として処理済みです。
……ええ、“あの方”にも伝えてあります。」
通話を切る。その顔には、感情のかけらもない。
街灯の下、彼の影は一瞬だけ歪み、やがて闇の中へと溶けていった。
そして風の中に、かすかに聞こえた。――赤子の泣き声。
彼は一瞬だけ足を止めるが、振り返らない。ただ夜の闇へと消えていく。
暖炉の灯が静かに揺れる。夫人は赤ん坊を胸に抱き、優しく子守唄を口ずさむ。
♪ ねんねんころりよ おころりよ……
炎のゆらめきが、母子の頬を照らす。
夫はその横顔を見つめながら、言葉にならない祈りを胸に込めた。
「……ありがとう。」
その声に応えるように、炎がふっと揺れた。赤子の寝息が重なり、家の中にあたたかな音が満ちていく。
窓の外では雲の切れ間に星がこぼれ、古い振り子時計の律動が子守唄に混じる。二人は、その小さな寝息に合わせて呼吸を整え、静かな長い夜の始まりを受け入れた。
外の世界では――ヒーロー敗北の速報が何度も流れていた。
けれどこの部屋だけは、まるで夢の中のように、静かで穏やかだった。
暖炉の炎が、小さな太陽のようにゆらめいていた。
そして、その光に包まれた小さな命が、静かに、初めての夜を迎えていた。
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🕊 次回予告
第6話 お話の中のユウマくん
午後の光と、絵本のページ。
声のやわらかさに、世界がゆっくりとかすんでいく。
ユウマくんは、森の中をかける主人公になりました。
うさぎさん、くまさん、ことりさん――
みんなで見上げた夜空は、夢みたいにきれいで。
やさしくて、どこかふしぎな保育園の午後のお話。
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