第4話 はじめましての歌

おひるねの時間。

カーテンの隙間から、やわらかな光が教室にこぼれていた。

子どもたちの寝息が、春の風のように静かに重なり合っている。


その真ん中で、ミサポンは小さな毛布にくるまって眠っていた。

頬はうっすら桃色に染まり、指をくわえたまま、夢の中で何かをつぶやいている。

唇の端がときどきふわりとゆるみ、ほっぺがかすかにふくらんだ。


まつげの影が頬をなで、光を受けてきらめく。

まるで春の雲の上に降り立った天使が、ひとやすみしているかのようだった。

その寝顔を見て、隣の子がそっと毛布を直してやる。

ミサポンはくすぐったそうに小さく身じろぎし、それでもまた夢へと沈んでいった。


――世界のどこよりも、静かでやさしい時間が流れていた。



やがてチャイムが鳴り、先生の声が響く。

「起きる時間ですよ〜。おひるね、おしまい〜」


子どもたちがゆっくりと体を起こしていく。

ミサポンは毛布をたたみながら、むにゃっと欠伸をした。

まだ夢の続きを探しているような顔をしている。

瞼の奥では、さっきまで見ていた景色の残像がかすかに揺れていた。

光の中で誰かが笑っていたような――そんな気がして、胸がふわっと温かくなる。


タクトがくすっと笑って言った。

「なあミサポン、お昼寝のとき指しゃぶりしてたぞ〜!」


「してないもん!」

ミサポンは真っ赤になって毛布をぎゅっと抱きしめた。

「ちょっとだけ夢見てただけ!」

「赤ちゃんミサポン〜」

「もうっ!」


そのやり取りに、周りの子どもたちがくすくす笑う。

ユウマは笑いながら、テーブルの上のクレヨンを並べ直した。


彼の手元の画用紙には、さっき描きかけた“おうち”の絵。

ドアの前には、小さく「ただいま」と書かれた看板がある。

本人は気づいていなかったけれど、それはどこかで見た景色に似ていた。


――その時、入口のほうで先生の声がした。


「みんな〜、今日は“はじめまして”のおともだちがいるのよ」


視線が一斉に向く。

エミリー先生が小さな男の子を抱っこして入ってきた。

男の子はぎゅっと先生のエプロンを握りしめ、目に涙をためている。


「みんな、新しいおともだちよ。仲よくしてあげてね〜」


男の子は震える声で、泣きながら叫んだ。

「やめろっ……なんか……おかしい……!」


教室の空気が一瞬止まる。

ミサポンが目を丸くし、タクトが「え?」と小さくつぶやいた。


エミリー先生は、いつもと変わらないやさしい笑顔で男の子の背中をとんとんした。

「お注射、痛かったかな? ごめんね〜。入園のときはみんな打つのよ。

悪い風邪が流行ったら大変だからね」


ざわ……っと園児たちがさざめいた。


「注射って、ちょっと痛いよな〜」

「あれ、ぼくも泣いちゃった〜」

「お注射きらーい!」

「ねー、わかるー!」

「でもがんばったねー!」


子どもたちの声が重なり、空気が少しだけやわらぐ。

ユウマが小さく手を上げた。

「僕、知ってるよ。予防接種っていうんだ!」


「ふふ、ユウマくんは物知りね。将来はお医者さんかな?」

「えへん!」と胸を張るユウマ。

まわりの園児たちは「すごーい!」と拍手した。


「じゃあ、ちゃんとごあいさつしようね」

先生が男の子をおろすと、彼は不安そうにきょろきょろと見回し、

それでも「……は、はじめまして」と小さな声で言った。


「いっしょにあそぼ!」

ミサポンがまっさきに駆け寄って、手を差し出す。

「おれも! ブロック名人だぞ〜」

タクトも続く。


ユウマは一歩近づいて、ゆっくり笑った。

「こっちにおいで。いまおうちつくってるんだ」


男の子はためらいがちに、ユウマのほうへと歩き出す。

先生は少し離れたところで見守りながら、そっと頷いた。


「みんな、ありがと。じゃあ――はじめましての歌、うたおうか」


手拍子とハミングのようなやさしいメロディが教室に広がる。

ユウマは歌いながら、ふとさっきの言葉を思い出す。

(……やめろっ……なんか……おかしい……)


胸の奥で小さく波が立つ。

けれど、すぐに首を振って笑顔を作った。


「せーの!」

ミサポンの合図で、歌声が少し大きくなる。

男の子の表情から、少しずつ強ばりが消えていった。


エミリー先生は静かに目を閉じ、歌のリズムに合わせて小さく口ずさむ。

その頬を照らす光は、どこか哀しげで――けれど確かにやさしかった。


「上手に歌えたね〜。じゃあ、午後のおやつにしよっか」

「やったー!」


歓声が上がる。クッキーの袋を配る先生の後ろで、セラフィン先生がそっと立っていた。

「……少し心配ですね」

「ええ」エミリー先生が小声で答える。「でも、きっとそのうち馴染めます。子どもたちは無邪気ですから」


窓の外では、風車がカラカラと音を立てて回っていた。



おやつのあと、園庭に出ると空が少し赤く染まり始めていた。

ミサポンが砂をこねて、もう一度お城を作る。

ユウマは隣で、その形を直してやる。

タクトはブロックを持ち出して「これは要塞だ!」と笑った。


新しい男の子――リク、と名乗った――は少し離れたところでその様子を見ていた。

ユウマが声をかける。

「いっしょに作ろっか?」

リクはためらいながらも、砂に手を伸ばす。

その手が少し震えていたが、ユウマが笑うと、少しだけ力が抜けた。


「……へたっぴだな」

「じゃあ教えてよ」

「うん」


二人の手の上で、砂がさらさらと流れる。

風が吹いて、花壇の花びらがひとひら舞った。

セラフィン先生はそれを見守りながら、胸の前で小さく手を組んだ。


ユウマはふと顔を上げ、空を見た。

風車の羽根が夕陽を受けてきらりと光る。

その光は、やわらかく園庭を包み込み、影が長く伸びていく。

ほんの一瞬、世界が金色に染まったように見えた。

風が頬をなで、やさしい匂いが流れていく。


セラフィン先生はそっと目を細めた。

子どもたちの笑い声が、風といっしょに空へ溶けていく。

それは祈りにも似た響きで、胸の奥の小さな痛みをやわらげた。

夕陽の光が髪を照らし、金色の粒がゆらめく。

――この瞬間だけは、すべてが救われているように見えた。


――その瞳の奥には、誰にも言えない祈りが宿っていた。



🕊 次回予告


第5話 赤ちゃんのゆりかご


子どもに恵まれなかった夫婦が、待ち望んだ夜。

やさしい灯と小さな命。

けれど、その“奇跡”の裏で、世界は静かに揺れていた。


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