第3話 ただいま、の声
午後の光が園庭を包み、風が花壇を優しく撫でていた。
花の匂いと土の匂いがまじりあい、どこか懐かしい午後の空気。
砂場の向こうでは、すべり台の影がゆっくりと伸びていく。
柔らかい風の中で、子どもたちの笑い声が跳ねた。
⸻
「ミサポン、それほんとにお城なの〜?」
タクトがスコップを片手に、どろどろの山を指さした。
「おしろだもんっ!」
ミサポンは胸を張って言い切る。
茶色の髪の毛に付いた砂がきらりと光る。
「でも……お堀のほうが立派だな」
「えー! そんなの関係ないもん!」
ユウマが苦笑しながら、山の形を手で整える。
陽の光がその金色の瞳に反射して、一瞬だけまぶしい。
その光景はまるで、砂の上に小さな王国が生まれたようだった。
笑い声が弾け、空に吸い込まれていく。
柔らかな午後の時間、日差しは少し傾きはじめていた。
空の青が少しずつ薄くなり、風が冷たく変わっていく。
⸻
そのとき――園の門の方から、ゴロゴロと車輪の音が聞こえてきた。
子どもたちが一斉に顔を上げる。
オレンジ色のワゴンが、ゆっくりと園の門をくぐってきた。
車輪が石畳を転がるたびに、かすかに鈴のような音が混じる。
その音は、まるでどこか遠い国から届く風鈴のように澄んでいた。
「わぁ……」
ミサポンが思わず声を上げた。
ワゴンを押していたのは、セラフィン先生だった。
淡い銀色の髪が風に揺れ、夕陽を受けてほんのりと金色に光る。
白いブラウスの上に、淡紫のエプロン。裾には小さなひよこの刺繍。
静かな微笑みをたたえたまま、彼女は園庭の中央でワゴンを止めた。
中には、同じ園児服を着た子どもたちが数人。
頬を少し赤くして、静かに周囲を見回している。
おさんぽの途中で見つけた小さな世界を、
まだ胸の奥にしまいきれない――そんな顔。
目に映るすべてが“はじめて”みたいに輝いて見えた。
「みんなー、到着〜。今日は風さんがちょっと強かったけど、よくがんばったわね〜」
セラフィン先生が優しく声をかけると、
子どもたちは小さな声で「……ただいま」とつぶやいた。
その声は、風の音に溶けていくように柔らかかった。
⸻
「おさんぽ、いいなぁ〜」
ミサポンがぽつりとつぶやく。
「抜け出しちゃおっか?」
タクトが悪戯っぽく笑う。
「ダメだって。先生が言ってたじゃん。お外は危ないんだってさ」
ユウマが真面目な顔で言うと、タクトは「ちぇ〜」と舌を出した。
セラフィン先生は三人に気づき、ふわりと微笑む。
「ちゃんとお留守番できたみたいね。お城、立派にできた?」
「できましたー!」
ミサポンが両手を上げる。
ユウマが小さく笑って、「……崩れそうですけどね」とつぶやいた。
先生はくすりと笑い、そっと膝を折って目線を合わせる。
「崩れちゃっても、また作ればいいのよ。
それが“帰ってくる”ってことなの」
「帰ってくる?」
ユウマが小首をかしげる。
「ええ。おさんぽのあとも、遊びのあとも、
“ただいま”って声があるから、安心できるの」
そう言って、先生はワゴンの子たちを優しく園舎へと導いた。
夕方の風が吹き、花壇の花びらがふわりと舞い上がる。
その瞬間、ユウマはふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
胸の奥に灯りがともるように――それは、まだ名前のない気持ちだった。
⸻
泥のついた手を洗いに行くと、蛇口から冷たい水が流れた。
ユウマは指先をこすりながら、先ほどの言葉を思い出す。
(“ただいま”……か)
水面に夕陽の光が映り、金色の波紋が広がっていく。
彼はその光のゆらぎを、しばらく黙って見つめた。
ふと、遠い記憶のようなものが胸をかすめる。
――誰かの声。誰かの「おかえり」。
それがいつの記憶なのか、自分でもわからない。
そこへ、セラフィン先生が静かに近づいてきた。
「お水、冷たくない?」
「だいじょうぶです」
彼女は少し微笑んで、手を拭くタオルを差し出した。
「ねえ、ユウマくん。お外ってね、ときどき心が迷子になっちゃう場所なの」
「……心が、迷子?」
先生の瞳はやさしく、でもどこか遠い。
「でも、“ただいま”って言葉があるとね、
心もちゃんと帰ってこられるの。声に出すって、大事なことなのよ」
ユウマはその言葉を聞きながら、水滴の落ちる音をぼんやり見つめた。
冷たい水が指先から流れ落ちて、地面に小さな丸い模様をつくる。
(心が……帰ってくる……)
なぜかその言葉が、静かに胸に残った。
そして、タオルのやわらかさの中に、
ほのかに花の香りがしたことも――なぜか強く記憶に残った。
⸻
夕暮れが近づくころ、園庭の影が長く伸びていく。
砂の城は半分ほど崩れていたけれど、誰も気にしていなかった。
風が吹くたび、崩れた砂が小さな丘のように積もっていく。
世界はゆっくりと夜の色へと染まりはじめていた。
「ユウマくん!」
ミサポンが走ってきて、笑顔で両手を広げる。
「おかえりなさ〜い!」
「どこから帰ってきたんだよ……」
呆れたように言いながらも、ユウマは笑った。
タクトが横から「“ただいま”って言ってよ!」と茶化す。
少し照れながら、ユウマは小さくつぶやいた。
「……ただいま」
その瞬間、ミサポンが満足そうに頷く。
「ね、いいでしょ?」
セラフィン先生は少し離れた場所でその様子を見ていた。
夕陽の光の中、風が彼女の髪をやさしく揺らす。
「……うん、いい声ね」
その言葉は、風に溶けて誰にも届かないほど小さかった。
でも、届かなくても、世界は少しだけ明るく見えた。
⸻
空は茜色に染まり、風車が回る音が微かに響く。
園庭のどこかで、鈴のような音が一度だけ鳴った。
ユウマはふと顔を上げる。
遠くの空には、まだ青が少しだけ残っていた。
その青の中で、ひとすじの飛行機雲がゆっくりと消えていく。
(あの線も、きっと“帰る”途中なんだろうか)――そんなことを思った。
やわらかな風が頬をなで、今日の一日がゆっくりと幕を下ろしていく。
園舎の奥から響く先生たちの声が、どこか遠くの子守唄のように感じられた。
風車がもう一度まわり、光の粒を散らす。
――きっと、明日も「ただいま」が待っている。
⸻
🕊 次回予告
第4話 はじめましての歌
新しいおともだちがやってきた日。
ちょっぴり泣き虫で、でもがんばり屋さんなその子に、みんなはすぐ興味しんしん。
お注射の話で盛り上がる教室は、今日もにぎやかであたたかい。
――いつもと同じ、やさしい午後。
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