第6話

 私は、彼と逆の方向に歩き出した。振り返りたかった。振り返りたくて仕方がなかった。でも、振り返ったら、きっと私の覚悟は崩れてしまう。

 彼の人生から、私という存在を消し去るために、私は泣き顔を見せてはいけなかった。後ろで彼が立ち止まったままなのも、分かっていたけれど。


 病気が進み、これまで通り高校に通うことはできなくなった。


 ある日、玄関で母親と話す彼の声が聞こえた。私は、部屋の窓から彼を眺めた。少し痩せた彼。もっと近くで会いたい。抱きしめたい。話したいこともいっぱいある。でも、会えない。私は、会ってはいけない。


 私はそっとカーテンを閉めた。




 その日からしばらくたった。

 最期の時が近づき、朦朧とする意識の中でも、彼が来てくれたことだけは分かった。



「よお」



 彼はあの頃と変わらない調子で声をかけてくれた。



「僕、知ってたんだよ。君の病気。」



 やっぱり、思った通りだった。馬鹿ね、私。

 彼には、全部お見通しだった。私の不器用な「別れ」も、全部。


 彼は、私の頬にそっと冷たいサイダーをくっつけた。

 ああ、懐かしい。初めて彼に触れた、あの日の冷たさ。


 彼が泣いている。蚊の鳴くような声で「ごめんね」と呟いている。



 謝らないで。あなたは私の意思を尊重してくれただけだから。あなたを巻き込ませたくなかった私の、最後のわがままを受け入れてくれただけだから。


 彼は、私のために開けたサイダーを枕元に置いた。

「乾杯」


 一人呟く彼の声。

 頬に触れたサイダーは、冷たいのに、なぜか温かい気がした。


 彼の目から、大粒の涙が零れ落ちる。私と別れて生きていく彼を、私はただ見つめることしかできない。


 ありがとう。


 心の中で呟いた言葉は、炭酸の泡となって溶けていった。


 

 彼は私の手を握ってくれた。混濁する意識の中で、私は力を込めて彼の手を握り返した。まだ、彼を愛しているという最期の証明のように。





 どれくらい時間が経っただろう。


「ごめんね。もう、そろそろ帰るよ。僕みたいなのがいても嫌だろうし。」


 立ち上がろうとする彼の手を、私は離せなかった。バランスを崩して、彼が私のベッドに倒れ込んできた。

 精一杯の力を振り絞って、彼の耳元にそっと「……いかないで」とささやく。


 彼から溢れ出す涙が、私の頬に打ち付ける。

 ああ、もう泣かないで。後悔しないで。


「大好き」

 私は彼に言った。


 彼は謝罪と愛の言葉を繰り返してくれた。その声は私の頭の中にどんどん入り込んでくる。でも、私はもう言葉を発することができなかった。



 私は彼の温かい手を握り続けた。私の意識が途絶えるその時まで。




 私にできたのは、ただそれだけだった。

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あの娘とサイダー 日向陸 @risaru_ohisama

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