第三十話:絶望の淵へ

村の空は、夕餉の煙がほどけていくのを待たずに群青へと沈んでいった。


「少し用事を済ませてきます」――そう言って笑ったまま、ファルは戻らない。


最初の一刻は、私は呑気に広場の縁石に腰掛けていた。戻ってきたら叱ってやろう、なんて考えながら。

二刻目。陽が落ち、井戸端の灯がともる。胸の奥がきゅっと縮む。

三刻目。酒場は賑わい、子どもたちは家へと引き取られ、犬の遠吠えが風の向きを変える。私は待つのをやめ、探す側になる。


「すみません、このくらいの背丈で黒髪の――」


「見てないねぇ。昼間は見かけたけど」


「こっちの路地には来てないよ」


「森へ行った人なら知らんこともないが……」


答えはどれも薄く、夜は濃くなっていく。

宿の前、井戸、露店あと、畑際、教会の影。歩くほどに心臓が速く、歩幅は小さくなる。

(どうして……どうして戻らないの)


足が止まったのは村はずれ、森へ続く小道の入口だった。闇が口を開けていて、吸い込まれそうで、怖い。

(でも、ここで止まったら、二度と会えない気がする)


その時だった。胸元が、ふっと温くなる。

サファイアのネックレスが、夜気の中でひそやかに灯り、淡い蒼が漏れる。


「え……?」


サファイアの中心から、髪の毛より細い光が一本、空間に糸を紡いだ。糸は震え、森の奥へ伸びていく。

呼吸が止まる。鼓動がうるさい。

(呼ばれてる。……行かなきゃ)


私は裾をつまみ、光の糸を追った。



---


森は夜になると知らない顔をする。昼に見たはずの疎林は音を失い、代わりに枝の擦れるかすかなさざめきが耳を撫でる。

靴裏が落葉を踏み、乾いた匂いが鼻に刺さる。

光の糸は頼りない。だけど、私が足を止めると弱まり、意地を張って一歩を踏み出すと、また少しだけ明るくなった。


枝の影が横切るたび、心に小さな穴が開く。私は息を数える。

一、二、三――走る。

四、五、六――転ばない。

七、八、九――泣かない。泣いたら光が見えなくなる気がする。


蒼い糸は時々ふっと薄れ、見失いそうになる。その度に私は胸のサファイアを両手で包み、目を閉じて深く息を吸った。

(大丈夫。行ける。私は行ける)

瞼の裏で、糸はまた細く光り、私を前へ引く。


どれくらい走っただろう。時間は夜の中で形を失う。

遠く――轟く。空気が震え、地の底の何かが目を覚ますみたいに、胸骨が内側から叩かれた。


雷鳴。

遅れて、樹間が赤く閃く。

炎。

吐く息が白く跳ね、霜の結晶が舞った。

氷。


(ファル……!)


私は最後の一歩を、闇に向かって蹴った。



---


同じころ、森の芯で。


剣が鳴る。乾いた、正確な音。

刃と刃が触れた瞬間に、火花と氷片と電光が混ざったものが弾ける。


三つの影が輪を作る。白、朱、蒼。

教会の魔術師最高位――炎、氷、雷の三柱。その足元には印が刻まれ、詠唱は短く、指先は正確だ。


輪の中心、黒いローブの男は――剣だけを持つ。

魔術の膜も、前振りもない。足さばきは静かで、背筋は伸び、呼吸は乱れない。

だが、攻めない。守る。受け流す。逸らす。潰す。


炎の弧を刃の面で刈り取り、氷槍の角度を寸分で外し、雷の走る線を最短の一歩で踏み外す。

奇術のように、そして舞のように。


「アルヴィト。魔術を使わぬとは、らしくないな」

炎を纏う男が、笑う。

「剣だけで、どこまで保つ?」

氷の女が、囁く。

「……弱い」

雷の青年が、低く言う。


黒い瞳が、わずかに揺れた。

(弱い、か。確かにそうだろうな…)

男――ファルは唇を結ぶ。


だが、攻めが来ない。攻めなければ、いつか疲れる。疲れれば、崩れる。崩れれば――。


「アルヴィト。インヴィクトゥスの報告にあった蒼の杯はどこだ?」

炎が、声を落とす。


剣筋が、ほんの一瞬だけ鈍った。

氷の刃が頬を掠め、冷たさが血を洗う。


「やはり、報告通りか」

雷の青年が目を細める。

「言葉は刃より深く刺さる、と教えられた」


ファルは剣を握り直す。だが腕の痺れは深く、膝はすでに土を覚え始めていた。



---


光の糸が、まるで誰かの指で弾かれたようにぴんと張った。

私は最後の茂みをかき分ける。


視界に、赤と白と蒼の閃光が同時に走った。

その中心で、黒い背が一つ。

剣を片手に、片膝をつく一歩手前――それでもまだ折れない背。


「ファル!」


声が夜を割った。

三つの影が同時にこちらを振り向く。


ファルが、振り返らないまま言う。

「――サラさん、下がって」


その声音は、いつもと同じ優しさで、同時に聞いたことのないほど硬かった。


私は足を踏み出そうとして――止まった。

視界いっぱいに広がる魔術の気配が、体を縫いとめる。


炎が渦を巻き、氷が尖り、雷が地を這う。

熱と冷気と痺れが一度に押し寄せ、肺が凍りつく。


(怖い……! 足が……動かない……!)


助けたいのに。叫びたいのに。震えが止まらない。


ファルの背はまだ折れていない。けれど、崩れるのは時間の問題。

絶望の色が、森全体を覆っていく。


私は胸元のサファイアを握り締めた。

けれど、その小さな光だけでは、この夜を切り裂くにはあまりに頼りなかった。


炎が渦を巻き、雷が地を裂き、氷が鋭く伸びる。

その気配に、私は足を竦ませた。


助けたいのに。叫びたいのに。肺が縮み、息が出ない。


氷の女が、唇をわずかに動かす。

その瞬間、鋭い氷槍が一直線に私を狙った。


「――っ!」


避けられない。

(結界を…!)

分かっているのに、手も足も動かない。


胸の奥が凍りつき、目を閉じかけた、その刹那。


「サラ!」


ファルの声。

次の瞬間、黒い影が私の前に飛び込む。


――氷が砕ける音ではなかった。

肉を裂く、冷たい衝撃音。


「……ぁ」


ファルの胸を、氷の刃が深々と貫いていた。

黒いローブが裂け、ファルの熱い血が、頬を伝い、まるで私が血の涙を流しているようだった。


「ファ、ル……?」


声にならない声が漏れる。

目の前の景色が、揺らいだ。


炎も、雷も、氷も。森も、大地も、星空さえも。


――世界そのものが悲鳴を上げているみたいに。


「約束…したでしょう?………何が、あっても……護る、と」


言葉を紡ぎながら崩れるファルを抱きとめ、私の視界が歪む。


「…ぁ……ぁ…う……………」


声にならない私の悲鳴と涙が、世界を歪ませる。

涙だけじゃない。

それは、夜空よりもなお深い黒の魔力だった。

奔流は形を取り、やがて巨大な翼となって私とファルを包み込む。


「……まったく。毎度待たせすぎなんですよ――カイゼル」


囁くように吐き出された声。

ファルの指先が私の胸元に触れ、サファイアのネックレスを優しくなぞる。

その名を呼ぶ声音は、どこか安堵を帯びていた。


翼の隙間から覗いた教会魔術師たちの表情は――

驚愕と恐怖に凍りついていた。

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