第三十一話:カイゼル・アルヴィト
私は、漆黒の翼に抱かれながら、声にならない叫びを上げ続けていた。
胸の奥が裂けるように痛む。息が苦しい。
虚ろな瞳で、それでも微笑もうとするファル。
彼の胸から溢れ出す血は止まらず、温かさを残したまま私の手を汚し、足元の土を黒く染めていく。
「や……ゃだ……やだ……やだよ……!」
喉が張り裂けても届かない。
現実を拒んでも、冷たさだけが確かに残る。意識が飛びそうになるのを、必死に繋ぎ止めた。
涙が止まらない。大粒の雫が、私の頬を伝い、ファルの頬を濡らす。
その雫にさえ、彼は微かに笑みを返してくれる。
(まだ……何も知らないのに……!私のことを……知ってもらってなに……!私……何も伝えてない……伝えてもらってない……!)
叫びにもならない声が、絶望の闇に飲み込まれていった。
その時――漆黒の龍が咆哮を上げ、翼を広げた。
「……こ、これは……!?」
「まさか……何故顕現した……!?」
魔術師たちは、倒れ伏すファルと、咆哮を上げた黒龍を交互に見比べ、恐怖と混乱に目を見開いた。
白、朱、蒼の三柱が一斉に結界を張る。
だが、その全てを塗り潰す影が森を覆う。
巨翼が広がるたび、風は嵐と化し、樹々を根こそぎ薙ぎ倒す。
鱗は夜空に散る星のように煌めき、その眼差しは千の刃より鋭い。
「黒龍……アルヴィト……!」
氷槍が降り注ぎ、炎の奔流が夜空を焼き焦がし、雷が地を裂いて森を震わせる。
――だが。
龍の咆哮ひとつで、氷は粉砕し、炎は掻き消え、雷は空へと還っていった。
その瞬間、三柱の結界は音を立てて軋み、砕け散る。
「ば、馬鹿な……!」
「これほどの……存在……!」
巨翼がひと振りされただけで、朱の男は宙を舞い、地に叩きつけられ動かなくなる。
視界の端で、氷の女が漆黒の爪に捕らえられたかと思うと――次の瞬間、彼女の魔力の気配は跡形もなく掻き消えていた。
雷の青年は恐怖に震え、言葉にならない詠唱を噛み砕くが――巨尾がひと閃、稲妻ごと吹き飛ばす。
森には、ただ漆黒の咆哮だけが響き渡った。
圧倒的。絶対的。
人の魔術師など、抗うことすら許されない。
私はその中心で、ただ呆然と血に塗れたファルを抱きしめる。
(これが……“厄災”……? でも……この光は……)
漆黒の巨影は、血に濡れたファルを振り返った。
その巨大な瞳が優しく細まり、怒気を失った光が彼を包み込んでいく。
眩い輝きの中、巨影は形を変えていった。
漆黒の鱗は剥がれ落ち、闇の翼は霞となって消え、そこに残ったのは――ファルと同じ姿をした男。
ただし、その瞳には、鋭くも底知れぬ愉快さが宿っていた。
「……ちっ、やれやれ。派手に暴れちまったな」
男は口角を上げ、私に視線を向ける。
「おい、嬢ちゃん。泣き顔も悪くないんだが……その顔で泣かれると、なんかこう、むず痒くて仕方ない」
その声音は、確かにファルのもの。けれど口にする言葉は、じゃれるように棘を帯びている。
私が泣きながら見上げると、ファルと同じ顔をした男が、弱々しいファルの顔を覗き込んだ。
「カイゼル……わざと……待たせましたね?」
「お前の秘密をバラすのは楽しいからな。それにしても、見事にボロボロだな」
カイゼルと呼ばれた男は、血に濡れたファルを見下ろしながら口角を吊り上げた。
「……良い性格してますよ、本当に」
ファルの声は細く、息も絶え絶えで、視線は定まらない。
「ファ……ル……しゃべっ……ちゃ……」
私が縋るように泣いているとカイゼルは私の頭に優しく手を置いた。
「大丈夫だ、嬢ちゃん。こいつは俺との約束を破れないからな」
「や……くそく……?」
カイゼルはファルと同じ顔でニカッと笑い、まっすぐ立ち上がると、指で空を切りながら言葉を紡ぐ。
「静寂の庵の扉を開けてやる。そこで決めろ。お前が決めるんだ。嬢ちゃん。」
私の絶望で混乱した思考は、さらに深い迷路に迷い込む。
「ファルネーゼ……お前は――」
その最後の言葉は、光に飲まれて消えてしまった。
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