第十八話:揺れる心、膨らむ期待

眠れぬまま迎えた朝、静寂の庵は名の通り、どこまでも静かだった。

けれど、漂ってくる香ばしい匂いが、重たい心をわずかにほぐしていく。


広間に入ると、ファルがいつも通りの穏やかな笑顔で朝食の準備をしていた。

昨夜のことなどなかったかのように、優雅な所作で器を並べている。


「おはようございます、サラさん」


黒い瞳がこちらを向いた瞬間、胸がどきりと跳ねた。

私は慌てて視線を逸らし、椅子に腰を下ろす。


(まだ……落ち着かないな)


「眠れませんでしたか?」


「……うん」


「夢は所詮夢です。気にしてはダメですよ」


ファルの言葉は穏やかで、それでいてどこか確信に満ちていた。

(夢は夢……私は、私……)

自分にそう言い聞かせることでしか、心を繋ぎとめられない。


「さあ、頂きましょうか」


「いただきます」


一口食べれば、美味しさに表情が緩む。

その瞬間、緊張も少しだけ解けていった。


「前も聞いたけど……ファルが作ってるんでしょ?」


「流石にバレましたか?」


「だって、私の家で作ってたし」


気付けば、思っていたより自然に会話が弾んでいた。

安心と同時に、昨日の出来事を考えるのは暫くやめようと心に決める。

ファルも察しているのか、それ以上は触れてこなかった。



---


朝食後、紅茶を飲んでいると、ファルが唐突に声をかけてきた。


「サラさん、少しお出かけしましょうか」


「でも……帝都には戻れないし……」


「ではいっその事、行き先はカリサリア大陸。アルディナ商工連邦にあるルーメリアなんてどうですか?」


アルディナ商工連邦――小国が集まり成した、堅牢な連邦制国家。

教会と取引はするが、決して介入を許さない独特の強さを持つ国だ。


そして、ルーメリア。

アルディナ商工連邦が誇る宝飾の街。煌びやかな宝石と工芸で知られるその名に、私は憧れを抱いていた。


「行きたい!ルーメリア……!」


思わず声を上げてしまい、顔が熱くなる。

慌てて誤魔化すように言葉を重ねた。


「で、でも……流石に遠すぎない? 港街まで馬で三日、船で一週間でしょ? 船は大丈夫だけど……馬で移動してる間に、教会や帝国の人に見つかったら……」


私の声はだんだん小さくなり、不安が言葉ににじむ。

そんな私を見て、ファルはクスッと笑った。


「心配性ですね、サラさん」


「し、心配するのが普通でしょ!」


「普通って、便利な言葉ですね」


そう言って肩をすくめるファルの仕草は、あまりに軽やかで拍子抜けする。


「でも、大丈夫ですよ。もし誰かに見つかったら……そのときは、サラさんが驚くくらい派手に撒いて差し上げます」


「派手って……そういう問題じゃないんだけど!」


思わず声を上げてしまい、私自身が可笑しくなる。

気付けば、胸の奥に巣食っていた不安が少しずつ薄らいでいた。


ファルの笑いは不思議だ。

安心させられるのに、同時に胸をざわつかせる。

(……夢のせい。きっと、まだ夢の残り香に惑わされてるだけ……)


そう言い訳しながらも、視線の先で微笑む黒い瞳から目を逸らせなかった。


けれど――胸の奥で、別の感情が静かに芽を伸ばしているのを感じる。

昨日までの恐怖や混乱とは違う、もっと軽く、鮮やかなもの。


(ルーメリア……宝石の街……どんな景色なんだろう)


想像するだけで心が少し躍り、頬が緩む。

怖さはまだある。けれど、その先に広がる新しい世界を見てみたいという思いが、確かに私を支えていた。

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