第十九話:揺らぐ心と旅立ちの街

森を抜け、丘を越え、ひたすら続く街道を馬で進む。

時折見上げる青空が、どこまでも広がっていた。


「もう、森を出て三日かぁ……」


思わず漏らした声が、風に溶けていく。


帝都を逃げ出して数日、恐怖に押し潰されそうになる時もあった。

昨日なんて、夢に飲まれそうになって自分を失い掛けた。

けれど不思議と、そういう時はファルが傍にいてくれた。


今は――心が軽い。

新しい街に向かっているというだけで、胸の奥がふわりと浮かぶような期待で満ちている。


(ルーメリア……宝飾の街。きっと眩しいくらいに綺麗なんだろうな)


頬が自然と緩む。

けれどすぐに、昨夜の夢の余韻が胸を刺した。


(……違う。これは私じゃない。夢のせい……)


夢の残滓と、ファルに向けた奇妙な感情。

それを否定し続けながら、私は前だけを見据えた。



---


やがて道が開け、白い帆を掲げた船影がちらほらと見えてくる。

潮の香りが風に混じり、ルドニアの港町が近いことを告げていた。


「もうすぐ港町に着きますよ、サラさん」

「……うん」


返事をした瞬間、ファルの黒い瞳がちらりとこちらを見た。

ただそれだけで心臓が跳ね、慌てて手綱を握り直す。


(……落ち着け、私)



---


三日目の昼過ぎ、港町ルドニアに到着した。

潮の匂いと人々の喧噪が押し寄せ、静寂の庵や森とは正反対、まさに別世界だ。


「わぁ……」


思わず声が漏れる。

漁船や交易船がひしめく港、露店に並ぶ果物や香辛料、通りを駆け回る子どもたち。

ここは活気に満ち、少し目を離せば迷子になりそうなほど賑やかだ。


「サラさん、はぐれないように」


ファルの声に振り返ると、彼は軽く手を差し出していた。

(……子ども扱い?)


一瞬むっとする。けれど雑踏の中で差し出されたその手を見て、胸がざわめく。


「だ、大丈夫! 私、迷子にならないから!」


慌ててそっぽを向き、露店へ足を速める。

その時、肩がぶつかり、小袋が地面に転がった。


若い男がそれを掴み、走り出そうとする。


「待って!」


私が声を上げるより早く、石畳の足元が盛り上がり、男は派手に転んだ。

袋は宙を舞い、ファルが軽く片手で受け止める。


「はい、どうぞ」


差し出された袋。穏やかに笑うその顔に、胸がまたどきりと跳ねた。


「……ありがと」


受け取りながら、視線を合わせられずに俯く。

(おかしい……こんなことで……)


ファルは手際よく男を拘束していた。



---


宿を探して繁華街を歩いていると、酒場の前で騒ぎが起きていた。

酔った船乗りたちが口論から殴り合いになり、数人が入り乱れて乱闘になっている。


「うわ……すごい……」


足を止めると、ファルは深くため息をついた。


「仕方ないですね」


そう言うや否や、人混みをかき分け、乱闘の中へ。


「えっ、ちょっとファル!?」


魔術で止めるのかと思った――だが違った。

ファルは素手で殴りかかる腕を片手で受け止め、軽くねじる。

突っ込んでくる別の男は、体の向きを変えるだけで勝手に転がっていった。


その動きは静かで、流れるようで、まるで舞を見ているようだった。

数分もしないうちに酔っ払い達は地面に転がり、呻いていた。


ファルは袖についた埃を払うだけで、汗一つかいていない。


「これで静かになりますね」


周囲から喝采が上がり、露店の品をくれる店主や野次馬のおかげで、ファルの両手は塞がっていた。


(……魔術、全然使ってない……素手で、あんな……)


安心と同時に、妙な震えが胸を走る。

「強い」というだけではなく、「人の枠を超えた存在」を見せつけられた感覚。


「サラさん、行きましょう」


「あ……うん」


声が少し裏返った。

自分でも分かるくらい、胸の奥がざわついていた。


(違う……夢のせい。私の気持ちなんかじゃない……!)


必死にそう思い込もうとしても、目の奥に焼き付いたファルの姿は揺らがなかった。

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