第十話:二つの歴

ファルの口から紡がれた「ソフィア」という名は、慈しむようで、どこか哀しみを帯びていた。

私はその余韻を振り切れず、充てがわれた部屋に戻っても落ち着けない。

そこで彼に頼み、書庫へと足を運んだ。



静寂の庵の書庫は、宮廷の書庫よりも遥かに古い匂いに満ちていた。

棚に並ぶのは歴史を記した本ばかりで、中には古代文字で書かれたものも多い。


(……古代文字、勉強しておけば良かった)


そんな独り言を胸に、手近の分厚い本を開いたときだった。

描かれていた肖像画に、私は息を呑む。


(……この顔……)


慌てて他の本を探し始めると、龍の姿が描かれた頁に突き当たった。


(……絶対に、あるはずだ)


時間を忘れ、棚を渡り歩き、ようやく目当てのものを見つけた。



一冊は『黒の歴』──教会が広める帝国滅亡の原典。

そしてもう一冊。見たことのない題名が私を惹きつけた。『灰の歴』。


二冊を抱えて机に戻り、まず『黒の歴』を開く。


『黒の歴』抜粋


> 厄災は人の姿を模し、人を籠絡せし。

誓いを裏切りし厄災は翼を広げ、大地を焼かん。

城は崩れ、街は灰燼に帰し、民は影の海に消えゆく。

我らは忘るるべからず。

黒き龍こそ滅びの象徴、厄災なり。

厄災の名は──『アルヴィト』。




「……やっぱり」


ファルネーゼ・アルヴィト・オドアルド──。

同じ名。偶然だと言い切れるだろうか。


深呼吸をして、今度は『灰の歴』を開く。


『灰の歴』抜粋


> 蒼天の下、人と龍は契りを交わした。

黒き翼の龍は帝と並び立ち、杯を守護する誓いを立てたり。

愛を知り、涙を知り、乙女の笑みを慈しめり。

されど外よりの奸計、契りを裂き、杯を奪う。

龍は怒り焔を吐き、大地を焼くも、その心は終ぞ民と共に。

我らは忘るるべからず。

黒き龍こそ盟友、我らの護り。

盟友の名は──『アルヴィト』。




「正反対……」


ひとつは厄災。もうひとつは盟友。

同じ名を持つ存在が、どうしてここまで異なる姿で記されるのか。




『黒の歴』の末尾に、短い一文を見つける。


> 太陽を抱く龍、影を喰らわん。

その身を護りと称し、混沌を呑み込む者なり。




そして『灰の歴』の末尾には──


> 龍と蛇を混同するなかれ。

龍は友、蛇は混沌をもたらすものなり。




(龍と……蛇……?)


どちらも伝説の存在。だが、この書庫にある限り、ただの寓話ではないのだろう。



---


立ち上がろうとしたそのとき、背後から声がした。


「サラさん?」


「……っ!」


振り返れば、ファルが静かに立っていた。

机に置かれた二冊に目を落とし、彼は問いかける。


「『黒』と『灰』……どちらが真実だと思いますか?」


答えられずに俯く私を咎めることもなく、彼は椅子に腰を下ろす。


「この庵は世界の知識の補完だと言いましたね。──だから、どちらも真実です」


「……それは……つまり、ファルは……」


怖くて言い切れなかった。だが、彼が先に言葉を継ぐ。


「人ではない、そう思いましたか?」


私はただ頷くしかできない。

彼は微笑を崩さず、遠くを見るように呟いた。


「歴史は、見た者と書いた者によって変わるものです」


「……じゃあ、全部が真実だと?」


「サラさんは、サラさんの真実を見つけてください」


その瞳に浮かぶ金の模様が、ひどく鮮やかに見えた。

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