第6話 宰の名を聞け

【前ループの変更点】

・朝が未処刑で終了(巻き戻りなし=観測データを保持)

・リオの貼り札(偽)を採用させ、外との同期線に「保留+封鎖」を混入

・石盤裏の迂回溝を湿りで封鎖(乾燥前の一時効果)


夕刻。

広場に影が伸び、昼のざわめきが穀物の袋に吸い込まれてゆく。石盤は熱を失い、投票台の下の木はまだ湿っている。誰も燃えずに終わった一日は、村の空気からある種の匂いを取り去っていた。焦げではなく、諦めの匂い。無いほうが、よほど重い。


長サウラは会所に僕を招いた。壁に古い地図。川筋と交易路。端に、丸で囲んだ町の名がいくつもあり、線で結ばれて網のようになっている。村は網の目の一つ。

「椅子に」

長は自分は立ったまま、窓の外の石盤を見ていた。

「儀式を止めたのは初めてか?」

「僕が知る限り、そう」

「私も、そうだ」

長はゆっくりこちらを向く。

「何が欲しい」

「外の名」

「名?」

「この村を見ている者の名。宰の名と、宰への線」


長は笑わなかった。窓が赤く染まり、砂塵が遠くで立っている。

「名を知れば、何かが変わると思うか」

「名前は呼びかけの最短経路だ。設計者の名を呼ぶのと、うわさ話に混ぜて遠回りに届かせるのとでは、かかる時間が違う」

「時間を気にするのか。お前には、やり直しがある」

「寿命で支払うやり直しだ。安くない」


長は短く頷き、卓上の板を指で叩いた。板は石盤と同じ材ではない。硬い木に、細い線。

「宰は名ではない。役目だ。役目は移る。だが、宰席(さいせき)という場所はある。線は、書記が繋ぐ。線の先の顔は変わるが、線の角度は変わらない」

「場所を示せるのか」

「示さない」

「なら、線の材質を聞く。祈祷か、紙か、所作か、装置か」

「全部だ。ひとつだけ折っても、残りが支える」

「その“支え合い”を崩すのに必要なのは、名前じゃないのか」

長は少しだけ目を細めた。

「賢いふりをするな。賢い者は、朝を長くする。長い朝は、村を飢えさせる」

「飢えを減らすために、朝を短く燃やしてきたのか」

「違う。朝を短くするために、人を燃やしてきた」

言葉は石のように落ち、床で音を立てた。


「今日の朝を、どう記録する」

僕が問うと、長は肩を少し落とした。

「宰に『事故』と送る。それしかない。儀式の外形を変える権限は、私にはない」

「権限がないのに、目配せはできるのか」

「目配せは、呼吸だ。誰にでもある」

「呼吸の強い者の名を、宰は好む?」

「名を欲しがるのは、外ではなく内だ」

長は窓の外を見た。「人は、誰かの名で安心する」


会所を出ると、リオが門の陰で待っていた。

「宰は人か?」

「少なくとも、声帯はある」

「席はどこだ」

「歩いて三日。街道の先の分岐。丘の上。早足で二日。死に戻りなら、半日」

「それを早く言えたのでは」

「聞かれなかった」

彼は肩をすくめ、筆記板の片隅を指で叩く。昨夜から忍ばせていた偽札の“保留”は、未だに残っている。

「外は、今日は様子見を選んだ。明日は違う。『事故』が連続すれば、設計が揺れる。揺れを正すために、補助は強くなる」


「補助をひとつ、奪えるか」

「門の外の駐屯に一基、小石盤がある。夜明けに運び込まれる前なら、番は薄い」

「どこに」

リオは顎で西の空を示した。「斜面の祠の裏。石を三つ積んだ陰」

ダゲンがいつの間にか背後に来ていた。

「行くなら、今だ。腹は満ちてる」

ミラは粉袋を抱えて走って来て、息を弾ませて言った。

「それ、持ってって」

彼女が渡したのは、硬く焼いた平たいパンだった。

「音を消すとき、噛むやつ」

「優しいけど実用的だ」

「優しいだけじゃ生き残れないから」


僕たちは三人で門を抜けた。夕刻の風は冷たく、草が膝を撫でる。斜面の祠は影の中に沈み、裏の石積みは思ったより背が高い。ダゲンが先に跳び、肩で石をずらす。埃が立ち、鼻の奥が痛む。

そこに、それはあった。

手のひら二つ分の大きさの、小石盤。表は村の石盤と同じ刻印、裏は空洞に細い溝。溝の根元に、薄い銀片が挟み込まれ、ひかりの筋がわずかに走っている。

「持て」

ダゲンが僕に合図する。持ち上げると、重さより先に、脈を掴まれる感覚があった。自分の心拍が、溝のひかりと同期しそうになる。危険だ。

僕は息を短く切り、目を細めた。

「これ、観測されている」

リオが小声で言う。「宰席から、常時の目だ。持ち去れば、向こうに警報が立つ」

「なら、逆手に」

僕は小石盤を石の上に置き、背から水袋を下ろした。

「濡らす?」

「違う。映す」


小石盤の刻印に薄紙を当て、炭でこすり出す。写しは村の大石盤のそれと同じだが、いくつかの×や→の位置が違う。外部署専用の「合わせキー」だ。

「これが、外の矢印の体系」

僕は写しを折り畳み、懐にしまう。

「盤は置いていくのか」

ダゲンが囁く。

「置いていく。盗難は向こうの手順を早める。写しだけなら、心拍は平常」

リオが頷いた。「宰は数を数える。盤の数、人の数、火の数。欠ければ埋める。揺れれば補強する。だから、静かに形を少しだけずらすのが効く」


帰り道、草の間で小さな音がした。

犬ではない。人だ。

薄暗がりに、フードを取った若い女が立っていた。昨日、門の外に現れた補助の隊の、先頭の女だ。

「こんばんは」

彼女は丁寧に頭を下げた。「今日は介入の機会を逃しました」

「明日は?」

「逃しません」

彼女は僕ではなく、リオを見た。

「書記。あなたの『保留』は伝わりました」

リオは目を細める。「伝えるつもりはありませんでした」

「伝わりました」

女は淡々と続ける。「明日、儀式は“追試”になります。未処刑の朝が一度なら事故。二度なら設計。設計は審査されます」

「審査に、名は要る?」

僕が問うと、女は首を傾げた。

「名は、慰みです」

「慰みを欲しがるのは内か外か」

「両方です。人は、名で安心し、安心で燃えます」

彼女はそれだけ言うと、草の間に消えた。足音はほとんどしなかった。


村へ戻ると、空は群青を飲み込んで黒になっていく。会所の前で長が待っていた。

「宰席は今日、追記を要求した。『事故の原因:外的妨害の疑い』」

「外的妨害?」

「お前だ」

長は肩で笑うでもなく言う。「内から見れば、お前は外だ」

「なら、外から見れば?」

「外から見れば、お前は内だ」

中間は、常に犯人扱い。

僕は深く息を吸い、胸の煤を数えた。四粒。視界の端は暗い。今日を越えても、減りはしない。


夜が降り、家々の赤い灯が点る。ミラの家の前で、パンの香りがまた強くなった。

「明日も配る?」

「配って」

僕は答える。「ただし、配る前に一人分、粉を別の袋へ」

「なぜ」

「重さが変わると、手の動く順番が変わる。序列の乱数が増える」

「わかるような、わからないような」

「わからないくらいでちょうどいい」


リオが低く囁く。

「宰は明日、盤の数を増やすでしょう。門外に二基、道の分岐に一基。同期を強める。貼り札だけでは追いつかない」

「なら、こちらも盤を持つ」

僕は懐の薄紙を出す。「合わせキーの写しがある。村の盤の裏に、明朝、合わせ直しを仕掛ける。外の同期が来ても、内の“最初の名”を宰席に認識させない。ずらす」

「ずれが積もれば、設計が別物になる」

リオの目が笑った。「筆記板の余白、広くしておきます」


ダゲンが欠伸をし、肩を回す。

「俺は門で転ぶ役をやる。外の連中、派手に来るだろ。転がして、足並みを崩す。所作が崩れれば火は弱い」

「怪我は」

「運しだいだな。運は、朝になれば誰かが配る」

彼はそう言って、夜の中へ消えた。


僕は最後に石盤の前に立った。湿りはもう乾き始めている。指で溝をなぞると、灰はまだ柔らかいが、やがてまた通い始める。

「誰も燃えない朝」を一度作った。

次は、「誰も燃えない朝」を宰の記録に載せる必要がある。未処刑ではなく、無投票でもなく、儀式完了=未処刑。

設計の定義そのものを、記録の側でわずかに曲げる。

名が「慰み」だというなら、慰みの言い換えを用意する。

祈祷の所作が重りになるなら、別の所作で重りを外す。

観客が火を太らせるなら、観客の視線の向きを変える。


胸の内で、短く段取りを数える。

溝の合わせ直し。

貼り札の再偽造。

門での転倒劇。

ミラの重さ調整。

リオの記録文言の改訂案。

長から宰への送辞の言い回し。

祈祷師の手を、別の動きで誘導する。


夜風が吹き、鐘楼の影が石盤を横切った。

胸の煤が、わずかに疼いた。

たぶん、これは恐怖だ。

恐怖は大事だ。恐怖がなければ、手は震えない。手が震えなければ、釘は深く入らない。


【次回の実験】

・外の合わせキー写しを使い、村の石盤裏の刻印を朝前に微調整(“最初の名”の認識を遅延)

・リオの記録文言を「儀式完了=未処刑」に寄せる語彙へ変更(送辞の定義改竄)

・門外二基の小石盤の所作同期をダゲンの“転倒劇”で乱す/ミラの配布重さ調整で序列乱数を増やす——二度目の未処刑を、宰の記録に「設計」として刻む。

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