第5話 誰も燃えない朝を、確定させろ
【前ループの変更点】
・石盤裏の迂回溝に湿布を差し込み、水袋で湿らせて一時封鎖
・リオの貼り札を模写し、×と→の並びを「//(保留)」に見えるよう偽札を差し替え
・鐘二つ目と三つ目の間に、ミラの「パン配り」を挿入(両手をふさぎ、初期の名が口に出る速度を落とす)
・祈祷師が香炉の代替に使う数珠を、あらかじめ結び目で絡ませ所作を遅延
夜明け前、広場の土は冷たく、石盤の下の木は湿りを吸った。迂回溝に押し込んだ布は水を含み、灰と混ざって鈍い色になる。息を止め、釘で舐めるように押さえた。漏れる水は少しでいい。通り道に「音」を作れば、神意は別の経路を探しに迷う。
焚き火のそばでは、リオが既に紙束を整えていた。紙の端に半分剥がれた貼り札。その代わりに、昨夜こっそり拵えた偽札を袖口に忍ばせる。薄さ、繊維の向き、墨の濃さを真似るのに数時間を使った。完璧でなくていい。合図の読み手が「保留」と誤読する程度でいい。
粉屋の前。ミラに合図を送る。
「鐘が二つ鳴ったら、配って」
「両手ふさぎ作戦だね」
彼女はパン籠を抱え直し、笑った。笑いは緊張をほどく。緊張がほどけると、最初の名は遅れる。
祈祷師ナヘルの戸口には、彼が香炉の代わりに時々使う数珠が掛かっている。昨夜のうちに結び目を一つ仕込んだ。祈祷の回数を合わせる所作が遅れれば、煙の渦のタイミングが広場に乗らない。
鐘が一つ。
扉が開く連鎖。人の足音が砂の上に線を引く。
鐘が二つ。
ミラがパンを配る。
「落とし物をしないように」
両手が塞がると、口が用心深くなる。「最初の名」は声に出る隙間を失う。噂好きの二人はパンを受け取りながら顔を見合わせ、頷きだけを交わした。声にならない頷きは、石盤の溝を動かせない。
僕は焚き火へ回り込み、紙束を落とすふりをして、リオの筆記板の裏に偽札を滑り込ませた。既存の貼り札の角は、袖の中に収める。入れ替えは、成功。
鐘が——三つ。
石盤が息を吸う。
光が走りかけて、ふらつく。
最初の名が立ち上がらない。
長サウラの目配せは、空を切る。ナヘルは香炉を探し、見当たらず、代わりに数珠を手にするが、結び目のせいで回らない。所作が遅れる。煙は細い。
屋根の上のダゲンは膝を抱え、門のほうを眺め、肩をすくめた。観客はまだ来ない。
旅の書記リオの筆は止まらない。紙の端に「//」が走り、次の一瞬、小さく捻ってから「//」の右に点が打たれた。
保留、そして「継続」。
彼は偽札を、合図として採用した。採用してみせた。誰に向けてか。村の外か、ここか、あるいは両方に。
光は弱火のまま散り、名は確定しない。
長が口を開く。
「儀式は——」
「遅れるだけだ」ダゲンが屋根から言う。「門の外は、今日は静かだぞ。観客は寝坊かもな」
祈祷師は眉間の皺を深くし、数珠の結び目を爪で解こうとしている。所作が崩れたまま時間が伸びる。伸びた時間は、僕の胸の煤を増やさない。巻き戻っていないからだ。
門は開かない。
昨日のように補助の集団は来ない。偽札の「保留」は、外との同期線にノイズを入れた。遠いどこかで、誰かが「様子見」を選んだのだろう。観客が減ると火は弱る。神火は票を喰う、そして観客も喰う。
僕は石盤の縁に腰を落とし、深呼吸を一つ。
このままなら、朝はただ長くなる。長いだけでは駄目だ。確定しないまま昼へ逃げ込まず、「誰も燃えない」と記録に残す必要がある。初めての形を、記録に固定するために、もう一本折らなければならない骨がある。
「水を借りる」
僕は井戸の桶を持ち上げ、投票台の裏へ回る。ナヘルの目が釣り上がる。
「やめろ」
「祈祷の前に、石盤の埃を払うだけ」
嘘ではない。溝に溜まった灰は、埃でもある。僕は桶の口を少し傾け、迂回溝の上に細い筋だけ垂らした。木が湿り、灰が膨れ、溝がふさがる。音は土の中に飲まれていく。
光はさらに弱まる。
最初の名はやはり立たない。
広場の空気が、立ち尽くす人の温度で温まっていく。
長は歩み出て、石盤に掌を当て、低く呟いた。
「この朝を、宰(さい)に送る」
リオの筆が一瞬だけ止まり、また走る。宰——外の中心。名を持つ者。読み手か、管理者か。いずれにせよ、ここより上位の視線だ。
次の瞬間、あり得ない方向から火が伸びかけた。
僕の足元。
石盤に刻まれてもいないはずの名へ、細い火筋が舌を伸ばした。
巻き戻りを何度も繰り返し、ルールの外側を歩いた者を、装置は「空席に代入」しようとするのか。標準が立たないときは、イレギュラーを処理する。
胸が冷え、同時に背に汗が噴いた。
火は、僕に来る。
それだけは、今は駄目だ。僕で確定したら、朝は終わり、巻き戻る。誰も燃えない朝が失われる。
「待って」
ミラが、僕の前へ半歩出た。
「パンが冷めちゃう」
彼女は笑って、広場の真ん中に籠を置いた。パンの匂いが風を乗り換え、人の視線がそこに落ちる。
視線は、名を呼ぶ前に通る道だ。
火の舌がわずかに逸れ、迷う。
ダゲンが屋根から飛び降り、祈祷師の足元の香材袋を片手で持ち上げ、もう片方の手で宙に放った。袋は軽く、空中でほどけ、香材が土の上に散った。所作の予備が消える。
「多数決は正しい」とナヘルが怒鳴りかけ、言葉を噛んだ。定型句が途中で切れる。合図は成立しない。
リオが筆を止め、紙の端を破り取った。小さな一片に、素早く短い記号を描き、僕に滑らせる。
「これを、門へ」
小さな紙には、// と□が組み合わされている。保留と、封鎖。門の外へ向けた合図だ。
僕は紙片を握りしめ、門柱の内側に差し込んだ。風が紙を揺らし、朝日が少しだけ強くなる。遠くで鳥が鳴き、広場の誰かが咳を一つ。
光が止まった。
神火は、痩せた。
石盤の上の名は、どれも確定しない。
長は掌を離し、祈祷師は膝をつく。
リオは筆を立てた。
「記録。未処刑。朝、持ち越し」
紙の端に、太い一本線が引かれた。×ではない、一本の横線。
固定の印。
空気が揺れ、村の鐘楼が、ふいに昼の合図を打った。
三つではなく、四つ。
投票の鐘ではない。生活の鐘だ。
朝の儀式は、時間切れになった。
確定しないまま、昼が来た。
巻き戻りは起きない。
胸の煤は、四粒のまま。
初めて、僕は「夜をまたがない」一日を手に入れた。
広場にざわめきが戻る。誰も燃えていない。人の体温が上がり、パンの匂いが濃くなる。ミラは籠を持ち上げ、困ったように笑った。
「配るタイミング、間違えたかも」
「最高の間違いだ」
僕は頷き、投票台の縁に手を置いた。木は湿っている。刻印の溝は水を吸って暗い。僕が作った封鎖は一時的だ。乾けば、また通う。合図も、外も、装置は形を変えて戻るだろう。
長サウラがゆっくりと僕の前に来た。
「儀式を壊したのは、お前か」
「壊したのではなく、止めた」
「止めることは、壊すことと同じだ」
「誰も燃えていない」
長はしばらく僕を見て、それから視線を落とした。
「今日の夕刻に、話をする」
それだけ言って、背を向けた。怒りはある。けれど、広場の空気は今日だけ違う。
旅の書記リオが近づき、低く言った。
「宰は、今日のことを『事故』と記録させるかもしれません」
「なら、事故を量産する」
「量産は、設計になります」
彼は紙束を抱え直し、少しだけ笑った。
「設計者が変わるのは、宰にとって一番の事故ですが」
ダゲンが肩を叩く。
「腹が減った。パンはあるか」
ミラが籠を差し出す。
誰も燃えなかった朝に、初めての昼食が来た。
僕は息を吐き、胸の煤を指で数え、視界の暗さを確かめる。変わらない。けれど、進んだ。巻き戻らずに終わった一日は、手に残る情報が増える。ミラが笑った時の周辺の温度、ダゲンの着地の音、ナヘルの手の震え方、長の声の調子。全部、続きに持ち越せる。
問題は、外だ。
門の小石盤は今日は来なかった。だが、来ない理由は一度きりだ。明日は別の手で来る。
偽札が効いたのも一度きりだ。合図の体系は増殖する。
石盤の溝の水も乾く。
僕は、外へ線を伸ばさなければならない。宰へ。観客へ。装置の設計者へ。
夕刻、長が話をするという。
僕はそこで、問う。
「誰がこの村を見ているのか」
そして、返ってくる答えの形で、次の壊し方を決める。
【次回の実験】夕刻の長との対話で「宰」の実体と通信手段を特定/リオから外の合図体系の由来を聞き出す/夜のうちに外部の小石盤を一つ奪い、刻印構造を解析する——設計者の手を、こちらの手に移す。
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