海底に沈む

弥生 菜未

あの人への隠し事

 嘘をついた。たぶん、一番嘘をついてはいけない人に。

 でも、隠したかった。知らないでいてほしかった。心配も同情も気遣いもしてほしくなかった。別に、大病を患ったり余命宣告をされたりしたわけではないけど、知られたくないことくらいある。「いつもどおり」に安らぎを感じることもある。だから、嘘をついた。


 これをあの人に読まれてしまうかもしれないけど、何一つとして忘れないように。

 悲しみも、寂しさも、怒りも、苦しみも――――負の感情さえも、私の糧となりうるから。




 本当は、落ち込んでいた。

 事例のアセスメントが全然できなくて、分からなくて、でもできている人もいるからすごく焦っている。

 皆は私のことを口を揃えて「真面目」だという。でも、休日をゲームに費やし課題を疎かにするような人なのに、「あなたならできるでしょ」と思われると、なおさら焦る。

 要領は悪いし、出来も悪い。私は自分のことを真面目だとは思わない。優秀だとも思わない。

 普段の行いを見てそう思うのなら、人より少しだけ強いかもしれない「正義感」を「真面目」と履き違えているに違いない。皆は私のことを過大評価しているに違いない。私はただ、無駄に口が達者で負けん気が強いだけ。


 次から次へと課題が出て、自己肯定感も自己効力感も、底へ底へと沈んでいく。いつもならすぐに気持ちを切り替えられるのに、沈み込んで浮き上がってこない。錘が身体に絡まったまま、海へ放たれたような心地がする。

 心当たりは睡眠不足。だから、あの人には「つかれてただけ」と言ってしまった。

 でも、その睡眠不足のせいで授業中にうたた寝をしてしまうものだから、自己肯定感はまた下がる。眠い目を擦りながらやった課題が間違いだらけだから、自己効力感も下がる。それでもやらなきゃいけない、睡眠時間をさらに削ってでも。

 本当にダメだね。もうすでに悪循環に陥っている。


「看護師になる」と決めたのは自分。

「私は看護師に向いてない」と気づいても、それでも「看護師になってみせる」と決めたのも自分。

「なりたい」だけの自己満足ではなく、「あなたが看護師でよかった」と皆に認められたい。

 だから覚悟を決めた、はずだった。


 だけども、辛いと思ってしまうこの気持ちばかりは、どうしようもなかった。




 次の休日がやってきて、深い眠りについたなら、きっとこれは糧になる。

 自分の苦しみと他人の苦しみが、同じであるはずがないけど、それでも多少なりとも「苦」を知っていれば想像ができる。自分の経験の一部を重ねて、相手の苦しみの一部を理解できる日が来るかもしれない。

 私は見栄や虚勢を張っているだけの、ダメダメな人間。だけどそれでも、私が力になれる何かがあるかもしれない。

 私はそう信じてる。




 もし“あの人”がこれを読んでいたのなら。


 嘘をついてしまってごめんなさい。

 少し前までは「自分でも気づかないうちに限界を迎えそう……」なんて思っていたけど、私の名前を呼ぶ優しい声に今、救われている。

 だから隣りにいてくれるだけで、十分すぎるほどに嬉しい。

 本当にありがとう。


 どうか、この嘘が、許されますように。

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