「16話 – 金属と熱した血」

格納庫の扉が開くと、溶けた金属の隙間がかすかに震えた。

ジンには、その音がまるで機械が息をするように聞こえた。

周囲に広がっていたのは空気ではなく、蒸気のような重く熱い気配。

マリナ艦の冷たい匂いとは正反対だった。


ここは、油と鉄、電流、そして人々の視線で満たされた場所だった。

たいした時間が経ったわけではないのに、体感的には久しぶりに戻ってきたような気がした。

DECGの空気は懐かしさではなく、ひと欠片の隙も許さない冷気で迎えた。


「戻ったか。」

形式的な挨拶に、温度はなかった。


挨拶もなく医療班が近づいてくる。

白衣を着た男は無表情のままタブレットを差し出した。

「標準手続きです。移動を。」

その声すら、録音ファイルを再生しているように平坦だった。


狭い検査室の壁を反射光が走り、

人工の光が、全身を解剖される錯覚を生んだ。

ジンが金属製のベッドに横たわると、冷たいリングが腕に装着された。

血管を通う血の流れに、金属が先に触れた。


採血、神経反応テスト、脳波記録。

アラームのように一定間隔で響く電子音が鳴るたび、

ジンは自分が「人間」ではなく「データセット」として扱われている感覚に囚われた。


「血流速度、正常。免疫値、変動なし。」

検査を行う医師の声に、安堵の色はなかった。

それはただの音声記録だった。


最後に追跡チップが取り付けられた。

名目上は「行方不明時の追跡用」。

あたかも当然の処置であるかのように告げられた。

鈍い金属がうなじに押し当てられた瞬間、

ジンの身体が小さく震えた。

その感触に、自由の最後の欠片が剥ぎ取られる気がした。


機械の心臓が冷えていくかわりに、彼の脈だけが熱を帯びていった。


検査が終わると、数人のパイロットが彼を取り囲んだ。

顔には笑みがあったが、眼差しには微妙な亀裂があった。


「お前が……生きて帰るとは思わなかった。」

それが歓迎なのか、不信なのか、判別できなかった。


ジンは無理にうなずいた。

「俺もだ。」


沈黙の中には、問いが詰まっていた。

――マリナで、何を見てきた?

だが誰も尋ねなかった。

答えを聞いた瞬間、彼ら自身も変わってしまうのを恐れているようだった。


衛生士官が書類の束を差し出した。

「兵士の帰還を歓迎する。

 これは報告書と誓約書だ。すぐに処理を。」


ありきたりの歓迎の言葉とともに渡されたのは、

自らに再び枷をはめろという内容の紙片だけだった。


その重みを感じながら、ジンは悟った。

この世界で言う「歓迎」とは――

帰還した機械が再び正常に稼働することを意味する言葉だ。


ブリーフィングルームへと連れられた。

金属製の椅子が一列に並び、

壁面スクリーンには精製されたフォントで命令文が映し出されている。

空気すら潤滑油の匂いで滑っていた。


顔だけは見覚えがあるが、名前は思い出せない上官が淡々と口を開いた。

「捕虜生活中に得た情報を提出しろ。」


――捕虜。

その一言がジンの呼吸を止めた。

彼にとっては「抑留」に近い生活だったが、

DECGの言語ではそれは徹底して「捕虜」と定義された。

その単語が、彼の時間を完全に断ち切った。


「マリナ艦の構造、防衛体系、兵力配置。

 知り得る限り記録しろ。」


上官の声は機械的で、目線は人間を見ていなかった。

ジンの指先が微かに震えた。

表情の変化はなかったため、上官は気づかなかった。


彼がマリナで見たものは――構造図や兵器配置ではない。

ジャングルの温室、水飛沫を上げて笑っていたショーツの顔。

報告書に書ける「真実」ではなかった。


震える指で端末を打つ。文字が浮かぶ。


温室は適切に維持されていました。


たった一行。

その文には、密かにジャングルの匂いが潜んでいた。

ショーツが毎日繰り返した農作業、

種を埋めた指先の微細な震え、

土の下で響いていた「息」のような波動。


それらを消し去った後に残ったのは、

冷たく包装された文面だけだった。


上官は頷いた。

「それで全部か?」

「……はい。」


返答は短かったが、胸の奥では血が煮えたぎっていた。


『種も話をする。お前の指先には宇宙の未来があるんだ。』


雑草を抜きながら汗を拭っていたショーツの声が、

残響のように蘇る。


会議室の空気は金属のように冷え切っていた。

他の将校たちは報告書の空欄を指摘しなかった。

彼らの目には、ジンはすでに「不完全な端末」として映っていた。


背を向けると、靴底が金属床を叩いた。

その反響は、まるで巨大な機械の心臓の中を歩く鼓動のようだった。


ここにいるジン――それもまた、このシステムの一部。

組み込まれた歯車の一枚にすぎない。


だが、彼の内側は違っていた。

肉体は戻ってきても、意識のどこかでまだ、

土の温度を感じていた。


灰色の格納庫は、油と鉄粉の匂いで満ちていた。

すべてが「以前と同じ」だったが、ジンの目には異質に映った。


整備兵が無表情のまま報告する。

「トラッカー正常作動。神経同期率98%。異常なし。」

その言葉は人間にではなく、機械に向けられた調子だった。

計算された数値の中で、人の表情は消えていく。


出撃命令が下りた。


機体に乗り込むと、HUDが自動的に点灯した。

緑のカーソル、赤い警告灯、一定の電流音。

ジンの心臓はそのリズムに合わせて鼓動したが、

それすらも人工の拍動のように思えた。


「イカルス3番機、発進準備完了。」

通信に乗った彼の声は、フィルターを通した機械の音色に変わっていた。


機体が射出レーンを滑り出し、宇宙空間へと飛び出す。

ジンは何十回も繰り返してきた飛行ルーティンを、そのまま遂行した。

旋回、維持、高度調整、減速、攻撃。――完璧。


だが、完璧さの中には生命がなかった。


レーダーに敵の信号が映った瞬間、

引き金に指をかけた。


――そのとき。


頭の奥で、ショーツの声が重なった。


「種も話をするんだ。」


その一言が、鉄よりも深く響いた。

照準線が揺らいだ。

警告音が鳴り、僚機の冷たい声が通信網を貫いた。


「3番機、集中しろ。照準がブレている。」


ジンは答えなかった。

機体と身体の感覚がズレていく。

共鳴回路が、わずかな“隙”を作り出していた。

その隙間に――土に触れた指先の感覚が滲み出す。


温室の湿気。

種の微かな重み。

そして、地中から響いていた生命の拍動。


それは機械の振動よりも、はるかに現実的なリズムだった。


ジンは引き金を引き、敵機を撃墜した。

だがHUDの「HIT SUCCESS(命中)」の表示は、空虚だった。

爆発音さえも、水中で拡散する音のように遠く感じた。


作戦が終了し、彼は操縦席の中で息を吐いた。


「……俺は、まだ帰っていない。」


機体は無事に帰還した。

だがパイロット・ジンは、いまだ金属の外側にいた。

格納庫の重力ですら、彼を完全には捉えられなかった。


整備兵たちが群がり、機体を叩く。

ハンマーの音、圧力ゲージの唸り、冷却水の蒸気。

誰も彼の疲労も、感情も問わなかった。

報告書に記されるのは、機体の状態だけ。


ヘルメットを外すと、焼けた額から汗が流れ落ちた。

ジンは手袋越しに乱暴にそれを拭い、静かに呟いた。


「……俺は、まだ帰っていない。」


その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

自分自身への告白。


格納庫の照明が反射し、彼の顔に赤い色を落とした。

冷たい鉄が、再び熱を帯びる瞬間のように。


機械音の中でも、彼は聞いた。

土の上に落ちる水滴の音。

ショーツの笑い声。

そして、種を包んでいた温もり。


それは報告書には決して書かれない感覚だった。


彼は自分の手を見つめた。

ついさっきまで引き金を引いていた手。

血で汚れるはずのその指先は――

むしろ温室の土のように、あたたかかった。


「……機械は、血を熱くできない。」


その囁きは、金属の壁に反射して微かな残響を残した。


クソヤロ部隊の何人かが、彼を横目で見た。

その視線には、警戒と疑念が混じっていた。

ジンは逃げなかった。

皮肉のような、淡い笑みを浮かべた。


その瞬間、確信した。

――ここに戻ってきたのは、身体だけだ。


心はまだ、どこかに残っている。

種が息づいていたジャングルに。

あるいは、内核の深淵に。


疲労に濡れた瞳の奥で、ひとつの火が揺らめいた。

その火は、冷却されなかった。


彼の視線は冷たい格納庫の天井を突き抜け、

見えないどこかを見つめていた。


「……まだ、俺はあそこから帰っていない。」


光が彼の顔をかすめた。

皮膚の下で――

熱した金属が、ゆっくりと血へと変わっていった。



♪♪♪



ニューコア採掘拠点、灼熱の太陽が照りつける赤い砂漠。

銀色の壁で組まれたDECG基地の中でも、

データ校正室だけは常に寒かった。

金属の壁に手を触れると、体温がすぐに吸い取られていった。


「クソヤロ部隊の心臓」と呼ばれるこの部屋には、

鼓動がなかった。


スカルはひとり座っていた。

主光色のモニターの明滅が、その瞳を冷たく照らす。

無表情のまま、彼はキーボードを叩いた。


SUBJECT_9486 / STATUS: RETURNED

EMOTION INDEX: 1.8 (↑)

NEURAL RESPONSE: ANOMALY DETECTED


短い警告音。

続いて機械の報告が流れる。


「感情指数上昇。制御率低下。再検証が必要。」


スカルは画面を見つめた。

その一行が、長く頭の中に残った。


感情指数上昇。


それが何を意味するか、彼は誰よりも知っていた。


――金属が熱を帯び始めた、ということだ。


「……。」


スカルはカーソルを動かし、「異常報告」の項目を削除した。

代わりに入力する。


原状回復完了。


端末の反射に、自分の手が映った。

血ではなく、合金で覆われた手。

温度はない。だが、その指先には微かな震えがあった。

冷却しきれないエンジンの残熱のように。


彼は低く呟いた。

「9486、ジン。お前の機体は戻ったが……

 まだ、お前自身は冷めていないようだな。」


機械は沈黙で応えた。

スカルはしばらく手を止め、目を閉じた。


ジンが去っていた間、この部屋の空気は何も変わらなかった。

――はずだった。


だが今、かすかに温もりが残っている。

その温度が、妙に不快だった。


「感情は命令を汚す。」

彼は低く詠うように言った。

「それでも……熱があるということは――」


言葉の終わりを飲み込む。

彼の思考は、命令よりいつも遅かった。


整備ログが流れ出す。

自動報告を整理しながら、システムを再起動させる。

モニターの片隅には「9486」の帰還記録、

もう一方には「Ruby Heart」の医療リポートが表示されていた。


導電率不安定・共鳴過熱。

心拍パターン崩壊の恐れ。


どれも似ていた。


彼は鼻から短く息を吐く。

「……みな、同じだな。」


クソヤロ部隊は冷たくなければならない。

それがこの部隊の規律であり、生存法則でもあった。


彼は端末に命令を残す。

「整備班、冷却モジュールを点検。

 全機体、温度27度以下を維持。」


画面を見つめたまま、静かに呟く。

「ジン……お前は、なぜ戻ってきた?」


その瞬間、扉が開いた。

機械音より静かな足音。

入ってきたのは――サイレンス。


「スカル。」

短い呼び声。


「どうした。」


「命令だ。」

サイレンスの声は揺るがない。

「クリムゾンが訓練場で暴走中。

 制止命令が下った。」


スカルは顔を上げる。

「暴走……?」


「模擬戦中に自律制限を解除。

 共鳴値220、臨界超過。」


一瞬の沈黙。

冷却機の音だけが部屋を満たした。


スカルはゆっくり立ち上がった。

「――あの火の男は、相変わらずだな。」


サイレンスは静かに頷く。

「あなたが行くべきだ。

 彼が従う命令系統は、あなたしかない。」


金属の指がボタンを押す。

スカルは端末の電源を落とした。

モニターの光が消えると、部屋は闇に沈んだ。


「いいだろう。

 その熱……消しに行く。」


義手の関節を一度曲げる。

油の匂いではなく、磨き抜かれたジョイントが鳴る金属音――

まるで低く唸る心臓の鼓動のようだった。


「命令は制御。制御は冷気。」

彼の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

「そして冷気は……もっとも熱い場所でしか証明されない。」


サイレンスは背を向け、歩きながら言った。

「奇妙な理屈だな。」


スカルは答えなかった。

ただ、かすかな声で呟いた。

「9486が残した空気が、まだ熱いだけだ。」


扉が閉じる。

人間の体温で温まりかけていた室内の空気が、再び冷えていった。


冷たい廊下を歩くスカルの指先には、

なお微かな振動が残っていた。


それは――冷えない金属の震え。

あるいは、忘れられぬ人間の鼓動だった。



♪♪♪



ニューコアの高層街から少し離れた、

白よりも白い光で照らされた医療ブロックの42階。


そこは病室というより、舞台の一部のようだった。


ルビールビは半ば開いたジャケットを整え、診療椅子に腰を下ろしていた。

胸の奥――透明な金属ケースの中で、人工の心臓が今日も一定のリズムを刻む。

光が当たるたび、紅玉色の文様が波紋のように胸元を揺らした。


白衣の医師がタブレットを滑らせながら告げる。

「移植プレートの導電率、基準値を下回っています。

 共鳴周波数が不安定です。歌唱中に過負荷が起きる可能性がある。」


「可能性、ね。いつもそうでしょ。」

ルビールビは微笑みを浮かべた。

「私のステージは、いつだって花火の最中だもの。」


紅い光を纏ったスピーカードローン――R2が肩の高さまで浮かび上がる。

短い電流音。


R2:「出力開始。データ収集中。」


すぐ後ろに、青い球体のドローンが続いた。

音声の代わりにHUD信号が点滅する。


B2:[心拍数173 bpm ― 安定モード維持]


「ハートビート、テンポはどう?」

彼女は医師ではなく、ドローンに問いかけた。


R2:「拍動安定。熱量超過。」

B2:[警告:サーマルオーバーロード3%]


「熱いほうが好きよ。」

ルビールビは微笑み、指先で胸を押さえた。

「歌は、炎だから。」


医師は呆れたように息を吐いた。

「心拍が180を超えれば、機械が先に止まります。」

R2:「現在176。」

B2:[調整モード:アクティブ]


「じゃあ、179までは大丈夫ってことね。」

彼女は唇を吊り上げた。


医師は端末を閉じながら言った。

「今日は休んでください。ハートモジュールの冷却が終わったら再評価を。」


「休むと錆びるわ。」

ルビールビは笑みを残して遮った。

「錆も悪くないけど、ステージでは輝けないもの。」


彼女は立ち上がり、鏡の前に立った。

照明の下で、瞳がルビーのように光を弾く。


「R2、照明モード変更。ステージカラー、37度。」

R2:「温度上昇。照明校正完了。」

B2:[ライトシンク ― ハートビートモードON]


光が変わり、壁一面が紅色の波動に染まる。

その光の中で、彼女は目を閉じた。


「リハーサルよ。ステージの代わりに病室で。」


「ハートビート、準備。」

R2:「位置固定。」

B2:[出力60%→80%]


微かな電流が流れ、彼女の声が空気を震わせる。

細い音が金属の壁を伝い、

医療ブロック全体がひとつのスピーカーのように共鳴した。


「ルージュ色は 真っ赤なスカーレット

 ミラー・チェック、ファイナル・タッチ」


歌は単調でありながら、致命的だった。

彼女の声は次第に荒くなり、呼吸が振動のように震えた。


R2:「共鳴限界に接近。」

B2:[心拍184 bpm/レッドゾーン]


「大丈夫。」

ルビールビは笑った。

「心臓はまだ燃えてる。」


その瞬間、警告灯が明滅した。

共鳴装置が過熱し、冷却蒸気が白く漏れ出す。


医務官が駆け寄った。

「やめて、ルビ!」

「いいえ――今がクライマックスよ。」


声が跳ね上がる。


「ハートビート、コーラス!」

R2:「命令受信。出力100%。臨界到達。」

B2:[レゾナンス拡張――実行]


紅の波が空気を伝って広がった。

それはまるで、心臓の中から血が噴き出すかのようだった。


ルビールビは最後の音を長く引いた。


……静寂。


すべての光が落ちた。

ハートビートの二体のドローンが、彼女の傍らへ降りる。


短い沈黙のあと、R2が低く報告した。

R2:「出力終了。拍動維持。」

B2:[心拍165 bpm/安定回復]


医務官は壁に手をつき、荒く息を吐いた。


ルビールビは深く息を吸い込む。

「見て、止まってないでしょ。」

そして微笑んだ。

「死ななかったわ。今日も歌えたから。」


R2:「録音完了。」

B2:[ログ保存 ― タイトル:Heartbeat #59]


「じゃあ、明日は60回目ね。」

青い光の中で、彼女は目を閉じた。

「たとえ明日が最後でも――

 拍動がある限り、ステージは続くの。」


ハートビートは黙って彼女を包んだ。

紅と蒼の光が重なり、

ひとつの心臓が、再び鼓動を打った。


03 時 28 分。

医療ブロックの夜明け前は、誰かの体温が抜けたあとのベッドみたいに静かで、乾いていた。


ビオレッタは指先で自動扉のセンサーを撫でた。

わずかな風が吹き、すぐに冷えた。

非常灯が心電図のように一度、二度、三度と瞬く。

その拍に合わせて歩く癖が、いつの間にか身体に染みついていた。

――医者に必要なのは水とメスだけじゃない。

呼吸と、リズムだ。


「痛いなら言いなさい。」

誰にともなくつぶやく。

声は柔らかく、語尾は丸く巻き取られて消えた。


白衣のポケットから古いカードを取り出す。

〈SEARE_MARINA〉の文字が、指でこするとほとんど消えかけて光る。

期限は切れている。

けれど記憶と、回線だけは生きていた。


研究ブロックのセキュリティ前で足を止め、

点滴台でも押すみたいに端末を静かに押し当てた。


「無線機? ああ、ストレス解消用の会話デバイスよ。」

警備員が眉をひそめる。

ビオレッタは笑った。

「私はただ散歩中、あなたがそこにいた。ただそれだけの偶然。」


肩が一ミリだけ落ちる。

警戒が一段ゆるんだ。


「最近、ちゃんと眠れてる?

 深い眠りが来ないのは、たぶん良心が働いてる証拠よ。」


思わず男は笑った。

「いえ、私は――よく眠れます。」


「いいこと。」

彼女は手のひらを上げ、鈍い電子音の「通過」を得る。

「じゃあ、私たちは両方とも健康ね。」


扉が開く。

冷たい空気が頬を削った。

彼女は温度を診るように呟く。

「ここは熱がない。熱がないってことは、まだ生命がない。」


コンソールを起こすと、古いフォルダが点滅していた。

HYBRID-HUMAN PROGRAM / TYPE S。

指先で開く。


古い男の声が流れた。

低く、穏やかで、恐ろしく正確な声。


「実験体 N65、サフィナ。

 感情を注入後、戦闘拒否反応発生。制御不能と判断。

 小型化しておけば廃棄も容易だ。」


ビオレッタはかすかに笑った。

「医者の言葉じゃないわね、アイゼン。」


記録の中の彼は、まだ生きていた。

現実では行方不明。

――死んだことにされている。


「最初は、私も命令に従った。」

画面を見ながら独りごちる。

「でもその命令は、人を殺した。」


第二ログ。警報、データの削除音、センサーの悲鳴。

赤い波形が画面を覆った。


[WARNING:EMOTIONAL WAVE SURGE DETECTED]

[FILE CORRUPTION – VISUAL LOG UNSTABLE]


何度見ても、手の甲がわずかに震える。

針を打つように、震えを押さえ込んだ。


あの日が戻る。

サフィナ――N65。

純血の戦闘種族の肉体に、人間の感情を注ぎ込んだ瞬間。


共鳴回路が耐えきれず、

最初の「泣き声」のような波動が爆ぜた。

空気全体がひとつの心臓になり、

実験室は巨大な胸郭と化した。


アイゼンが手を伸ばした。

静かで正確な手。

「制御可能だ。」


――不可能だった。


赤い波が彼をかすめた瞬間、

二つの心臓が同時に止まる音を聞いた。

ひとつは人間のもの。

もうひとつは実験体のもの。


そして残ったのは、沈黙。


ログはその瞬間を記録できなかった。

記録が届かない場所に、医者がいて、証人がいた。


ビオレッタは画面の隅に注釈を打った。


「彼は消えた。だが死は記録されていない。

 暴走は殺害ではなく、停止だった。

 生命を分解しようとした手が、初めて生命に触れた瞬間――止まったのだ。」


さらに一行。


「サフィナは失敗作ではない。

 感情――その高熱こそが、彼女を生かした。

 殺したのは、私たちの実験だった。」


息を整える。医者にとって最初の処方は言葉だ。

「傷より、記憶の方が長く残るから。」


囁くように。誰かの痛みに触れるように。


端末の隅で通信ログが立ち上がった。

外部網 – MOC_MARINA // SHADOW CHANNEL。


彼女は椅子に深く沈み、書類をめくるふりでログインした。


V-13:「信号テスト。患者の状態=維持。干渉周期=不規則。目標=資料回収、救出経路の確保。」

SC:「受信。今は聞くだけ。話すのは後で。」


ビオレッタは笑った。

「医者も、ときどきは聞くだけにしないとね。」


そっと接続を閉じた。

痕跡は――ほとんど残らない。

いいえ、わざと微量だけ残す。

監査部が嗅ぎつけるための、ごく薄い香り。


「私はただ散歩中、あなたたちがいた。ただそれだけの偶然。」


ドアノブが回る。

足音。

彼女はファイルを閉じずに、画面の色温度だけを落とした。


アイゼンの声が、まだ続いていた。


「原型に近いほど、制御は難しい。」


「ええ、あなたはいつも“制御”ばかり言ってた。」

彼女は発音を少し歪め、痛みのように響かせた。

「でもね――痛みがなきゃ、治療はできないの。」


扉が開く。新人ナースだった。


「先生、まだお仕事を? 昨夜の外傷記録が――」

「ここにあるわ。」

微笑んで書類を渡す。

「痛いときは言いなさい、って言ったでしょ?

 でもあなた、言わなかった。目の下の影、血圧より早く見えるわ。」


若い看護師は固まる。

「え、あの――」

「水を多めに。塩分は控えて。体に秘密を休ませてあげなさい。」

「……はい。」


扉が閉まり、再び静寂。


ビオレッタはもう一度端末に指を乗せた。

今度は注釈ではなく、封印タグ。


「開封禁止 / 医療機密。」


病が深いほど、ラベルは重くなる。


室温を少し下げる。

冷却水の流れが明確に聞こえた。

壁の中を血のように流れる音。

医者としては安定。

スパイとしては証拠保存。


「私は医者。昔も今も。」

モニターを撫でる。

「だから嘘をつくの。生かすために。」


目を閉じ、開く。

「ルビの心臓は治した。でも彼女の意志までは、触れられない。」


その言葉は針のように画面へ刺さった。


端末の片隅で自動参照が走る。

――Supervisor Reference: Dr. A. Eisen (Status: MIA)。


消えたはずの名が、自ら浮かび上がる。

彼女は止めなかった。

鍼を打つように、詰まった流れをわざと開けてやる。

彼らに見せるために。

死が見えなくても、不安だけは伝わるように。


「いま、あなた一人で痛いんでしょ?」

画面のサフィナの名に向けて言う。

「だから、私が代わりに言う。

 ――今日までは生きて。明日は、明日に任せて。」


それは処方箋のように、

そして暗号のように残った。


光を消す前に、彼女は最後の針を一本打つ。

TAG:N65/Saphina – 「止まった心臓/再同調の兆し」


ファイルを閉じる。

窓に白衣の影だけが映った。


廊下に出て、壁に掌を当てる。

ひんやりと滑らか。

医者の手から、スパイの手に温度が移る。


「傷は医者へ。記憶は証人へ。

 そして――」

口角をわずかに上げた。

「不安は、幹部たちへ。」


遠くで警報が二度鳴り、また静まった。

その音は、発熱の前の微熱みたいにかすかだった。


ビオレッタはゆっくり息を吸い込んだ。

今夜の処置は、終わった。



♪♪♪



午前 04 時。

窓のない会議室。

光は白すぎて、顔の陰をすべて奪っていた。

テーブルの表面が光を跳ね返し、そこに映るのは人影ではなく、

冷却水が流れるような淡い反射だけ。


床下ではポンプの音が微かに震え、

温度は正確に 19 度。

呼吸ひとつ分の熱さえ、統計の誤差として処理された。


開会の信号。

単調な合成音が響く。


「全ての発言は記録されます。

 感情を含めぬよう注意してください。」


沈黙。

モニターに四つの項目が浮かぶ。

• Subject 9486 – ジン

• Unit Ruby Heart – ルビールビ

• Experiment N65 – サフィナ

• Report Source – スカル/OPS


幹部 A が読み上げる。

「9486、帰還後 Emotion Index 1.8 上昇。制御率 82%。」

「モスナインユニット、導電率不安定。過熱傾向。」

「実験体 N65、データアクセス痕。担当:ビオレッタ。」


その三行の間に、長い静寂が挟まった。

この部屋では沈黙が、言葉より多くを語る。


幹部 B がスワイプする。

「ビオレッタは医療所属。閲覧権は制限されるべきだ。」

幹部 C が応じる。

「では、なぜシステムが自動的にそのファイルを開いた?」


青い光が壁を滑る。

誰かの息がわずかに揺れた。


スクリーンが自動更新され、文字列が浮かぶ。


Supervisor Reference: Dr. A. Eisen (Status: MIA)


幹部 A が眉をひそめる。

「行方不明者だ。なぜ復元された?」


B は個人端末を捲りながら、視線を上げない。

「誰かが意図的に――」


「違う。」

システム担当の冷たい声。

「自動再帰です。欠損データを自己補完した結果。」


「自己補完、だと?」

幹部 C が顔を上げる。

「亡霊が、自分で蘇ったというわけか。」


テーブル上のホログラムがわずかに震える。

ノイズ混じりの古い音声が滲み出た。


「原型に近いほど、制御は難しい。」


A が叫ぶ。

「誰がその声を復元した!」

「記録上――システムです。」


「システムが人間の声を再生するか?」

「データには感情はありません。」


「では、これは何だ?」

赤い波形が画面を染める。

空気が 0.4 度 上昇。

誰かがカップを倒したように、白いテーブルに一点の色が広がった。


B が低く言う。

「9486、ルビールビ、サフィナ。

 三つの変数すべてが『熱化』パターンを示している。

 原因を“感情”と定義しよう。」


C が頷く。

「熱は不安定だ。冷やさねば爆発する。」


A が結論を下した。

「では冷却だ。

 9486 は監視レベルを引き上げる。

 ルビールビ は活動制限。

 サフィナ は……保留、もしくは廃棄。」


その瞬間、スクリーンに命令文が刻まれる。


ORDER CONFIRMED. REASSESSMENT PROTOCOL ACTIVE.


C がまとめるように言った。

「そしてアイゼンのファイルは封印。

 MIA のまま。名の再使用は禁止。」


テーブル下の冷却ファンが再び回転する。

風が床を撫で、

部屋の温度がわずかに下がった。


誰かが小さく呟く。

「死者の名前を消しても、熱は消えない。」


A が目線だけで制した。

「熱は統制の敵だ。」


会議は終わった。

全員が立ち上がる。

照明は変わらず、

だが空気は確かに冷たくなった。


ドアが閉まる瞬間、

残されたホログラムがひとりでに瞬く。


Signal Detected – Unknown Source.

Origin: Medical Block.


誰も見る前に、画面が闇へ沈む。


冷却水の流れる音だけが残った。

その律動は、

よく聴けば――心臓の鼓動に似ていた。

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