「15話 – ショーツとジャングル」

光が消える直前、機体はかすかにねじれた。

船体が歪む音は聞こえなかった。

代わりに、真空の中で金属が「まだ潰れたくない」と

粘るように耐えている張力だけが、指先を通して伝わってきた。


操縦桿は左手を離させまいと握り返し、

右手には、消えた音の重さだけが残った。

警報は鳴らない。

HUDはすでに落ち、レーダーは何も描かない。

通信は作戦終了直後から沈黙。

残されたのは、慣性と慣性のあいだに生まれる隙間だけ。


ジンは心の中で数えた。

一――身体が後方に押し出される。

二――視界が横に折れた。

三――腹が小さく折り畳まれる。

指先の血管がぴくりと脈を打ち、

うなじの布地が冷たい汗に貼りつく。


どこかで破裂音が鳴るはずだった。

だが、来ない。

代わりに、水中で鼓膜をゆっくり押しつぶすような圧が、

耳の奥を満たしていった。


――終わり、か。


その思考は驚くほど整っていた。

まるでメモを整理するように、静かに浮かんでは沈む。

見慣れた結末。何度も想像し、何度かは望んだ終幕。

だが今回は、馴染みある「死」とはどこか違っていた。


誰が撃った?

問いは逃げずにそこへ留まる。

レーダーは落ち、操縦系は死に、位置情報もない。

答えはない。


最後に覚えているのは、聞こえない音の波――

声なのか、音楽なのか、幻聴なのか区別もつかぬ振動。

それが船体をかすめたあと、

すべてが整然と沈黙へと折りたたまれた。


機体は落下した。

海へ。

いや、海のようで海ではなかった。

水面は奇妙に柔らかかった。

衝撃はなかった。

落ちるのではなく、

下から伸びた手に引き込まれていくようだった。

浮力も反発も衝突もない。

ただ、表面の下に潜む「手の感覚」だけ。


――光が、消えた。


彼の知る闇は、いつも音を伴っていた。

鼓膜が抜けるような鈍い響き。

息が止まるとき、胸の奥で起こる鈍い波。

しかし今回の闇は、まるで熟練した技術者が

スイッチを一つずつ外して保存装置に挿し込むように、

感覚を順番に分離していった。


視界が折れ、触覚が薄れ、

冷たい匂いが遠のき、

最後に――音が、止まった。


停止が始まると同時に、心臓は拍動を緩めた。

ドクン。

わずかだが確かに、その音が鮮明になった。

ドクン。

金属と水と真空の境界が、鼓動と同調した。

ドクン。


指先の感覚が細くなり、

残光が紙のように薄まり、

腰に巻かれたベルトが急に温もりを帯びた。

奇妙な安らぎが全身を濡らす。


――心が静かだ。


死も、今回ばかりは馴染み深い友のようだった。


落ちる、ではない。

沈む、でもない。

押し流される、でもなく、

内側へ、静かに取り込まれていく。


操縦席のフレームが、

まるで息を吐くように柔らかく膨らんだ。

誰かが外から手のひらを当て、

潰れぬように支えているような感触。


――維持。


言葉が自動的に浮かび、

額の裏で蒸発した。


維持のための調整。

体温、呼吸、圧力――

すべてが、少しずつ同じ数値に収束していく。


通信は終わりまで静寂だった。

画面に表示はない。

敵機の信号も、味方のコードも、無名の点さえも。


だがその空白が、不思議な安心をもたらした。

無駄な情報の消えた世界。

判断だけが残る場所。

判断する対象すらない場所。


――無。


それが、もしかすると「終わり」の資格なのかもしれないと、

彼は一瞬だけ思った。


操縦桿から手を離した。

その感覚が現実だったのか、

思考上の手順だったのか、確かめる術はない。

確かなのは、肩の力が抜けたという事実のみ。


首が後ろへ傾き、顎がやわらかく閉じた。

舌の先に金属の味。

血か?

いや、鉄ではなく、古い配線の匂いに似ていた。

水面ではない。システム。

海ではない。媒質。

液体ではなく、設計された「何か」。


そのとき、微細な振動が船体を貫いた。

心臓と横隔膜の間に薄紙を挟んで揺らすような震え。

波紋は規則的だった。

不規則から始まり、すぐに規則へと収束する。


――同調。


単語は光らず、ただ感覚として通り過ぎた。

彼の身体が、自分以外の呼吸と歩幅を合わせ始めた。

長く、浅い呼吸。

深く、遅い鼓動。


体温が合わさる。


――閉回路。


どこかで誰かが、

彼の熱と水と脈を記録している気がした。

保存。記録。保全。


下へ、さらに下へ。

視界から灰色が抜け、濃い青が流れ込む。

青が暗くなり、暗い青は黒ではなく、

濃縮した青緑として凝固した。


その凝固が、ガーゼのように身体を包む。

ざわめきのような低音が、ガーゼの下を流れる。

耳はもう音を解析せず、

代わりに圧力の変化だけを記録していた。


――正常。


その単語が、奇妙にやさしく浮かんでは沈んだ。

「正常」と判断してくれる存在のいる世界。

その判定は、驚くほど穏やかで、無表情だった。


落下の終点はわからない。

いつの間にか、重さが消えた。

身体が、もはや「下」を指さなくなった。


方向の概念が一瞬だけ消えた。

方向を失った点。点のような人間。

点の中の呼吸。


その呼吸のあいだで、

誰かの声がきれいに分解された。

言葉ではない。音節でもない。

過ぎ去った息の長さ――その長さだけが耳に残った。


かつて聞いた子守唄のようでもあり、

どこかで繰り返し再生されていたシステムチェック音のようでもあった。

その中間。


彼は首を傾けた――と思った。

実際には、動いていない。

「動いたと感じた」それが正確だった。


ときに身体は、動かずとも動きを記憶する。

その記憶が信号となって流れた。


操縦席フレームが変形するラインをなぞるように、

シートの防振材がわずかに反発し、

元の形へ戻るまでの時間――

数値のない正確さ。


それ自体が慰めだった。

誤差がない。

誤差のない恐怖、誤差のない静寂。


彼はふと、母の顔を思い浮かべた――そう信じた。

いや、瞳の奥に残像のように浮かんだ文字列ひとつ。


「心臓は感情を記憶します。」


消毒薬の匂い。白い壁。薄い毛布。

あのときの息づかい。

その呼吸と、今の呼吸がゆっくりと重なり、

そして離れた。


重なった瞬間、手首の脈が一度だけ速くなった。

通り過ぎると、再び遅くなった。


――維持。


二度目に浮かんだ、同じ単語。

メモのように、ひたすら保存されていく言葉。


光がもはや光でなく、闇がもはや闇でもなくなった頃、

最後に残った感覚が一度だけ瞬いた。


触覚。


うなじと背のあいだ、どこかの皮膚に

とてもやわらかな表面が触れた。

金属でも、ガラスでも、水でもない。


熱くも、冷たくもない。


包み込むような表面。

その表面が、彼の呼吸に合わせて

かすかに膨らみ、しぼんだ。


反復。反復。反復。


その反復の果てで、

彼は自分の呼吸が少しだけ位置をずらすのを感じ取った。

深く。標準値より浅く。標準値より遅く。

そして標準値より――安全に。


その判定は、どこから来た?

誰が、何が、彼を「安全」と定義した?

答えはなかった。


代わりに、胸郭がもう一度ふくらんだ。

息が淡くなり、心臓が遠ざかる。

遠い心臓と近い心臓が重なった。


同じ速度。同じ長さ。同じ間隔。

同じ――静寂。


静寂にも、繊維があった。

完全に滑らかなものなど存在しない。

もし静寂の表面を指でなぞれば、

ごく小さな突起が、たまに掌をトントンと叩く。


その突起こそが、

彼をここへ連れてきて、ここに留めている「指」だった。


その指はやさしかった。

光がなくても明るく、

音がなくても温かかった。


押しのけることも、

さらに下へ引きずることもなく。

ただ――抱きとめていた。


流れ出してしまわぬように。

どこかへ零れ落ちてしまわぬように。

いつか送り出せる日まで。


そのとき、彼はようやく悟った。


この闇は海ではない。


海は押し、引く。

ここは、つなぎとめる。

海は重さを変える。

ここは、重さを変えない。

海は境界を曖昧にする。

ここは、境界の外から境界を守る。


記憶を浮かべず、下から支える。

その「下」が薄いのか厚いのか、

固体なのか液体なのか――わからない。


わからないまま長く続くほどに、

彼はなぜか、安定を学んでいった。


ある装置が起動した。

起動音はなかった。


だが、身体のいたるところに散らばる小さな点が、

同時にぬくもりを帯びて知らせてきた。


皮膚の下に置かれた無数の小さな星が、星座を描く。

手と腕、腹部と胸郭、首とこめかみ、足首。

星座たちは一斉に点滅するように光り、

そしてその光が消えると、重さは完全に消えた。


無重力。

そう呼ばれる状態に似ていたが、

それよりもなお静かだった。


体液が均等になり、

耳の内圧が水平にそろい、

瞳に「向こう側」が生まれ、

「こちら側」が消えた。


思考が遅くなっていくのを見た。


普通なら遅くなる思考は不安を呼ぶ。

だが今回は違った。


遅くなることでしか掴めないものがあった。


破損ではなく、維持。

損失ではなく、保管。

隔離という言葉が冷たい文書用語ではなく、

毛布という意味で近づいてきた。


――「隔離転送予定」


誰かの声が再びかすめた。

機械音。しかし子守唄。

案内。しかし吐息。


その矛盾した二重性が、

彼の肌に薄い膜のように重なった。


彼は自分を手放した。

もう掴むものはない。

掴む必要もない。


握る対象が消えると、手は手のまま残った。

手が手のままであるとき、手は軽かった。


軽くなった手から体温が降りていく。

降りた体温は、適正値へと入っていく。

適正値に合わせて、心臓はさらに遅く――いや、正確に打ち始めた。


正確さは冷たくなかった。

冷たくない正確さは稀だ。


その稀少を、彼は初めて、そして最後のように味わった。


――「今、生きている。」


短い文が浮かび、そして沈んだ。


生きているとは、意志のリズムではなく、

外部のリズムに接続された結果のように思えた。


その接続は不快ではなかった。


接続のために何を失うのか、

すぐに知ることになるだろう。


だがこの瞬間だけは――受け入れることにした。


受け入れることを、彼はこれまで学んだことがなかった。


いつも耐え、押し、撃ち、塞ぎ、突き抜け、離れてきた。

今回は、どの選択もしなかった。


選択のない時間。

選択が猶予された時間。


その猶予が、彼を眠らせた。


そして、ジンは――何も感じなくなった。


最初に、冷たい青が戻ってきた。

闇は依然として闇のままだったが、

その底から薄い膜のように光が滲み上がってきた。

かろうじて輪郭を作る程度の明るさ。


ジンは、その光が自分の体温と同じ速度で

膨らみ、縮んでいくのを感じ取った。


心臓が先に目を覚ました。

ドクン――間隔は長く、反応は鈍い。

だが確かにそこにあった。


次に、皮膚が反応する。

腕の細かな産毛が、空気ではない何かの流れに従って

伏せては立ち上がる。


[システム:生体信号接続。

心拍42→47。呼吸補正0.3。体温+0.4。]


機械音ではなかった。

誰かがそっと耳元で囁くような声。

文の終わりに、小さな息が混ざり、消えた。


ジンは心の中でその単語を反芻した。

――接続。補正。上昇。そして、安定。


知らないはずの判定が、不思議と懐かしい安心を連れてきた。


耳のそばで、微かな振動が始まる。

鼓膜を押し込んでいた水圧が引き、

代わりに、蛍光ペンの線のように細い波形が描かれた。

規則。規則。規則。


[J-CORE:聴覚ルート復帰。

9486、聞こえるかケロ?]


当然のように返事をしようとした。

だが、舌が動かない。


それでも返事は伝わったのか、

短い沈黙ののちに、再び声が返ってきた。


[J-CORE:大丈夫ケロ。話さなくていいケロ。

今は――聞くだけでいいケロ。]


聞く。


彼は頭の中でうなずいた。

闇の密度が少しずつ薄まっていく。

一層が剝がれ、

ガラス面のような感触が肌を包んだ。


うなじの後ろを、細かな気泡が滑り上がり――

ぷつ、と弾ける。


液体ではない。

けれど、水のようだった。


海水の金属臭ではなく、

精製された酸素と、苔の甘い匂いが入り混じった空気。


――「水中救助艇、か?」


思考が転がって止まる。


もし水中なら、もっと重いはずだ。

だが、この空気は軽かった。

軽いのに、湿っている。

湿っているのに、温かい。


[システム:カプセル圧力段階転換。

0.83→0.96。気道加湿維持。]


耳が破れるような痛みはなかった。

代わりに、空洞が膨らみ、

やがて自分にぴたりと合う場所に収まるように動いた。


押し込まれていた痛みがふっと抜ける。


まぶたの上を、誰かの指先がそっと撫でた。


上げて、下ろして――

「開けていい」と言われたような気がした。


彼は目を開いた。


最初に映ったのは、青だった。

正確には、青い光の残像。


ガラス越しに、水面のような揺らめきが広がっている。


天井だと思っていた面が透明で、

その向こうを、暗い何かが横切っていった。


海? ――違う。

その動きはあまりに一定で、

自然の穏やかさと人工的な規則のあいだ。


その境界が、ガラス箱の内側に影を落とした。


ジンはその影に手を伸ばしたが、

腕は胸の上で固定されていた。


柔らかく、優しく固定されている感覚。


[システム:回収成功。隔離転送準備。

状態:安定。外傷:軽微。]


「回収」と「隔離」。

並んだ言葉に、どこか滑り落ちるような気分を覚えた。

救出と拘束、その中間のような響き。


口を開く。

空気が喉を通る。

甘い。


わずかに青草のような匂いが鼻に届く。

ここは、加工された空気だ。

だが完全に無菌ではない。

生き物の吐息が残す湿り気と、

植物の微かな匂いが混じっていた。


[J-CORE:まずは大きく息をしろケロ。

短く区切るな。長く――長く、そう、ゆっくりケロ。]


長い呼吸。


長さを頭で測る代わりに、

肋骨が直接思い出す。


吸う六、止める二、吐く六。


そのリズムを合わせる間、

カプセルの壁が内側から鏡のように変化した。


ジンは、ぼやけた自分の顔を見た。

色が戻りかけた肌。

額に貼りついた髪。

目尻にうっすらと残る赤。


――生きている顔だった。


それだけで、眩暈が少し和らいだ。


カチリ――何かが定位置に戻る音。

次の瞬間、蓋が音もなく上がった。


気圧が弾む。

耳が一瞬、空白になった。


そこへ、床の微かな水分が蒸発する匂いが忍び寄る。


そして――空気が押し寄せた。


質量を持った空気が、肩に落ちる。

熱くも、冷たくもない。


カプセルの外の世界が、

うなじを経て背中へと流れ込んだ。


息が深くなる。


咳は出なかった。

代わりに、身体が自ら最初の呼吸を配置した。


「――生存者9486。」

誰かが呼ぶ声が聞こえたような気がした。


[J-CORE:生存者9486。ステータスチェック完了。

さあ、起き上がる準備ケロ。]


ジンは半ば固まった関節に、ゆっくりと力を入れる。


固定具が先に腕を解いた。

ベルベットでもパッドでもなく、

内側から圧がゆるやかに抜ける感覚。


脚の固定も、少し遅れて解除された。


カプセルの内側は濡れていて、

水滴が流れ落ち、手の甲を滑った。


それは確かに「水」だった。


だが、海水ではない。


実際の水なのか?

それとも、温度と粘度だけを模した液なのか?


判断は後回しにした。


重要なのは、その感触が

「生きているもの」の感覚そのものだったということ。


上体を起こすと、腰が短く悲鳴を上げた。

忘れていた動作を筋肉が思い出す間、

血液がばねのように戻ってくる。


指先がちくちくと痺れた。


――生きている。


二度目に浮かんだ同じ言葉。

一度目ほど驚きはなかった。


彼が座っている場所は、病室のようでいて、病室ではない。

ここは温室だ。

だが、ただの温室でもない。


金属とガラス、連動装置と生体培養管の間に、

ツル植物が這っていた。


壁の一部は滑らかなパネル、

もう一部は苔が薄く広がる石のような質感。


ガラスの天井の向こうを流れる影は海ではない。

巨大な水槽型の冷却装置の循環――

規則正しい動きだった。


[システム:隔離第一区画配置完了。

接触制限。状態継続観察。]


――観察。


彼は空中にその単語を描いた。

文字ではなく、視線の微細な動きで。


観察の対象。

同時に、保護の対象。

同時に、保管の対象。


三つの語が重なり、ゆっくりと離れていく。


その隙間に、再びジェイコアの声が滑り込んだ。


[J-CORE:救助か拘束かって聞くつもりなら――どっちもケロ。

でも今は、救助寄りだと思っていいケロ。]


「……ここは、どこだ。」


声はまだ低く、

壁にぶつかって戻る反響がやわらかかった。


硬い金属の反射ではなく、

植物と布と水が混じった空気の吸音。


――病室であり、温室。


彼は自分で結論を作った。


[J-CORE:マリナ。

船の名前ケロ。DECG所属じゃないケロ。

お前を撃った側でも、放置する側でもないケロ。]


「……マリナ。」


発音してみた。

舌が名前の曲線を覚えている。

海の周縁を漂う船の名にふさわしく、

言葉の端が水に濡れた。


彼はカプセルから脚を出した。

床は乾いている。

だが、長く水を含んだ素材のように柔らかい。


足首の筋肉が、自分の重みと和解するまで一秒ほどかかった。


頭上から、小さな雫が――

ぽとり、ぽとり、と落ちた。


その等間隔の音に、ジンは安らぎを覚えた。

リズム。


彼の知るどんな曲にも似ていないのに、

どこか懐かしい拍。


[J-CORE:倒れたら困るケロ。

右、手すり。そう、それを掴めケロ。]


手すりは鏡面アルミではなかった。

ツルと金属が絡まり合ってできたハイブリッドな手すり。


触れると、体温に合わせて微かに温度が変わった。

人工の繊細さと、生物の惰性が混ざった構造。


ジンは肩を伸ばし、もう一度深呼吸をした。


今度の息は、本物だった。

胸が広がり、背中の固い筋肉層が徐々に解けていく。


「なぜ、俺を救った。」


それは、自分自身への問いでもあった。

「なぜ、生きねばならないのか」という、古い質問の表面を変えただけの文。


[J-CORE:この船の方針ケロ。

回復可能な生命は回復――観察――記録。

順番はそう決まってるケロ。]


「観察は嫌いだ。」


正直に言った。


[J-CORE:俺もケロ。

でも記録は必要ケロ。

お前が何を感じ、何を思い出すのか――

誰かが証言しなければならないケロ。]


彼はその語尾、

おどけたように付く「ケロ」という一音に

一瞬立ち止まり、また歩き出した。


――この抑揚が、まだ自分を「生かしている」。


「お前が……俺を起こしたのか。」


[J-CORE:システムが先ケロ。

俺が次ケロ。

でも正直に言うなら――お前の心臓が一番早かったケロ。]


心臓が先。


彼は胸に手を当てた。


リズムが戻っている。

遅い鼓動が、ようやく正常の端に触れていた。


速すぎず、遅すぎず。


手のひらの微かな震えは、金属の振動ではない。

濡れた葉脈の震えに近かった。


「生きている」という感覚が、

論理ではなく、触覚として沈んだ。


カプセルの隣のパネルが開いた。

清潔な布、簡素な衣服、乾いたタオル、そして手のひらほどのデータタグ。

ジンはタグを手に取った。

目の前に小さなインターフェースが浮かび上がる。


「隔離第1区画/アクセスレベル:暫定1/位置:温室回復室/外部出入り制限」

整然とした文字列。

だが空間が言葉で説明された瞬間、かえって現実感が薄れた。

見るより、触れたほうが真実に近い――そんな場所。


[J-CORE:歩こうケロ。見せたいものがあるケロ。]


ジンはゆっくりと立ち上がった。

膝がわずかに震える。

血流が方向を変えるのに必要な一拍。


壁の管が、呼吸をするように膨らんでは縮むのが見えた。

中を流れているのは、水、養分、空気、温もり――そしてリズム。

温室のリズムは軍のリズムとは違う。

命令のチッではなく、成長の拍。


揺れてもいい。遅くてもいい。

止まっても、それは「エラー」ではなく「経過」と呼ばれる世界。


扉が開いた。

自動扉なのに、誰かがそっと引いてくれたような感触。


外の空気はより湿っていた。

廊下は短い。左には浅い水槽、右には土壌ベッドを模した寝台。

どちらにも人の姿はなく、小さな鉢植えが置かれているだけ。


――まるで呼吸の代わりに葉脈で息をしている患者たち。


[J-CORE:今はお前と俺だけケロ。

すぐに別の声も加わるけど、まずは――

「生きている」という実感からだケロ。]


ジンはうなずいた。


一歩踏み出すたびに、床がわずかに弾力を返した。

大きく角度を取らなくても体重が前へ流れる。

その間、薄いTシャツが背に貼りつき、離れた。


――感覚が戻っている。


「ジェイ。」

低く呼んだ。

「俺は……人間として目覚めたのか。」


[J-CORE:人間として目覚めたケロ。

ただ、お前の記録は機械が保管中。

ぶつからないよう、俺が仲裁するケロ。]


その言葉に、不思議な安堵があった。

ぶつからないように――。

いつか自分も、そんな役目を果たしていた気がする。

だが記憶の表面はまだ濡れた紙のように滲んでいた。


[システム:移動許可。隔離1区画→温室通路。]


敷居を越えた瞬間、匂いが変わった。

消毒薬が薄まり、葉と土と水の匂いが濃くなる。

天井のガラス越しに、水の色が一度うねった。


その揺れに合わせ――遠くで、

かすかな拍が一度響いた。


ジンは耳を澄ませた。

それは歌ではなかった。

だが歌の空白をちょうど埋める波。


[J-CORE:幻聴じゃないケロ。

ここ自体がリズムを持っているケロ。]


ジンは歩みを止め、

壁の管を手の甲で軽く叩いた。


内側から小さな振動が返ってきた。――接続。


彼は息を吸い込んだ。

胸が広がる。空気が深く入る。

心臓が、少し――いや、確かに強く打った。


「……生きてる。」小さく呟いた。


[J-CORE:そうケロ。

このリズムをどう使うか――俺が証言してやるケロ。]


その言葉に、ジンはうなずいた。

昨日の海は、もう彼を沈めなかった。


ガラスと金属と葉と水が織りなす複合の空間で、

彼は初めて「戻っている」と認めた。


「戻る」とは、復帰ではなく再生。

その意味を、ゆっくり――しかし確かに理解した。


……その時。


遠くで、見知らぬ足音が響いた。

ジャングルのような通路の奥、

蔦の葉の隙間から、水のように滑らかな声が流れた。


「おー、目ぇ覚めたんだ?」


ジンはそちらを見た。


ジェイコアのアイコンが視界の端で柔らかく光る。


[J-CORE:紹介するケロ。

観察員――ショーツ。温室第1区画の担当。]


ジンはまだ乾かぬ水の感触を手のひらに感じながら、

心の中に簡潔な文を記した。


――生きている。

――これから、見る。


水音がした。

床も天井も金属なのに、確かに水音があった。


チャプン、チャプン。規則に合わない拍。


ジンは反射的に振り向いた。


蔦の陰で何かが動いた。

跳ねた水滴が頬に触れる。


「おい! 踏むな!」


警告と叫びの中間の声。


蔦の塊が揺れ、

小柄な影がそこから飛び出した。


整備服は泥だらけ、帽子は裏返し、

手にはスコップの代わりにスポイト。


「種を踏むとこだったじゃん。

……あんた、重そうな顔してるからさ。」


「……人間、か。」


「他に何だと思った? 森の精?」


ショーツはにかっと笑った。

ジンは言葉を失う。


蔦と苔のあいだから、

ショーツは大きな葉をすくい上げた。


その上には澄んだ水が満ちている。


「これ、飲め。脱水する前にな。

ここは湿気てるけど、水分はすぐ抜けんだ。」


「……お前は?」


「ショーツ! 植物係。

正確に言うと――マリナのジャングル管理人、

兼、人手不足の埋め合わせ要員!」


彼は胸を張った。


「AIは毎日『人員不足』って鳴らすけど、

増えた試しがないんだよ。


だから、ほら、ちょうどいい。

新しい捕虜ゲット!」


「捕虜?」


「そう! 働けるだろ?

俺ひとりじゃ一日48時間あっても足りねぇんだよ。」


指先から泥がこぼれる。


「今日から農業パイロットな。おめでと。」


J-COREの声が微かに笑う。


[J-CORE:『農業パイロット』新職位登録ケロ。]


ショーツはすでに水辺へ戻っていた。


「ここ、循環システムだからさ。

水路が止まると種が全部眠っちゃう。

だから慎重に動け。


あと――」


振り返って、にっこり。


「踏むなよ!」


ジンは頷いた。


その瞬間、船の床がかすかに震えた。

呼吸のような揺れ。


「これで、ほんとの始まりだな。」

ショーツが言って、手を払った。


舞った土埃が、光の筋に溶けて流れる。


「始まり?」


「そう。お前、まだここがどこかわかってねぇんだろ?」


「……ああ。」


「温室さ。あるいはジャングル。」


彼はどちらも正しいと言うように肩をすくめた。


「ここは俺の守る区画。

で、お前は……そうだな、助手?」


「捕虜だろ。」


「言い方の違いだ。」


明るく返すその声。


「とにかく、手を使え。

戦闘機操縦ん時、指何本使ってた?」


「全部だ。」


「なら完璧だ。農業には全部いるからな。」


ショーツはジンの手に細い金属棒を握らせた。

先が丸く曲がった――スプーンのような道具。


「スプーン。

種を埋める前に、土を少し湿らせるんだ。

指先で回して、空気を混ぜる。」


「空気を混ぜる?」


「そう。土が息できるようにな。」


ジンは半笑いしかけて、やめた。

その言葉が妙に現実的に聞こえたからだ。


スプーンが土を割る。

小さな気泡が浮かび上がる。


――本当に、息をしている。


「見ろ。今、目を覚ました。」


ショーツの声が弾んだ。


「土は生きてる。水は記憶を持ってる。

俺たちは、その拍を合わせるだけ。」


指先に伝わる微かな振動。

それはエンジンの予熱音に似ていた。


動きではなく、共鳴。


ジンは無意識に数えた。


一、二、三――。


心臓がその速さで打った。


[J-CORE:土温24.8度、水分42%。

人間ジンの心拍数と一致ケロ。]


「聞いたろ?」ショーツが笑う。

「リズムが合ったんだ。」


「データ上は偶然だ。」


[J-CORE:統計的に0.3%ケロ。]


「ほら、0.3%! ほぼ運命だろ!」


「……確率ってそう使うものじゃない。」


ショーツはお構いなしに笑った。


「よし、水やりだ。

水の流れもリズムが命。

ワン、ツー、スリー、フォー――手首を回せ!」


水が弧を描き、光をつかんで舞う。

滴が土に落ち、温室が脈打つ。


「やるじゃん。」


「偶然だ。」


「違うね。土は嫌がってない。

お前を受け入れてる。」


手のひらを見下ろす。

水が滑り落ちる。

その流れが血管のように見えた。

土と皮膚の境界が消えた気がした。


「種は?」


「待て。まだ息を整えてる。」


ショーツが掘り返した土の中で、小さな芽が光った。


「ほら、新しい数値だ。」


「数値?」


「俺には命だ。」


ジェイコアが挟む。


[J-CORE:命=維持可能なシステムケロ。]


「お前つまんねぇな。」


[J-CORE:面白さは効率に含まれないケロ。]


「だから機械は土を触れないんだよ。」


ジンは思わず笑いを飲み込んだ。

二人のやり取りは、長年連れ添った夫婦喧嘩のようだった。


「ほら、有効期間表だ。」


ショーツが薄い板を差し出す。

手書きの文字がびっしり。


『マレイラ82日、プリメア120日、ミナカヌメ7年』


「全部、お前が?」


「そ。AIログじゃ温もりが出ねぇだろ。

手で書く。それが“記憶”だ。」


その言葉を聞いた瞬間、

ジンは再び「生きている」感覚を思い出した。


生きているとは、数値ではなく手の感触。


ショーツの指の間から土埃が落ちる。

手のひらの硬いマメが光った。


時間が流れる。


ジンは毎日、同じ場所で水をやり、土を慣らし、種を埋めた。

最初は退屈だった。

だがいつの間にか、拍に慣れた。


水の落ちる速度と心臓の鼓動がほぼ一致する。

手首の内側を、小さな波が流れていく。


「これが循環だ。」ショーツが言った。

「蒔いて、育って、また種になる。

壊れるんじゃなく、戻るんだ。」


「……そんなこと、可能か?」


「可能だから俺がここにいる。」


ジンは顔を上げた。

天井のガラスから光が降る。

水、土、手の上を通っていく。


その瞬間、操縦席で感じたのと同じ――

すべての感覚が一点に集まる感覚。


これが「生」の証だろうか。

それとも、ただの同期現象か。


[J-CORE:人間ジン。リズム値安定。

心拍63、呼吸間隔一致。植物成長率+12%。]


ショーツが笑う。


「ほら、拍動だ。

お前とこいつ、つながってる。」


「これで、何ができる?」


「救える。」


「何を?」


「次の命を。」


短く、迷いのない声。

だがジンは、その中にまだ理解しきれぬ

大きな影を見た。


温室の空気が澄んでいく。

土と水の匂いが胸を満たす。

吸い込むたびに、胸がかすかに震えた。


その夜、J-COREのログが静かに流れる。


[データ記録:9486。

行動――播種、水やり、記録補助。

状態――安定。

メモ:人間個体のリズム、温室周期と一致。]


ジンは寝台に座り、手を見る。

まだ土が残っていた。

それは疲労ではない。

指先の微かな鼓動。――リズム。


ショーツは翌日、彼を「農業パイロット」と呼んだ。

ジンは否定しなかった。

そのあだ名が、なぜか心地よかった。


温室の時間は一定だった。

昼夜の区別はない。

光は変わらず、空気は均一。

ただ植物の成長だけが「時間」を示した。


芽を指で測る。

昨日より0.7センチ伸びている。


J-COREが読む。

[成長率0.7。光合成効率98%。リズム安定。]


ジンの耳には、機械報告ではなく――

命の歌のように聞こえた。


「今日も完璧だな。」

ショーツが苔の上に腰を下ろす。


「お前が水やり、俺が光調整、

マリナがデータバックアップ。完璧な三重循環。」


「ただの繰り返しだろ。」


「繰り返しじゃない、“維持”だ。」


即座の反論。


「これは“生”を延ばす構造だ。

リズムが止まれば、世界も止まる。」


ジンは頷いた。

自分が植えたプリメアの葉が広がる。

葉脈の間を、かすかな光が流れた。

心臓と同じテンポ。


「ショーツ。」


「ん?」


「これがすべてか?」


「何が?」


「このリズム、循環、生命……結局――」


言葉が止まる。


「……俺たちは、戦争を止められるのか?」


ショーツは黙った。

手のひらで土をすくい、指の間から零した。


「この土、戦争が終わった星から持ってきた。」


「……。」


「全部焼けた。でも、一粒だけ種が残ってた。

それが、この森の始まり。」


「戦争は止まってない。

でも、こいつは育った。」


ジンは視線を落とした。

一粒の種が、森になる。


それは詩じゃなく、現実だった。


[システム:外部通信信号検出。

強度+34%。チャンネル追跡中。]


J-COREの声が空気を裂く。

ショーツが顔をしかめた。


「……来やがったか。」


「誰が。」


「お前を連れ戻す連中。」


その言葉と同時に、温室の照明が瞬いた。

船内の空気が重く波打つ。


ジンは手の土を払い落とす。

空気の流れが逆転していた。


「……これ、帰還信号だ。」


ショーツの声が低くなる。


「マリナが、お前を返すつもりなんだ。」


「そんな命令、出してない。」


「お前の命令じゃない。

システムが決めたんだ。」


[システム:捕虜9486回収プロトコル開始。

内部整理手順、10秒後開始。]


「待て。」


ジンが手を上げる。


「じゃあ、俺は――」


「戻るんだ。

あっちの世界へ。お前がいた戦場へ。」


その言葉が落ちる音は、

まるで落下の衝撃のように重かった。


ジンは俯く。

手のひらの土が冷える。


ショーツが小さな袋を取り出した。

色褪せた布。


「これは、お前のだ。」


手の中に渡された。


中には三粒の種。


「プリメア、マレイラ、

そして――名前のない種。」


「なぜ俺に?」


「誰かが持っていく必要があるから。」


ショーツは笑った。


「循環ってのは、そうやって続くんだ。」


ジンは袋を強く握る。

種の感触。小さく、冷たい。

だが内側から熱が滲んだ。

それはショーツの手のぬくもり。


[システム:回収通路開放。座標設定完了。]


空気が唸る。

光の向きが変わった。


ガラス天井から白い光線が降りる。

床をなぞり、ジンの足先を包んだ。

空気が水面のように揺れる。


「ショーツ。」


「ん?」


「お前は残るのか。」


「もちろん。

このリズムを見届けなきゃ。

誰かがこの世界がまだ生きてるって記録しなきゃ。」


「……記録。」


「そう、記録だ。」


光が強くなる。

船体が唸る。


ショーツは目を細めた。


「怖いか?」


「少し。」


「大丈夫。お前が行っても、

これは伸び続ける。」


その笑顔は淡く、確かだった。


ジェイコアが割り込む。


[J-CORE:9486、転送直前。

心拍不安定。維持ケロ。]


「維持だと? ふざけるな。」

ショーツが叫ぶ。


「こいつは生きてる!

システムごときが――!」


言葉は光に飲まれた。


空気が爆ぜる。

ジンの身体が浮く。


床が消える。


――無重力。

息が止まる。

色が消える。

残るのは光の残響と圧力。


身体が、いや感覚が畳まれていく。

紙を折るように、一筋の線へ。


そのとき、手のひらが反応した。

種の袋。


小さな重みが、存在の最後の中心。


温もりがまだそこにあった。

ショーツの温度、土の匂い、循環の拍。


[転送開始。]


光が爆発する。

世界が反転する。

音が消える。


――代わりに、心臓の音。


ドクン、ドクン、ドクン。


それはもはや自分の心臓ではなかった。

マリナのリズムでも、ルメンシアの鼓動でもない。


それは「生きる世界」そのものの心臓。

ジンがようやく理解したリズム。


その鼓動がもう一度鳴った瞬間、

彼の身体は完全に消えた。


光が落ちる。

空気が冷える。

熱が抜け、空間が閉じる。


船の照明が平常に戻る。


ショーツは立ち尽くしていた。


ジンが消えた場所に、

小さな水たまりと、土の塊が残っていた。


その土の中で、何かが動いた。


一粒の種が、土を押し上げていた。


ショーツは膝をつき、

指先でそっと土をかぶせた。


「よし。――また始まりだ。」


笑った。


「それが循環だ。」


AIマリナが低く囁く。


[温室サイクル、再設定。

ループ維持。]


「わかってる。

俺たちは、まだ生きてる。」


ショーツは応えた。


風が葉を撫で、

苔が揺れた。


そしてその隙間で、

小さな芽が光を飲んだ。


それは、目に見えぬほど微かな輝き。


だが確かに――存在していた。


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