「17話 – マリナの忘却」

ジンが復帰してから、数日が経った。

クソヤロウ格納庫の空気は、いつものように金属の匂いと潤滑油、そしてオゾンが入り混じっていた。

同僚たちは表向きこそ歓迎の挨拶を交わしたが、その視線の奥にあったのは警戒と猜疑だった。

「捕虜生活を送ったパイロット」――その一点だけで、彼はもはや以前と同じ仲間ではなくなっていた。


その日も、整備手順のため端末を開き、ログを確認していた。

冷たく光る画面の上には、燃料残量、出力バランス、機体データ――退屈な点検項目が並んでいる。

だがその中央に、異質な色が一つ、目に留まった。


緑。


ジンは思わず指を止めた。

DECG本部で告げられた言葉が脳裏をよぎる。

「不要な記憶はすべて消去された。マリナで見たものは、無意味だ」

その冷徹な断言は、まるで彼の存在そのものを切り取るようだった。


だが画面に残っていた小さなイメージファイルが、その言葉が嘘であることを証明していた。


画像は損傷していたが、確かに見覚えがあった。

温室――蔦が天井を覆い、湿った空気の中で光が散乱している。

そしてその中心で、水たまりに両手を浸し、水飛沫をあげていた小柄な兵士。

丸い拡大鏡のようなゴーグルの奥で、輝く瞳が笑っていた。


ショーツ。


ジンは息を整え、画面を拡大した。

解像度が崩れていく中で、ただ一つだけ文字列が鮮明に残っていた。


『忘れるな。その種はお前の指先にあった』


瞬間、指先が痺れた。

戦闘で硬くなった掌に、確かに土と水の感触が蘇った。

蔦をかき分けて進んだ温室の匂い、湿った空気、ショーツが水を跳ね上げながら笑っていた声。


「……」


ジンは無意識に手を握りしめた。

その記憶は確かに生きていた。消されてなどいなかった。


『クソヤロウ所属全員、ブリーフィングルームに集合』


スピーカーからの命令が鳴った。

ジンは端末を閉じ、深く息を吐きながら立ち上がった。

画面の残光は消えたが、指先の感覚は消えなかった。

それはデータではない。消せない記憶、そして“種”の鼓動だった。



ブリーフィングルームはいつも通り冷たく整然としていた。

壁一面を覆う電子パネルには、新しい作戦名が赤い文字で浮かんでいる。


〈マリナ〉――波動不安定区域 整理作戦。


司令官の声は乾いていて、機械的に響いた。

「DECG本部はマリナ艦を“波動干渉点”と認定した。通常の監視系では干渉が強すぎ観測不能。

ゆえに本任務の目的は単純だ――干渉源の除去。」


“干渉源の除去”――それはすなわち、艦の撃沈を意味していた。

ジンは席に座ったまま身体を固めた。

その名、マリナ。

まだ耳に残るショーツの笑い声、土の匂いと種の感触が重なり、眩暈のような熱が込み上げた。


司令官は続けた。

「クソヤロウ部隊は前衛突入。モスナイン部隊の公演送信と並行し、戦場の群衆効果を最大化する。

すべての出撃機は指定波長に同期せよ。」


その瞬間、ジンの目にはホログラム画面が歪んで見えた。

投射された地図にはマリナ艦の軌道が示されていたが、彼の視界にはそれが蔦のように伸びる残像として重なっていた。

まるで艦そのものが、生きて呼吸している生命体のように――抑え込まれてもなお息をしている錯覚。


「パイロット・ジン。」


名を呼ばれ、ジンは反射的に立ち上がった。

「はい。」

「お前はマリナ内部を直接経験した。今回の作戦に必要な事前情報――内部構造と防護体系の報告を提出しろ。」


一瞬、室内の全視線が彼に注がれた。

猜疑、好奇、そして警戒。

捕虜帰りだけに課される、残酷なまでに当然の要求。


ジンは短い沈黙のあと、乾いた唇を開いた。

「……温室は適切に維持されていました。内部は湿度が高く、蔦植物が一部通路を覆っていました。

しかし防護システムに影響を与えるほどではありません。」


彼は意図的に、ごく小さな断片だけを語った。

ショーツの声も、種子庫も、循環システムも口にしなかった。

それは単なる情報ではなく、報告書に記せない“響き”だったから。


司令官は頷き、言った。

「よし。その経験はデータで補完される。全員、持ち場に戻れ。出撃は0600時ちょうどだ。」


会議が終わっても、ジンはしばらく席に座っていた。

仲間たちの囁き声が遠ざかっていく。

彼はただ、自分の手を見つめていた。

そこに残る感覚、消えない記憶が彼を掴んで離さなかった。


“干渉源の除去”

冷たく下されたその命令は、ジンの耳にはこう響いていた。


――マリナを消せ。



ブリーフィングが終わった後、ジンは格納庫へ降りた。

巨大な空間には金属と燃料の匂いが混ざり、整備兵の足音が鉄板の上でこだました。

機体イカルスは静かに鎮座していたが、ジンの目にはそれが単なる金属の塊ではなく、呼吸する“何か”のように見えた。


出撃準備のため点検に入る。

整備兵たちが離れた後、ジンは操縦席に身を沈め、計器を確認した。

その時――座席の後ろ、ほとんど使われることのない収納スペースから、微かな金属音がした。


慎重に手を伸ばすと、小さなカプセルが掌に落ちてきた。

半透明の殻の中で、淡く光を放つ種。


――ショーツが無理やり握らせた、あの瞬間。

「お前の指先に、宇宙の未来があるんだ。」


ジンはかすかに笑った。

なぜ、これがまだここに?

DECGはすべてのデータと記録を消去したはずだ。

だが、物理的な“種”までは干渉できなかったのだろう。


カプセルを見つめた瞬間、湿った空気が蘇った。

温室の匂い、葉の擦れる音、水飛沫の感触――ショーツの笑い声。

それはデータではなく、感覚だった。


「整備チェック開始します!」

整備兵の声が響き、ジンは反射的に視線を向けた。

機体内部、操縦席の横にある収納部の隙間に、何かが挟まっている。

手を伸ばすと、柔らかい布の感触。小さな包み。


中には、いくつかの種が静かに眠っていた。

掌に乗せると、光が反射して微かに瞬いた。

錯覚かもしれない――しかしジンは確かに“脈動”を感じた。


――「種は話すんだ。お前の指先に、未来が宿る。」


耳の奥でショーツの声が蘇る。

整備兵が近づいてきた。

「パイロット、何か問題でも?」

ジンは拳を握りしめ、首を振った。

「いや、ただの埃だ。」


整備兵は訝しげな目をしたが、それ以上何も言わなかった。

ジンは静かに種を包みの中へ戻した。

報告書にも、データにも残せない――それは、秘密というより祈りだった。


格納庫を出る時、彼は端末を開いた。

作戦用データが同期される間、削除されずに残った一枚の画像が目に入った。

温室の写真。

蔦と水滴、そして微笑むショーツ。


――「削除されなかったんじゃない、消えなかったんだ。」


ジンは息を整え、ポケットの種をもう一度確かめた。

冷たい金属の世界の中で、それだけが唯一、確かに“温かい”感触を伝えていた。



出撃待機中、ヘルメットの内側に、低い振動が染み込んできた。

誰にも聞こえない周波数。

心臓の鼓動のように、規則正しく波打つパルス。


文字にはならない。

端末にはログも残らない。

だが、ジンは確かに“感じた”。


――「記憶は消えない。」


それは声というより、感覚だった。

冷たくも、温かくもある水のような共鳴。

内核の波動。


ジンはヘルメットの中で、ゆっくりと目を閉じた。

笑いでも、怒りでも、諦めでもない。

ただ一つ確かなこと――自分はもう完全なDECGの兵士ではない。


彼の指先には、いまだ種の感触が残っていた。

そしてその記憶は、誰にも消せなかった。



その夜。

ジンは宿舎のベッドに腰を下ろしていた。

外部は完璧に遮断された金属壁。

人工の空調音、規則的に点滅するランプ。

すべてが無機質な中で、手の中だけが違っていた。


昼に拾った、小さな包み。


彼はそれを開き、掌に種を乗せてじっと見つめた。

――すると、心臓が、自然とそのリズムに合わせて打ち始めた。


ド、ド、ド――。


鼓動は次第に強まり、外界のノイズを飲み込み、

内側だけを震わせるリズムになった。


――「記憶は消えない。」


声はなかった。

だが確かに、誰かが囁いていた。

感情と感覚がそのまま言葉になって、意識の底へ流れ込む。


ジンは息を吸い込んだ。

「……誰だ。内核なのか?」


その瞬間、枕元のランプが微かに点滅した。

HUDも通信機も作動していないのに、

視界に波形グラフのようなイメージが重なって見えた。


波形は言葉を成さなかった。

だが、直感で理解できた。


――「お前は“記憶”を持つ者。」

――「その記憶は、お前のものであり、我々のものだ。」


ジンは目を閉じた。

脳裏が眩しく、過去と現在が混ざり合う。

沈み込むシンクホール、蛍光の海、そしてショーツの手の温もり。

バラバラの断片が、一つの流れに繋がった。


「……俺は、本当に、消されてなかったんだな。」


内核の波動は答えなかった。

代わりに、温かい手のひらのように、

彼の胸の内を包み込んだ。


感情そのものが、メッセージだった。

彼はその瞬間、確信した。


自分はDECGの部品などではなく、

もっと深い何か――“生きている記憶”と繋がっている。


波動はやがて静まり、部屋は再び無音になった。

だが余韻は残っていた。

ポケットの中の種が、まだ微かに震えている気がした。


ジンはそれをそっと握りしめ、呟いた。


「記憶は消えない……

なら、俺はまだ、帰っていないんだな。」



♪♪♪




― モスナイン・リハーサルホール ―

リハーサルホールの天井は、波のように折り重なっていた。

光は上から下へ流れ、床はその反響を押し返すように震えていた。


DECGフローティング・アリーナ。

観客が入る前の舞台は、いつも病室のように冷たく、実験室のように正確だった。


ルビールビは舞台の中央に立っていた。

半分開いたジャケットを整え、息を一つ、二つ、長く吐く。

掌が胸の金属文様をなぞるたびに、薄い熱が皮膚の下に宿る。

――今日の拍動。


ハートビートは彼女の隣で静かに浮かんでいた。


濃いルビー色の球体が、肩の高さまで上昇する。

R2:「位置、確保。」

続いて、青い小さな球体が光の帯を広げた。

B2:【Calibration: 62% → 70%】

  【Heart Rate: 118 bpm — 安定範囲】


ルビールビは音もなく微笑む。

「いいわ。あとは呼吸を合わせるだけ。」


舞台の端で、ケーブルとセンサーが枝のように揺れた。

メインコンソールの音響技師が手を上げる。

「サウンドチェック、一次。ハイバンドに若干のノイズが――」

R2:「ノイズ抑制。出力40%。」

B2:【Light Sync ON — Heartbeat Mode】


照明の温度が一段下がり、舞台全体が浅い紅に染まる。

管制モニターには作戦コードが小さく点滅していた。


OP.STAGE-ACT 9486 ―

“公演送信と戦場同期を組み合わせるモジュール”。


今日の公演は「慈善コンサート」として包装されているが、

知る者にとっては“侵入波”の発信だ。



反対側のサイドステージから、別の足音が響いた。

シャフィナだった。


舞台上でのルビールビが炎なら、

彼女は鞘に残る刃の残光。

表情は静かで、足首の角度まで正確だった。

言葉の代わりに、呼吸で動きを測る人間。


彼女の後ろには、二つの小さなドローンが浮かんでいた。

銀色と、淡い土色。


S2:「入場角度、綺麗。あと3度左でパーフェクトショット!」

T2:「効果音、鳴らしていい?“ドンッ”とか、“ズンッ”とか!」

シャフィナは短く視線を落とした。

「……静かに。」

T2:「はいはい。(小声)でも今日のシャフィナ、ちょっと可愛い……」

S2:「雰囲気演出、失敗。PRセリフ保留。」


ルビールビがその方向を見た。

「シャフィナ。」

「……ルビ。」

二人の声が狭い帯域で共鳴し、

すぐに空気の中に溶けて消えた。

互いの感情回路に直接触れないよう、

一拍ずつずれて話すように。


「今日の曲は〈波動の心臓〉。送信パターンBプロトコル。」

ルビールビが言う。

シャフィナは小さく頷いた。

「歌詞――感情、最小。」

「でも、鼓動は必要よ。」

R2:「鼓動基準表ロード。」

B2:【Threshold: 178 bpm — 自動遮断】


S2:「カメラDラインオン。上部ホロ反射率23%、いい感じ。」

T2:「オープニングで“ジャーン”って入ろうか?いや、静かに?やっぱ“ジャーン”一回だけ……」

シャフィナの目が一瞬、T2を射た。

T2:「(囁き)すみません。静かにします。」

S2:「今日のキーワード:抑制、維持、通過。」


音響チームからキューが出た。

「モスナイン・サウンド、チェック。」


ルビールビはマイクを取った。

冷たい金属が掌の熱をゆっくり吸い取る。

「ハートビート。」

R2:「待機。」

B2:【Light Warm — 37°C】


第一声は思ったより低かった。

ルビールビの声が床下のスピーカーを伝い、空気を震わせる。

舞台全体が一つの心臓のように膨らみ、そして収縮する。

――火のリズム。


次に、シャフィナが口を開いた。

声は細く澄んでいた。感情の産物ではなく、計算された発声。

それでも、その音には微かな体温が宿っていた。

本人が気づかないほどの揺らぎ。

だが、ドローンの二体はその温度を正確に読み取っていた。


S2:「今の姿勢、脅威判定12%だけど……美しさ判定88%!PR可能!」

T2:「感情指数130%!あっ……ごめん、感情は変数でした。けどマジで綺麗――」

シャフィナの視線が再び下がる。

「集中。」

S2:「了解、集中。(小声)でもマジで綺麗――」

T2:「シッ。」


二人の音が薄く重なる。

ルビールビは熱く、シャフィナは冷たく。

その温度差が曲の表面を形作るテクスチャになった。

管制塔のモニターが揺れる。

観客のいないリハーサルなのに、グラフは既に“観客”を描き出していた。


「セカンド・コーラス。」

ルビールビが息を吸った。

R2:「出力72%。」

B2:【Heart 152 → 163 bpm / OK】


その時、舞台下部で電力ラインが微かに震えた。

DECGが意図的に二重電流を仕込む過密区間。

照明が揺れ、スピーカーの低音が一瞬途切れた。


S2:「電力ドリフト0.3%!補正をかける。」

T2:「特殊効果で隠――」

S2:「補正。」


ルビールビの頬の横をR2が滑るように移動した。

R2:「出力安定。位置補正完了。」

B2:【Shield 12% — 煙霧遮断】


シャフィナの右肩の上にはS2が浮かび、まるで寄り添うように。

S2:「正面カメラライン復旧。表情、今が一番いい。」

シャフィナは応えなかった。

代わりに、マイクを床から3センチだけ持ち上げた。

拍が変わる。


ルビールビがその拍を受け取り、一拍早く息を合わせる。

「ここで、一緒に。」

ルビールビが小さく呟く。

「……うん。」 シャフィナも小さく。


二人の音が触れた瞬間、舞台の空気が薄く震えた。

ルビールビのハートビートが二度跳ね、

シャフィナの呼吸が一拍遅れて吸い込まれた。


――シンク。


管制席の誰かが、小さく罵声を漏らした。

それは怒りではなく、興奮の裏返し。

「今だ、これがデュオ波動だ!」

R2:「シンク率0.88。」

B2:【警告:熱量上昇】

S2:「シンク率0.88? 美しさ1.0。PRに最適!」

T2:「効果音“ジャーン”…(小声)あ、了解。」


コーラス終盤、ルビールビの心臓モジュールが短く跳ねた。

B2:【心拍 176 → 181/限界域】

R2:「遮断を推奨。」

ルビールビはわずかに首を振る。

「もう少しだけ。」


シャフィナはその刹那を見ていた。

その瞳に、ごく薄い波紋。

最近の無言ではなく、もっと古い記憶――赤い光の残像。

彼女は本能的に音を抑えた。

感情が暴れないように、波形が紅く染まらないように。


S2:「圧力上昇――制御レベル1。」

T2:「シャフィナ、今日は少しだけ生きて。今日までは、ね?」


シャフィナは目を一度だけ閉じて、開いた。

――生きているという受諾。今日までは。


ルビールビが最後の高音を伸ばした。

R2:「限界突破。遮断。」

B2:【Hard Limit ON — 出力カット】


舞台の光が一瞬で落ちた。

あまりに速いリハーサルの終わり。

客席は空っぽ。響くのは呼吸だけ。


ルビールビは荒い息を整え、微笑んだ。

「大丈夫。火は消えても、余熱は残ってる。」


S2とT2がシャフィナの周りを一巡した。

T2:「今の、綺麗だった。(小声)ちょっと、痛かったけど。」

S2:「PRセリフ候補:『二人でいて、初めて完成する波動。』保存。」


シャフィナは答えなかった。

ただ、舞台の中央から半歩下がる。

ルビールビが近づく。


「シャフィナ。」

「……うん。」

「今日は、一緒だったね。」


シャフィナは言葉の代わりに、揺れる息で応えた。

「あなたの拍が……生きてた。」


隣でR2が小さく呟く。

R2:「シンクログ保存。」

B2:【Heartbeat #60 – Prelive】


舞台裏の作戦コンソールに、赤い線が一本引かれた。

OP.STAGE-ACT 9486 – SYNC HOOK: READY


今夜、モスナインの公演は戦場と繋がる。

ルビールビが歌い、シャフィナが維持し、

ドローンが鼓動を計算する。


そして、その鼓動は――たぶん――

誰かのヘルメットの中へ届くだろう。


ルビールビは手を差し出した。

シャフィナはその手を見た。

――実験室で赤い警告灯の下にいたあの日とは違う光。

握らなくても、離れない距離。


「明日、私たち、どっちも舞台の上にいるの。」

「……うん。今日までは。」


短い沈黙。

シャフィナの目尻が、わずかに緩んだ。


T2:「聞いた?今の、“生きてる”宣言だよ。」

S2:「PRセリフ保存:『今日までは、一緒に生きる。』」

R2とB2は何も言わなかった。

音がない方が、この子が静かに寄りかかれるから。


二つのドローンはそれぞれ、赤と青の点で舞台床を照らした。

その点が心電図のように繋がり、

戦場と公演の間に細い線を描いた。


リハーサル終了のベルが鳴った。

舞台の息が、一度吸い込まれ、そして長く吐き出された。


シャフィナは最後に、空の客席を見つめた。

誰もいないはずなのに――

その空間には、誰かの記憶と、誰かの波動と、

確かに“生きている熱”が座っているように感じた。


ルビールビが笑った。

「明日は、火花。」

シャフィナは小さく頷いた。

「明日は、維持。」


R2:「待機解除。」

B2:【Cooling…】

S2:「今日の一文:“炎と維持のデュエット”。」

T2:「そして……(小声)生きてて。」


舞台がゆっくりと暗くなった。

残った余熱だけが、床に漂っていた。

その熱は、誰かの記憶へ届くため、

静かに方向を変えていった。



♪♪♪


DECG訓練管理室の空気は、いつも一定だった。

光源はシリコン製の白光、温度は18度から一度も外れない。


スカルは窓のない部屋で、端末に繋がれたケーブルを調整していた。

金属の内部を覗くような指先。

わずかな温度変化も許さない精密さだった。


今日の作業名:9486 感情指数 追跡更新。


SYSTEM:「最新ログ――感情値 1.8 → 2.3 上昇。

警告。温度偏差 超過。冷却マニュアル 改訂 必要。」


「温度偏差、ね。」

スカルは静かに笑った。

「結局、人間の心を数字にしてるだけだ。」


モニターにはジンの最新データが流れている。

心拍、反応速度、共鳴回路反応率。

数え切れない数字の中で、彼は「温度」という項目で指を止めた。


37.2 度――正常な人間の体温。

機械には不要な値だ。


スカルはマウスを動かし、その数字を削除した。

代わりに、新しい値を入力する。


「26 度――標準作戦維持温度。」

「それが適正体温さ。」


冷たい金属の感触が指先を這った。

彼はその冷たさを愛していた。

熱は命令を濁らせる、と信じているからだ。


「感情は命令を汚す。」

それは彼の口癖だった。


だが今日は、その言葉が頭の中で何度も反響した。

入力したばかりの 9486――ジンの番号が、

画面で微かに点滅していたからだ。


ジンの共鳴値は、以前より高い。


「汚染、か。」

スカルは呟いた。

「もしそれが……本物の“生命”だったら?」


その一言が、空気を変えた。

冷却機の風が首筋を撫で、

止まっていた金属が、まるで呼吸するように鳴った。


SYSTEM:「質問。『9486』感情上昇 要因の分析報告を提出せよ。」


「分析、ね……。」

スカルはわずかに笑う。

「熱は外から来るんじゃない。中で起こる反応だ。

分析より、冷却が先だ。」


彼は新しいコマンドを入力した。

[COLD-SYNC_9486] ――機体の一時冷却制御。


イカルス3号機の回路に信号が走る。

その瞬間、モニターに微細な電流波形が現れた。

赤から青へ変わる曲線。


――そして、その中心に、緑の点が灯った。


「……これは?」

思わず手が止まる。


存在するはずのない色。

緑の波形。


それは“記憶の波”だった。

内核技術研究でしか報告されていない、生きた情報の信号。


SYSTEM:「エラー。感情波干渉 検出。

第三周波数 接近中。」


「誰が……アクセスしている?」

即座に追跡をかける。

だがラインの先は――


MOC_MARINA // UNKNOWN SOURCE。


マリナ。


その名が浮かんだ瞬間、

スカルの頬筋が微かに動いた。


「捕虜が持ち帰ったのは、感情だけじゃなかったか。」


彼は端末を閉じなかった。

冷却システムを再起動し、部屋の温度を一度下げた。

金属がさらに冷たくなる。


「統制は冷気。冷気こそが正義。」

独り言のように呟きながら、記録を上書きする。


『感情指数:1.8 維持。異常なし。』


――ジンの“熱”を隠した。


その時、ドアが開いた。


静かな足音。

サイレンスが入ってきた。


「スカル。」

「何だ。」

「本部命令。マリナ作戦支援。クソヤロウ、前衛配置。」

「前衛、か。」

「干渉源 除去命令。」


スカルは短く頷いた。

「9486 も出るのか。」

「はい。」

「……いいだろう。」


サイレンスが去ると、部屋には再び機械音だけが残った。


マリナ――。

その単語が、脳の奥で何度も響いた。


モニターを見やると、緑の点はまだ消えていない。

まるで“種”のように、そこに脈打っていた。


「熱は感染する、か……。

どうやら俺の回路まで、焼けてきたらしい。」


スカルは端末を閉じ、立ち上がった。

部屋の光が落ちる。

冷却機だけが回り続ける。


その中で、微かな――

緑の鼓動がまた光った。


冷却でも消えない“熱”。

それは、人間が残した最後の震えだった。



訓練場は、もともと冷たい場所だった。

機械と鉄、振動と騒音。

すべてが一定のリズムで噛み合う完璧なエンジン。


だが今日、そのエンジンに“熱”が生まれた。


「出力 10% 上昇。目標 非活性。」

システムの声。


だが、クリムゾンは聞いていなかった。

機体バーニングホークの操縦席で、

彼女はスロットルを限界まで押し込んだ。


機体の紅い外装が、爆発寸前の温度に達する。


「もっと。」

短い息が混じる。

「まだ、上げる。」


管制塔の警告音。


SYSTEM:「出力制限 超過。冷却システム 作動を推奨。」

クリムゾンはスイッチを切った。

「推奨はいらない。私は、指示される側じゃない。」


バーニングホークが訓練場中央を貫いた。

空気が裂け、床の金属が溶け始める。

スピーカー越しに、管制の叫びが飛んだ。


「クリムゾン、停止しろ! 温度上昇! 共鳴装置が――!」

「うるさい。」


通信を切る。

機体が旋回し、炎を描く。

軌跡は完璧な円ではなかった。

少し歪んだ軌道。


「完璧じゃない方が、生きてるってこと。」

その声は、歌詞のように響いた。


管制室の扉が開き、サイレンスが入る。

彼は黙ってモニターを見た。


バーニングホークの熱映像が赤く滲む。

機体温度 820 度――標準の四倍。制御不能。


「止めろ。」

「止まらない。」

「命令だ。」

「命令なんて、火の前じゃ溶けるのよ。」


サイレンスの声は低い。

「スカルが言っていた。“冷却は正義だ”と。」

クリムゾンは笑う。

「だから私は、“炎の正義”を見せてあげる。」


その時、ルビールビの歌声が戦闘周波数に流れ込んだ。

『Heartbeat Mode Online。』


紅い波動。

彼女の声は、機械的で、それでも熱を持っていた。


「ルージュ色は、真紅のスカーレット――」


歌が終わる瞬間、訓練場の空気が震えた。

波動が金属を伝い、機体の外装に染み込む。

バーニングホークの炎が色を変える。

赤から――紫へ。


サイレンスが小さく息を呑む。

「波動干渉……。」

「綺麗でしょ。これは熱の色じゃない、“記憶”の色。」


彼女は笑い、さらにスロットルを引いた。

轟音。金属の焦げる匂い。


サイレンスが歩を進める。

「止めろ。」

「嫌。」

「暴走中。」

「暴走こそ、生きてる証拠。」


サイレンスは無言で緊急コードを叩いた。


SYSTEM:「Override Code: Silence。」


バーニングホークのエンジンが一瞬で止まった。

機体が空中でねじれ、火花を撒いた。


「……止まったね。」

クリムゾンの声が低く響く。

「あなた、本当に静かね。」

「だからサイレンスだ。」

「面白くないわ。」

「命令は、面白くするためのものじゃない。」


機体がゆっくり着地する。

床に溶けた金属が小さな湖を作っていた。


「正常温度まで、あと12分。」

「12分あれば、また燃えられるわ。」

「スカルから伝言。“熱は感染する”。」

クリムゾンは笑った。

「じゃあ、最初に感染させるのは私ね。」


彼女は操縦席を降り、手袋を外す。

空気がまだ熱い。皮膚が火照る。


サイレンスはじっと見ていた。

「お前は、ジンよりも熱いな。」

「なら、冷却はうまくいくでしょ? 火と氷は相性いいんだから。」


サイレンスは答えず、報告を打ち込んだ。

『訓練中 暴走。原因 不明。被害 なし。』


それで終わり。


クリムゾンは手袋を投げた。

金属の床に落ち、乾いた音。

その余韻の中、ルビールビの歌が微かに流れていた。

シャフィナの薄いコーラスが混ざる。


波は終わっても、熱は残る。


サイレンスは耳を澄ませた。

その旋律は、空気の中で鼓動のように脈打っていた。

「これは……心臓の音だな。」

クリムゾンが振り向く。

「そうよ。炎も、結局は心臓なの。」


彼女は装備室へ向かいながら、指先を掲げた。

そこには、まだ小さな火の粉が残っていた。


サイレンスが背中越しに言う。

「明日は出撃だ。」

「知ってる。」

「今度は、消えるな。」

クリムゾンが肩をすくめる。

「火は消えても、灰は残る。」


排気口から煙がゆっくりと立ちのぼる。

その中で、小さな火花が瞬いた。

それは、誰かの記憶のように――

完全には消えない、熱の波動だった。



♪♪♪


DECG本部18階、監査部調査室。

壁は白く、空気にはアルコールの匂いが混じっていた。

医療区画と似ているが、ここで診るのは“患者”ではなく“記録”だった。


ビオレッタは椅子に座っていた。

対面にいる監査官の目は、血よりも冷たかった。


「暴走事件の原因、波動干渉で確定しました。」

「そう聞きました。」

「あなたの管轄区から送られた医療データが、その時間に変調しています。」

「変調なんて、医療データには日常茶飯事ですよ。」


声は柔らかいが、言葉には棘があった。


監査官が端末を回した。

「感情語の使用は、調査手続きに反します。」

「医師は感情語で診断するんです。“熱がある”“痛みが強い”、ね?」

「患者に対してなら、許可されます。記録には数字だけで十分です。」

「数字じゃ、治せませんよ。」


監査官は無言のまま、端末をタップした。


FILE: N65 / ACCESS LOG / 03:28

— USER: V-13

— NOTE: 『不安は幹部たちへ。』


「この文言、どういう意味ですか。」

「自己診断です。」

「医者が、自己診断を?」

「ええ。あの夜、少し熱っぽくて。」

ビオレッタは微笑んだ。

「体温は正常。でも、心が少し熱かったんです。」


監査官の表情は動かない。


「実験体N65。あなたが最後にアクセスしたファイルだ。」

「そうです。」

「欠落していたメタデータが自己修復しました。

その中に、“Dr. A・アイゼン”の名が出ています。」

「その人なら、もうずっと前に消えました。」

「システムが復元したんです。」

「システムも、熱を持つんですね。」


ビオレッタは端末を見下ろした。

手は微かに震えていたが、目は安定していた。


「名前が戻るのは、いいことじゃありませんか。

死んだ記録が、息を吹き返したんですよ。」

「……それを、良いことだと?」

「死を記録できないほうが、悪いでしょう?」


監査官は少しだけ視線を逸らし、端末を閉じた。

「あなた、スパイ容疑がかかっていることは知っていますね。」

「誰が言ったんです?」

「今、目の前にいる私です。」

「なら、治療が必要ですね。」

彼女は穏やかに笑った。

「医者ですから。」


空気が揺れた。

沈黙が短く呼吸した。


監査官は目を伏せる。

「明日、マリナ作戦が始まります。医療班は後方待機。」

「知ってます。患者が戻ってきますから。」

「……誰が?」

「“熱”を持った人たちですよ。」


監査官は答えなかった。


ビオレッタは席を立ち、端末を押し出した。

「報告書は、完成ですね。」

「はい。」

「では、私の処方も書きます。」


彼女はサインの横に、一行を残した。


記憶は、消えない。


監査官が眉を寄せた。

「これは報告書の書き方ではありません。」

「じゃあ、医療記録として分類してください。

暴走の後は、システムも患者みたいに熱を出すんです。」


彼女は端末を閉じ、立ち上がった。


ドアの外、廊下の空気が迎える。

エアダクトの風は冷たいが、微かな温もりを含んでいた。

ビオレッタは手を上げ、その空気を感じ取った。


――その時、通信機が短く鳴った。


<Medical Block: Broadcasting – Heartbeat #60>

ルビールビのリハーサル音源。

彼女の歌に、シャフィナの拍動が重なっていた。


ビオレッタは目を閉じた。

――心臓は、記憶の臓器。


「そうね。記憶は消えない。」


廊下の向こうから、スカルとサイレンスが歩いてきた。

訓練場の冷気をまだ纏っている。


スカルが声をかけた。

「監視は終わりか。」

「診察です。」

「診断結果は。」

「皆さん、熱があるそうです。」

スカルが短く頷いた。

「なら、冷却が必要だな。」

「いいえ。」

彼女は穏やかに笑った。

「ときどき、熱をそのままにしておくのが治療です。」


サイレンスが一歩前に出た。

「マリナ作戦、明日だ。」

「知ってる。」

「9486――あの子が出る。」

ビオレッタはしばらく黙っていた。

「じゃあ明日、記憶がどう反応するか見ましょう。」


三人はすれ違い、言葉を残さなかった。

ビオレッタは一歩進んでから、ふと振り返る。

壁面を、小さな緑の光が横切った。

種のような、柔らかい光。


「不安は幹部たちへ。

熱はパイロットへ。

そして記憶は――私たち全員へ。」


彼女は静かに歩き出す。

白い光が長く伸び、その影が後をついてきた。

影はゆらめき、やがて――

心臓の鼓動のように、リズムを刻んだ。











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