「6話 – 沈黙の医師」

ジンは医務室の扉の前でしばし足を止めた。

自動扉はすでに開いており、室内の空気が外にも漂っていた。中から流れ出る空気はわずかに冷たかった。

確かに夏の空気のはずなのに、この場所だけ季節が止まってしまったようだった。


ジンが足を踏み入れると、入口の照明が自動で点灯した。

真っ白な光が天井から柔らかく流れ落ちる。


「……。」

彼は無意識に息を整え、周囲を見渡した。


この場所は医務室というより、高級ホテルのロビーのようだった。

壁面は銀色の金属パネルで輝き、床には傷一つない模様入りの大理石が敷かれていた。

冷たく整えられた空気には、特有の消毒薬の匂いすらほとんどなかった。


あまりに静かだった。

機械音も、足音も、会話もない。


ジンは低くつぶやいた。

「こんなに静かなクリニックは……初めてだ。」

記憶がないから初めてなのかどうかも分からなかった。



廊下の突き当たりに設けられた受付デスクには誰もいなかった。

ただ単純なパネルだけが点灯し、自動ドアが開く表示が光っていた。


彼が歩みを進めると、隣の診察室の扉が滑らかに開いた。


中はさらに冷たかった。

壁には医療機器が整然と並んでいたが、そのほとんどはカバーで覆われていた。

光を放っているモニターは一台だけ。


そしてその前に、紫色の巻き髪の医師が座っていた。


彼女は顔を上げなかった。

白衣には名札もなく、名前を知る手掛かりもなかった。

冷たい照明の下、巻き髪の影が顔の半分を覆っていた。

白衣の袖は肘の上で正確に折られ、指先は医療用キーボードをゆっくり押していた。


ジンが敷居に立った瞬間、彼女が短く言った。

「……入ってください。」


声は低く、淡々としていた。

まるで用意された台詞のように、抑揚すら揺らがなかった。



ジンは椅子に腰を下ろした。

その重みで革のシートが微かに震えた。

背を預けると腕に痺れが走った。

先日のテストで感じた残響が、再び蘇ったかのようだった。

心臓はまだ完全に平穏ではなかった。


医師は彼の顔をまっすぐ見なかった。

代わりに画面に映る数値を追っていた。


そしてごく淡々と質問を投げた。

「最近、あなたの機体反応値が不規則でしたね?」


ジンの瞳が一瞬大きく見開かれた。

「……それを……どうして?」


医師は答えなかった。

指先が再びキーを押した。


するとモニターに一つの波形が大きく拡大された。

ジンの心臓は止まりそうにドンと沈んだ。


『Heart Sync』。


モスナインの楽曲から抽出された共鳴波形だった。

その隣には、彼のHUDで記録された共鳴パターンが重なっていた。


二つのグラフは驚くほど似ていた。


ジンは息を整え、心の中でつぶやいた。

「……ここは……ただのクリニックじゃない。」


彼女は沈黙を貫き、指先でグラフをスクロールするだけだった。

モニターの光が彼女の紫の巻き髪に反射し、どこか冷たい輝きを作り出した。


ジンはシートを握りしめ、意識を研ぎ澄ませた。

「あなたは……あの歌手たちにもこんな検査をしたんですか?」


医師は一瞬動きを止めた。

初めて彼の視線を受け止め、そして短く答えた。

「……職業上、必要だっただけです。」


声は相変わらず淡白だったが、微妙な隙間があった。


ジンはその隙を逃さなかった。

「……じゃあなぜ俺にはこれを見せるんです?

記録はいつも消されるはずなのに……なぜ、ここでは残っている?」


医師は再び無表情に戻った。

そして一言だけ告げた。

「……あなたは、興味深いケースだからです。」


その答えのあと、再び沈黙が流れた。

医務室は依然として静かで、時計の秒針の音すら聞こえなかった。


しかしジンの心臓はまだ、あの時のリズム――波動を刻んでいた。


時計のない部屋。秒針一つ聞こえない空間で、時間は息すらしていないかのようだった。

彼女の指先が医療用キーボードの上を柔らかく動いた。

「カタ、カタ。」

金属ではなく、ガラスのような音が微かに響いた。


モニターがゆっくり画面を切り替えた。

最初は一般的な心電図の波形のように見えた。

しかしすぐに、その曲線に付けられた注釈が彼の息を止めた。


『Heart Sync』。


モスナインの代表曲のタイトルがそのまま表示されていた。あの時に聴いた歌は確かにイミテーション・ルミナスだったはずなのに。


「なぜイミテーション・ルミナスじゃないんです?」


ジンはモニターを凝視した。

胸の奥が妙に締め付けられた。


「……。」


目の前に浮かぶのは確かに曲の波形だった。

だがその隣に重なるグラフは……自分自身だった。


[実験群9486 – 共鳴パターン記録]


赤い曲線が歌の曲線をなぞっていた。

まるで鏡のように、あるいは複製品のように。


「……これは。」


思わず声が漏れた。

しかし医師は答えなかった。

瞬きすらせず、ただ画面を見つめていた。


ジンは唇を噛んだ。

自分が見たものは正しいのか、それとも錯覚か?

だが目の前のデータは錯覚ではあり得なかった。

心電図は嘘をつかない。


HUDに浮かんだ波形が脳裏をかすめた。

夏のキャンプで、子供たちの前で。

歌が響いた瞬間、確かに虹色の波動がHUDに重なっていた。

そして今、それがここにもあった。


「……あなた、モスナインの担当なんですね。」


医師の指先が止まった。

彼女はわずかに顔を上げたが、瞳には依然として感情がなかった。


答えはなかった。

ただ、キーボードの上の指が軽く動き、グラフは別の画面へ切り替わった。


今度はルビルビの波形。

その下にはシャフィナの波形。

そして再びジンの波形。


三本の線が重なった。

一瞬、画面が三方向に揺れ、ひとつに重なった。


共鳴。


ジンの息が荒くなった。

「……なぜ……俺まで重なっている?」


無意識に彼女の手首を掴みそうになった。

しかし咄嗟に躊躇して手を引いた。

腕の内側が再び痺れるように震えた。


病院での幻覚が蘇った。

痣だらけの腕。抜き取られる血液。

心臓がその場面を覚えているかのようだった。


「……答えてください。」

ジンは低く吐き出した。

「俺の記録はいつも消されるはずだ。なのになぜ、ここでは残っている?なぜ、あなただけが知っている?」


医師は依然として沈黙していた。

代わりに、ゆっくり指を上げて画面の隅を指した。


小さく書かれた文。


[セキュリティ等級: 内部専用 / アクセス権限: セキュリティレベル2]


ジンは息を止めた。

「内部専用」。

その一文が数えきれない疑問を呼び起こした。


視線が再び画面に戻る。

波形はまだ脈打っていた。

歌のリズムに合わせ、自分の心臓が鼓動していた、そのまま。


医師はようやくゆっくりと瞼を伏せた。

表情は変わらなかったが、そのわずかな動きの中に何かが隠れていた。


言葉の代わりに、指先が再びモニターをなぞった。

グラフの上に字幕のように短い文が浮かび上がった。


[感情スペクトラム: 偏差なし]

[共鳴適合率: 87%]

[対象状態: 安定]


数値とデータだけが並んでいた。


だがジンはその背後に潜む意味を見た気がした。

「……俺は、あの歌手たちと同じ扱いを受けているのか。」


医師の手が一瞬止まった。

だが顔を上げることはなかった。

ただ、ごく小さな吐息が彼女の肩を揺らした。


答えは依然としてなかった。


ジンは冷たく笑った。

「沈黙も答えですね。」


その瞬間、耳元に再び波動が走った。


「I’m real, Do you believe in the truth?」


幻覚なのか、記憶なのか、データの残響なのか分からなかった。

だが確かに、医務室の沈黙と重なって響いた。


ジンは顎を固くしめ、椅子を押した。

「……興味深いケース、か。」

低くつぶやいた。

「その言葉、もう信じてもいいんでしょうね。」


医務室の空気は変わらず冷たかった。

ジンは長い間モニターに映る波形を見つめ、それからようやく視線を外した。


視界の中で曲線はまだ揺れていた。

歌と心臓の波動が重なったデータ。

そしてそれを黙って見つめる医師。


「……一体これは何なんです。」

ジンは低く声を落とした。

「これを単なる健康診断だと思う人間はいない。あなたも分かっているでしょう。」


……背後から、不思議な摩擦音が聞こえた。

紙。

電子装置ばかりのこの場所では異質な音だった。


ジンはゆっくり振り返った。

医師は依然として無表情。

だが今だけはモニターを見ず、机の引き出しを開けて何かを取り出していた。


銀色の機材の間から、場違いなものが現れた。

小さなメモ帳。

数枚の紙が束ねられた、アナログのノートだった。


彼女はそれを丁寧に破り取り、ペンでただ一行を書きつけた。

――サラサラ。

沈黙を切り裂く唯一の音。


ジンは息を呑んだ。

「……筆記?」

声は震えていた。


この場所のすべては記録と削除、デジタルと統制。

だが今、目の前で広がるのはあまりに人間的な行為だった。


医師はペンを止め、紙を折った。

そして椅子を離れ、静かに歩み寄った。

ハイヒールの音も足音もない。

ただ白衣が床を擦るわずかな音だけ。


彼女は無言でメモを差し出した。

ジンは本能的にそれを受け取った。


紙は温かかった。

書いたばかりのインクが乾ききっていないのか、指先にわずかに滲んだ。


彼はゆっくりと紙を開いた。

中にはただ一文。


「心臓は感情を記憶します。」


ジンの瞳が大きく揺れた。

先ほど彼女が口にした言葉と同じだった。

だが文字として見た瞬間、それは全く異なる重みを持った。


削除できない記録。

データではなく、紙に刻まれた言葉。


「……なぜ、こんなことを。」

彼は囁いた。

「わざわざ、ここまで……」


医師はやはり黙っていた。

だが今度は真っ直ぐに彼の目を見た。


沈黙が会話のように思えた。


ジンは紙を見つめ、罪を犯したかのように慌てて折りたたんだ。

白衣のポケットに返そうとした。

「これは……記録として残れば危険でしょう。」


だが彼女は首を振った。

短く、はっきりと。

返すなという合図だった。


「……なぜ俺に。」

ジンの声は低く震えた。

「俺の記録はいつも消されるはずだ。

なのに、なぜこれは残せと言う?

あなたは……誰の味方なんです?」


彼女の顔は揺るがなかった。

無表情のまま。

だがその瞳の奥で、ごく短い波が走った。


再び彼女は引き出しを開け、ペンを取った。

紙に短く書き加えた。


「削除されないのは、あなただけ。」


ジンは息を詰めた。

指先が震え、紙を強く握った。


削除されないのは……俺だけ?


頭の中で無数の光景が交錯した。

広場に響いた広告音楽、VRテストの波動、HUDに重なった歌詞。

そして病院で幻のように見えた、痣だらけの腕。


それらすべてが、消えずに残っていた。

身体と心臓が覚えていた。


「……。」

ジンはそれ以上言葉を失った。


医師は再び席に戻った。

まるで最初から何もなかったかのように。

指先はまた医療用キーボードの上で動き、モニターには冷たく整理された数値が並んだ。


だがジンの手には紙が残っていた。

データでは消せない、ただ一つの記録。


彼はドアを開け、廊下へ出た。

冷たい空気が肺に流れ込んだ。


振り返ろうとしたが、ドアはすでに閉じていた。


手の中で小さなメモがくしゃりと潰れた。

文字が指先に触れるたび、心臓は妙に早く打った。


「……心臓は感情を記憶する。」

低く呟いた。


そして初めて、その言葉が自分への警告かもしれないと感じた。


廊下は冷たく沈んでいた。

ジンは片手に紙を握りしめ、重い足取りで進んだ。


医務室のドアはすでに閉ざされていたが、背後からまだインクの匂いがついてくる気がした。


削除されない記録。

たった一行の文字が彼の心臓を掴んでいた。


「……削除されないのは俺だけ、か。」

低く呟いた。

「これが祝福なのか、呪いなのかも分からない。」


廊下の突き当たりには鏡のように輝くガラス壁があった。

その向こうにニューコアの都市の灯りが揺れていた。


ネオンサインが点滅した。

『DECG文化プログラム ― 英雄たちの歌』

やがてスクリーンにモスナインの顔が映し出された。

ルビルビの眩しい笑顔、シャフィナの冷たく整った表情。


「英雄は歌います。あなたの心臓のために。」

広告のフレーズが自動再生された。


ジンは苦く笑った。

心臓のために? その言葉、もう冗談にもならない。


手に握ったメモが風に揺れた。

彼は無意識にそれをポケットに隠した。

誰かに見られるのが怖かった。


医師が渡した一行。

「心臓は感情を記憶します。」


その文は、派手な広告キャッチよりも重く胸に刺さった。


その時、耳に歌声がかすめた。

遠くから聞こえるようでもあり、頭の中の幻聴のようでもあった。


「……俺は本物だ、Do you believe in the truth?」

「……世界に一つだけの brilliant jewel ――」


彼は目を閉じた。

また始まったか。この歌はなぜ俺の中にだけ残るんだ?


心臓はまだ打っていた。

波動は止まらなかった。


ジンは宿舎へ戻るシャトルに身を沈めた。

窓の外、流れる都市の灯りが波のように揺れていた。


ポケットの中の紙を指でなぞりながら、低く呟いた。

「……心臓は感情を記憶する。」


誰かに見られているような錯覚が過った。

だがシャトルの中には自分しかいなかった。


その頃、DECGの都市高層ビル。

黒い照明に包まれた廊下の奥、静かに立つ一人の人影。


シャフィナだった。

彼女の指先は冷たく整った動きを続けていたが、瞳だけは揺れていた。


舞台の上のアイドル、実験体N-65。


彼女の唇がかすかに開いた。

「……愛を……覚えていますか。」


歌声のようでもなく、囁きのようでもない一言。

だがそれは確かに、人間の震えを帯びていた。


シャフィナは顔を上げ、ガラスの向こうの夜空を見上げた。

都市は赤い砂埃に覆われていたが、その奥でかすかに星の光が瞬いていた。


その星明かりはまるで、誰かの心臓のように小さく鼓動していた。


ジンはシャトルの中で身を震わせた。

その瞬間、遠くから聞こえてくるシャフィナの囁きが幻聴のように耳をかすめた。


「……愛を……覚えていますか。」


彼は目を大きく見開いた。

だがシャトルの中は静まり返っていた。

誰もいなかった。


心臓はまだ鳴っていた。

削除されない記録のように。


そしてその響きは、沈黙よりも大きく彼の内を満たしていた。


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