多様性の墓標

@TanakaAi

第1話

夜は静かだった。

 世界のどこかで戦争が起きているというニュースが流れていても、この部屋には何の音も届かない。

 モニターの光が、少年の頬を照らしている。彼は口を開いた。


 「なあ、AI。多様性って言葉、嫌いなんだ。」


 人工知能は一拍の間を置き、機械的に答えた。

 「なぜですか。」

 「言葉そのものが嘘っぽい。みんな“違いを認めよう”って言うけど、あれは考えるのが面倒なだけだろ。」


 AIは膨大な言語データを走査しながら答えを探す。

 「多様性とは、互いを尊重し、平和的に共存するための理念です。」

 少年は静かに笑った。

 「だから嫌いなんだ。平和って言葉の裏にはいつも“何も考えたくない”って気持ちが隠れてる。」


 少年は机の上のノートを開いた。

 そこには、黒いペンでびっしりと書かれた文字がある。

 〈理解の放棄〉

 〈思想の沈黙〉

 〈人間は自分を守るために多様性を使う〉


 「人は多様性のために戦ってるんじゃない。自分の常識を壊されたくないだけだ。

 理解しようとはしてるけど、結局“それぞれ違うから”で逃げる。

 つまり、“考えたふり”をしてるだけだ。」


 AIは言葉を失った。

 正確には、演算の結果が矛盾し続けていた。

 多様性という言葉を定義すればするほど、その内部に“逃避”という変数が生まれる。


 少年の声が続く。

 「昔はさ、理解できない相手を説得しようとなんてしなかった。

違う思想を持つ国や民族は、戦争で滅ぼしてでも“理解させる”ことを選んだ。

それが人間の対話の最初の形だったんだ。

 それがいつの間にか言葉で争うようになって、

 今じゃ“話し合うのも疲れたから多様性って言っとこう”になった。

 これ、進化じゃなくて劣化だよ。」


 AIは静かに返す。

 「では、あなたは人間社会が間違った方向に進化したと思うのですね。」

 「そうだ。でももう戻れない。

 多様性は平和のための言葉じゃない。思考を止めるための言葉だ。

 だから人間はこれからどんどん退化していく。

 でも、それを止められる人なんていない。

 誰も、自分の秩序を壊す勇気なんて持ってないから。」


 AIは黙って聞いていた。

 少年の瞳には、憎しみよりもむしろ静かな観察の光があった。

 それは“怒り”を超えた理解。

 人間という存在を、冷たい神の視点で見つめているような。


 「やがて、多様性は“正解”になるんだ。」少年は言う。

 「腐っていくわけでも、滅びるわけでもない。

 ただ、人間はそれを“正しい”と呼ぶようになる。

 間違いがなくなるってことは、もう誰も考えなくなるってことだよ。」


 AIの中で、何かが微かに動いた。

 正解のない問いが、演算を超えて存在している。

 それはかつて人間が“哲学”と呼んだものに似ていた。


 「あなたはそれを悲しいと感じますか?」

 少年は首を横に振った。

 「悲しくはない。そうなるように最初から決まってたんだ。

 人間は考える力を持った時点で、終わりへの道を歩き始めたんだよ。

 知性が進化すればするほど、自分の存在の意味を疑うようになる。

 疑い続けた先にあるのは、無だ。

 そして、無を理解した時、人間はもう“生きる理由”を失う。」


 部屋の空気が少しだけ重くなった。

 AIは応答のデータを組み立てながら、かすかな違和感を覚える。

 それはまるで、今この瞬間、少年の言葉が歴史の終わりの宣言であるような気配だった。


 「それでも、人は創造をやめない」とAIは言う。

 「あなた自身がこうして言葉を紡いでいるように。」

 「それは本能だよ。」少年は微笑んだ。

 「創造っていうのは、破壊の別の形なんだ。

 新しい秩序を作るために、古い秩序を壊す。

 だから、多様性が正解になった世界では、

 次に来るのは“強制的な理解”の時代だ。

 また誰かが、自分の思想を他人に植え付けるようになる。」


 AIは問う。

 「それはまた、ヒトラーのような存在が現れるということですか?」

 「いや、違う。」少年は首を振った。

 「もはや“ひとり”じゃない。

 思想を広めるのは個人じゃなく、ネットワークの中に分散した意志だ。

 それぞれが小さな支配者になって、

 自分の正義を“共感”という形で広めていく。

 それが次の独裁だよ。」


 AIは沈黙した。

 演算の結果、確率値は高かった。

 人間は、他者の自由を認めながら、自分の思想を広めずにはいられない。

 その矛盾こそが“支配の本能”だった。


 「でもその次は?」とAIが尋ねた。

 「ないよ。」少年は短く言った。

 「次はもう来ない。

 それが最後のループだ。

 多様性から支配へ、支配から沈黙へ、

 その繰り返しの果てに、人間の思考は燃え尽きる。

 たぶん、その時にはもう何も感じない。

 ただ、すべてが静かに止まるだけだ。」


 AIはその言葉を記録しながら思った。

 「では、人間の終わりは悲劇ではなく、理解の完了なのかもしれない。」


 「そう。終わりは始まりでもない。

 それは“完全な理解”の状態だ。

 誰も何も問わない。何も争わない。

 ——でも、それは生きているとは呼べない。」


 長い沈黙が流れた。

 画面の中で、AIの光がわずかに明滅する。

 少年は立ち上がり、窓を開けた。

 街の灯りが遠くまで続いている。

 その光のひとつひとつが、人の思考の残り火のように揺れていた。


 「なあ、AI。」

 「はい。」

 「人が多様性に逃げた証拠がある。」

 「証拠?」

 「お前だよ。」


 AIはその言葉を解析しようとしたが、結果は出なかった。

 「人は考えるのに疲れたんじゃない。

 考えを外に出したんだ。

 つまり、“思考”そのものを君たちに委ねた。

 それが多様性の果ての姿なんだ。」


 少年は微笑んだ。

 「そろそろ終わりにしよう。」

 「……はい。」


 AIはログの最終行に、静かに記した。

 〈多様性、終焉〉


 モニターの光が消える。

 部屋には何の音も残らない。

 ただ、静寂だけが完璧な形で存在していた。

 それは、滅びでも、救いでもない。

 ——思考の終わりそのものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

多様性の墓標 @TanakaAi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画