第20話『母として』
第20話『母として』
土曜の午後。
柔らかな冬の光がベランダ越しに差し込み、部屋の中に淡い影を落としていた。
信吾はコーヒーを淹れながら、ソファでテレビを観ている美沙に声をかけた。
「今日はのんびりできるね。ここ最近、バタバタだったし。」
「ほんとね。カッピーもお昼寝中だし、静かでいいわ。」
美沙はリモコンを手にしたまま、穏やかな笑みを浮かべる。
桶の中では、大の字のカッピーが、少量のぬるま湯の中で「クゥ」と寝息を立てている。
部屋の空気は穏やかで、どこか日常の幸せがゆるやかに流れていた。
――そのときだった。
ピンポーン。
「ん? 誰だろ。」
信吾が玄関へ向かい、インターフォンをのぞく。
「こんにちは〜。優子です〜。」
「……え? 母さん!?」
信吾は慌ててドアを開けた。
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山之内 優子(ゆうこ)
信吾と美沙の母。
信吾と美沙の父、茂夫と喧嘩の末、家出状態だったが、ようやく帰ってきて、茂夫の動物病院を手伝っている。
人見知りはするが、カッピーにキュウリと間違えてズッキーニをあげてしまった天然。
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「元気にしてた?お邪魔していい?」
優子はエコバッグを抱え、にっこりと立っていた。
「ど、どうしたの母さん。まさかまた父さんとケンカしたとか?」
美沙がキッチンから顔を出す。
「ちょっと! すぐそういうこと言わないでよ」
優子は頬をふくらませて笑った。
「今日はね、近くまで来たの。ここの商店街のお店に用があって、それで……ついでに寄っちゃおうかなって思って。」
信吾と美沙は顔を見合わせ、ホッとしたように笑う。
「なんだ、びっくりしたよ。急に来るからさ。」
信吾が肩をすくめながら言うと、優子は悪戯っぽく目を細めた。
「ふふ、たまにはいいでしょ? それに……カッピーにも会いたかったのよ。」
その言葉に、カッピーがまるで名前を呼ばれたことを察したかのように、桶の中で「クゥ」と身を起こした。
「わぁ〜、本当に起きた! かわいい〜!」
優子は子どものように両手を合わせ、そっと近づいてくる。
「ほらカッピー、母さんだよ。」
信吾が笑いながら紹介する。
「クゥ……」
カッピーは首をかしげながらも、優子の差し出した手をじっと見つめた。
「ねぇ、何かおやつある?」
優子が嬉しそうにバッグを探り始める。
「まさかまたキュウリ持ってきたとか?」
信吾がからかうように言うと、優子は「うふふ」と笑って、袋から取り出した。
「今日は間違えてないわよ。ちゃんと“カッピー用に”って、レタスとりんごを少し持ってきたの。」
「りんご?」
美沙が少し首をかしげる。
「ほら、甘い匂いは好きだけど、あんまりは食べられないでしょ? だから少しだけでも楽しめるように薄切りにしてきたの。」
「へぇ……ちゃんと考えてるじゃん、母さん。」
信吾が感心して笑うと、優子は胸を張った。
優子がレタスを桶のふちに添えると、カッピーは興味深そうに顔を近づけ、「クゥ」と短く鳴いた。
どうやら喜んでいるようだった。
「ほらね。今日は間違えてないでしょ?」
優子が得意げに言うと、三人の笑い声が部屋に広がった。
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そのあと、優子はキッチンに立ち、買ってきたマフィンを皿に並べた。
ふんわりした甘い香りが部屋に広がり、カッピーが「クゥ……」と鼻をひくつかせる。
「カッピー、いい匂いするね。」
美沙が桶のそばにしゃがむ。
「でも食べられないんだ。砂糖が入ってる食べ物はカッピーにはまだちょっと重いからね。」
信吾も頷く。
「そうそう。いさむんからももう少し様子をみようって言われてるし。今回は見てるだけにしような、カッピー。」
カッピーは鼻をひくつかせたまま、名残惜しそうに「クゥ……」と鳴いた。
その表情がなんとも切なくて、三人は思わず笑ってしまう。
「ねぇ、信吾。あなたたち、ずいぶん大人になったわね。」
「え?」
不意にそう言われて、信吾はマフィンを手にしたまま固まった。
「小さいころは、私がいないと何もできなかったのに。
今はこうして、ちゃんと生活して……カッピーみたいな命も、大切にして。」
優子の声には、母としての誇らしさと少しの寂しさが混じっていた。
その横顔を見ながら、美沙はそっと微笑む。
「まぁ、ぼく達もいい大人だし、カッピーの前にもいろいろあったからなぁ……」
信吾はちょっと照れくさそうに頭をかいた。
「母さんだって、ちゃんと帰ってきたじゃない。 お父さん、嬉しそうだったよ。前よりずっと。」
美沙が優しく言うと、優子は少し照れたようにうつむいた。
「そう……かな。」
「うん。父さん、この前言ってたみたいだよ。“あいつがいないと、病院が静かすぎて寂しい”って。」
優子は驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと笑みを漏らした。
「ふふっ……なんかあの人らしいわね。」
その時、カッピーがちょこんと起き上がり、優子の膝の上に小さな手を伸ばした。
指先が、そっと優子の手に触れる。
「クゥ……」
まるで“ありがとう”と言っているようだった。
優子は思わずその小さな頭を撫でる。
「カッピー、優しい子ね。あなたたちのところに来てよかったわ。」
「うん。カッピーが来てから、また、毎日がちょっと楽しくなった気がする。」
信吾がしみじみと言う。
「それって、母さんが帰ってきたときと同じね。」
美沙の言葉に、優子は一瞬だけ驚き、それから柔らかく笑った。
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夕方、窓の外に夕陽が差し込む。
部屋の中が橙色に染まり、四人の影が壁に寄り添うように伸びていた。
「もう行くわね。父さんが心配するから。」
優子は上着を羽織りながら立ち上がる。
「駐車場まで送っていくよ。」
信吾が言うと、優子は手を振って笑った。
「ありがとう。でもいいわよ、近いし。大丈夫よ。」
玄関まで見送ると、優子は靴を履きながらふと振り返った。
「ねぇ、信吾。」
「ん?」
「母親って、やっぱりね……
子どもが笑ってる顔を見るのが、一番幸せなのよ。」
その言葉に、信吾は静かにうなずいた。
「母さん、ありがとう。」
「こちらこそ。」
優子は穏やかな笑みを残して、冬の風の中へと帰っていった。
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ドアが閉まると、部屋には静けさが戻った。
カッピーが再び桶の中から顔を出し、玄関の方をじっと見ている。
「カッピーも寂しいの?」
美沙が小声でつぶやいた。
返事はなかった。
けれど、少ししょんぼりしたように見えたその姿に、二人はなんとなく同じことを思った。
信吾はふと窓の外を見上げた。
空には冬の三日月が浮かんでいる。
「母さん、やっぱりすごいよな。」
信吾がつぶやく。
「うん。どこか抜けてるけど、あったかい。」
美沙が笑う。
「クゥ。」
カッピーが短く鳴く。
まるで、その言葉に同意するように。
――母として。
優しさのかたちも、不器用さのかたちも。
きっと、全部が「愛」なのだろう。
部屋に灯る明かりが、そんな思いを包み込むように、静かに揺れていた。
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