第12話 『川に宿るもの』

第12話 『川に宿るもの』


「おーい! 君たち、こんなとこで何してるんだ?」


 その声に振り返ると、背の高い男性がこちらへ駆けてくるのが見えた。冬の冷気をものともしない厚手のジャケットを羽織り、肩には望遠レンズのついたカメラがぶら下がっている。頬は赤く染まっていたが、その目は力強く、どこか温かい光を宿していた。


 信吾は思わず身を固くした。知らない人物に声をかけられると、カッピーがいる手前、どうしても警戒心が働いてしまう。美沙の前に少し出るようにして、カートの取っ手を握り直す。


「こんにちは。そんなに警戒しないで」

男性は両手を軽く上げて見せ、穏やかに笑った。

「僕は森田光って言います。自然保護の活動をしていて、この川の環境調査に来たんだ」


 そう名乗ると、彼はにこやかに頭を下げた。美沙は少し驚きながらも「自然保護活動家さんなんですか?」と聞き返す。


「そうそう。この辺りの水質や生態系を長年見てるんだよ。川は生き物たちの命の源だからね。君たちもこの川によく来るのかい?」


 森田の声には押しつけがましさはなく、純粋に興味を抱いていることが伝わってきた。信吾は少し警戒しながらも答えた。


「まあ、散歩みたいなものです。」


 森田はカートに目をやると、優しく笑った。

「いいね。今日は寒さもやわらいでるし、お子さんのお散歩には最適だよ」


 信吾は一瞬、言葉に詰まった。子どもだと思われたのか。そう思うと、苦笑を浮かべながらも適当にあしらうことにした。

「そうですね。今日は散歩日和ですよね」


 信吾は合わせるように言いながら、心の中では早く切り上げて帰ろうと考えていた。


「僕も子どもの頃からよく来ていたんだ。川はね、四季でまるで表情が違うんだ。夏は賑やかで、秋は少し寂しげで、冬は……厳しくも澄んでいる。だから、この場所が僕にとっては教科書であり、友達でもあるんだ」


 森田はそう言って川辺に近づき、手袋を外して水面へ身をかがめた。薄氷がまだらに張る流れに指先を浸すと、冷気に顔をしかめながらも、どこか懐かしそうに微笑んだ。


 信吾はその横顔を見つめながら、いつ話を切り上げようかと考えていた。そのとき、森田がゆっくりと口を開いた。


「……そうだ、ちょっと変な話をしてもいいかな」


 森田は川辺にしゃがみこみ、流れる水に手を浸したまま、遠い記憶を語り始める。


「十代の頃、夕暮れにここで一人で釣りをしていたときのことだ。水面に、不思議なものを見たんだ。子どもくらいの背丈で、でも人じゃなかった。背中に丸い光沢のあるものを背負っていて、水の中を自在に泳ぎ回っていた。あのときの感覚は今でも忘れられない。夢だと思いたかったけど、僕にはそうは思えなかった」


 美沙ははっと息をのむ。信吾は思わずカートの中のカッピーを庇うように体を寄せた。


 森田はそんな二人の反応に気づかぬまま、穏やかな笑みを浮かべた。

「誰に話しても信じてもらえなかった。でも、その体験があったからこそ僕は川を守りたいと思うようになったんだ。あの時の“何か”は、この自然と共に生きている大切な存在だと、ずっと信じてる」


 言葉に嘘はなかった。むしろ、そのまっすぐな眼差しに二人の警戒心は少しずつ解けていった。


「……すごいですね」

美沙が静かに言った。

「ただの思い出で終わらせずに、守るための力に変えたんですね」


「ありがとう。僕は不器用だからね。見たこと、感じたことを、そのまま信じるしかできないんだ。でも、それでいいと思ってる」


 その言葉に重なるように、カッピーがカートの中で退屈そうに身をよじった。小さな手足をばたつかせ、鼻を鳴らす。信吾はそれを察し、森田に軽く会釈してから、カートを押して少し離れたところを散歩した。幼い子どもをあやすように、カッピーの気持ちを落ち着かせようとしたのだ。



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 その間も、森田は川辺の草木を手に取りながら話を続けていた。


「この川はね、昔から人と生き物の暮らしを支えてきたんだ。魚も鳥も、季節ごとにやって来る。そういう循環の中で、昔の人は川の精霊を信じていたらしい」


 美沙が「精霊……」とつぶやいたとき、森田は少し声を落として続けた。


「たとえばカッパだ。水の妖怪とも言われるけど、実際には“水辺の守り神”のように扱われることも多かったんだ。子どもに気をつけろって戒めの意味もあったけど、それだけじゃない。恐れるだけでなく、川に住む仲間として敬ってきたんだよ」


 ちょうどその時、信吾がカッピーを落ち着かせて戻ってきた。カートの中で小さな体はまだきょろきょろと落ち着きがなかったが、冷たい風に頬を赤らめて少し元気を取り戻したようだった。


「森田さんは……もし本当にそんな存在がいるとしたら、どうしますか?」

 美沙が純粋な疑問として問いかける。


 森田は迷わずに答えた。

「全力で守る。たとえ周りから笑われても、嘘つき呼ばわりされてもだ。僕が十代のときに見たあの光景は、心の中でずっと生きてる。だから、再び出会えたなら……その命を脅かすものから絶対に守り抜く。それが僕の役目だと信じてる」


 その強い言葉に、信吾の胸の中の不安がすっと軽くなった。

(この人……ちょっと信用できるかもしれない)

 そんな思いが、静かに胸の奥に広がっていった。



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「そろそろ行こうか」

 信吾が小さく美沙に声をかけると、美沙はうなずいた。

「じゃあ、ちょっとそろそろ行きますね」

「おっと、長々と話してしまって申し訳なかったね。また、どこかで会えたらいいね」

 森田は優しく笑った。その穏やかさに、美沙もつられて微笑む。


 しかし、その直後だった。


 突然、川辺の氷がぱきんと割れる音が響いた。冬の冷え込みで張っていた薄氷が、強風にあおられた枝の落下で一気に砕け散ったのだ。


「危ない!」

森田が叫ぶ。


 驚いたカッピーは思わずカートの縁に身を乗り出し、次の瞬間、小さな体が足を滑らせて氷の割れ目へと落ちてしまった。


「カッピー!」

 美沙の悲鳴が冬空に響く。


 信吾が駆け寄ろうとするよりも早く、森田は躊躇なく川へ飛び込んでいた。冷たい水が激しく跳ね、彼は必死に手を伸ばし、小さな体を抱き上げた。


 その瞬間、森田の腕の中で暴れるカッピーの甲羅が太陽の光を受けて光を反射した。水に濡れた頭の皿から雫が滴り落ちる。人ではない姿が、はっきりと露わになった。


「な、これは……!」

 森田の目が驚愕に見開かれる。


 信吾と美沙は凍りついた。自分たちから決して明かすことのない秘密。それが、今、完全に露見してしまった。


 動揺する信吾は、必死に言葉を探す。 「ち、違うんです、これは……」

 だが、森田はそれを制するように首を振った。


「心配しないでくれ。よく事情は分からないが、このことは僕は誰にも言わない。こんな大切な存在を、守らなくてどうするんだ。むしろ……この川ごと、君を守りたい」


 その瞳は、恐れではなく確かな決意に満ちていた。信吾と美沙は安堵の息を吐き、カッピーも幼い子どもが甘えるように「クゥ」と声を漏らし、森田の胸に顔をうずめた。


 森田は濡れた髪をかき上げ、寒さに震えながらも笑みを浮かべた。

「やっぱり……僕はこの川を守るために、生まれてきたのかもしれないな」



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 川はすべてを見ている。

 人の迷いも、信じる心も、流れの中で試される。

 偶然の出会いは、ときに運命を変える。


 信吾、美沙、そしてカッピーの物語は、さらに深く川と結びついていく。

 冬の澄んだ空の下、川の流れは今日も変わらず続いていた。


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