第2話『カッピーの食卓』

第2話『カッピーの食卓』


 ――人は、日常を取り戻すのに時間がかかる。

 しかし、非日常に順応するのは驚くほど早い。


 ゴンちゃん(ドラゴン)と暮らした日々を経て、信吾はもう知っていた。

 常識というものは、思っているよりも簡単にひっくり返る。

 だからこそ、今――自分のリビングの真ん中に「カッパの子ども」が座っている現実も、頭の片隅では受け入れ始めていた。


 けれども、受け入れることと、理解できることは別問題だ。

 そのことを、この日の夕食の際で思い知らされることになる。



---


「はい、カッピー! お待ちかねのキュウリだよ~!」

 美沙が勢いよく差し出したのは、丸ごとのキュウリ。

 まだタオルの上にちょこんと座っていたカッピーは、ぱあっと顔を輝かせた。


「クゥ!」

 短い鳴き声とともに、両手でがしっと抱きかかえる。

 そして、もぐもぐ……と、信じられない速さでかじりついていく。


「……はやっ」

 信吾は思わず呟いた。

 カッピーの口の動きは小さく、愛らしいのに、キュウリがみるみる短くなっていく。


「ね、可愛いでしょ! ほら、もう一本」

 美沙が次を差し出す。

 カッピーは迷わず両手を伸ばし、再びかぶりついた。


「ちょ、ちょっと待って。美沙さん、今もう三本目だぞ」

「いいじゃん、食欲あるって健康の証拠だよ」

「いや、証拠はいいけど……。キュウリばっかで栄養大丈夫なのか?」


 信吾は腕を組み、心配そうに見下ろす。

 人間ならキュウリだけじゃ偏るに決まっている。カッパがどうかなんて知らないが、動物の子どもにだってバランスの良い食事が必要なはずだ。


「うーん……確かにねえ」

 美沙も口を尖らせる。

 カッピーはそんな二人の会話などお構いなしに、しゃくしゃくと音を立てて食べ進めている。


 やがて、キュウリを食べ終えたカッピーが、じっと信吾の手元を見上げた。

「……な、なんだよ」

「クゥ」

 その声は小さいが、明らかに「まだあるでしょ」と言っているように感じた。


「ダメだ。お前、さっきからキュウリしか食べてないだろ。他のものも食べてみろ」

 信吾は冷蔵庫からリンゴを取り出し、今度は小さめに刻んで皮つきのまま差し出してみる。


 カッピーは興味深そうにくんくんと匂いを嗅ぎ、恐る恐るかじった。

 ……そして、ぱっと顔を明るくし、残りを一気に食べた。


「おっ、食べたな!」

「やったー! やっぱり果物もいけるんだ」


 二人が顔を見合わせて喜ぶ。

 しかし次の瞬間――カッピーは小さくくしゃみをして、皮のかけらと種をちょこんと床に吐き出した。


「……あ、ちゃんと出すんだな」

 信吾は感心したように目を細め、思わず笑みを漏らす。

「えらいね~カッピー!」


 美沙が手を伸ばすと、カッピーは嬉しそうに頭を撫でさせた。


 信吾はその姿を眺めながら、胸の奥にわずかな不安を抱え込む。

 この小さな生き物を生かしていくのは、自分たちの責任だ。

 食べ物ひとつ取っても、まだわからないことだらけ。


 ――果たして、カッパって本当に何を食べて生きているんだろう?



---


 夕食を終えてしばらく。

 信吾が洗濯をしようと浴室へ向かうと、ちゃぷちゃぷと妙な音が聞こえた。


「……美沙さん、なんか浴室から音しない?」

 信吾が眉をひそめて声をかける。


「するね。そういえばカッピーは?」


 二人で顔を見合わせる。

 そっとドアを開けると――そこには、浴槽いっぱいの水にぷかぷかと浮かぶカッピーの姿があった。


「クゥ~……♪」

 幸せそうに目を細め、手足を広げて完全にくつろいでいる。


「……ちょっと待て」

 信吾は呆然と声を漏らす。

「なんでお前、もう風呂入ってんだよ」


 カッピーは答えず、ばしゃっと小さく水を跳ねさせた。

 水滴が飛んできて、信吾の頬に冷たく当たる。


「きゃー! 可愛い!」

 美沙は手を叩いて喜んでいる。


「可愛いじゃないよ!浴槽に溜めてた水で洗濯しようと思ってたのに。それに今日めちゃくちゃ寒いのに、ぼくたちが風呂入れなかったらどうすんだよ!」

 信吾は声を荒げる。


「だってカッパって水に住むんだよ? これが一番安心できる場所なんだよ、きっと」


 信吾は頭を抱え、深いため息をついた。

「……いや、落ち着くのはいいけど、これじゃ完全に風呂がカッピー専用になっちゃうだろ」


 カッピーは水の中でくるりと一回転し、皿の水をちゃぷちゃぷと補充するように湯をすくっている。

 まるでそこが自分の「巣」であるかのように。


「……やばいな。毎日こうやって風呂占拠されたら、こっちが困る」

 信吾は眉間を押さえ、想像するだけで頭が痛くなった。


「うーん……でも、外は雪だし。別の場所を用意するにも限界あるしね」

 美沙も唇を噛み、困ったように首を傾げる。


「だよなあ……。どうすりゃいいんだ」


 二人が浴槽を覗き込んで悩んでいると、カッピーは無邪気に「クゥ!」と鳴いて水を跳ね上げた。

 その小さな飛沫が美沙の髪を濡らし、彼女はくすくす笑った。


「信吾、こういうのって専門の人に聞いたほうがいいかもね」

 美沙は小声で、しかし真剣な面持ちで言う。


「専門って……うーん、とりあえず赤荻さんに聞いてみるか。何か情報くれるかもしれないし。」

 信吾は腕を組み、半ば観念したように呟いた。


「うん。力になってくれるよ、きっと」

 美沙は濡れた髪を拭いながら、にっこりと笑った。


「まぁお前らまたかって、呆れそうだけどな」

 信吾は重たい息を吐き、浴室の壁にもたれかかった。



---


 ――こうして、信吾達の新しい生活は早くも壁にぶつかった。

 信吾の胸の奥に不安が募っていく。

 食事も、水も、住む場所も――この先どうしていけばいいのか。


 カッピーの笑顔は愛らしく、共に暮らすことは確かに幸せだ。

 だが同時に、未知の存在を育てるという重さが、じわじわと現実味を帯び始めていた。


 その答えを探すために。

 信吾と美沙は、赤荻さんのもとを訪れることを決めたのだった。



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