ブランカ

釈 蓮

ブランカ

 父が転勤族で、幼い頃から全国津々浦々を北へ南へ転々としてきた。

 そういう子どもは、誰とでも友達になれる人間になるか、友達の作り方が分からない人間になるかのどちらかで、私は後者だった。

 小学四年生の六月。転校から二か月が過ぎても、相変わらずなじめない私は、その日も帰宅してからずっと、自分の部屋で時間をつぶしていた。そろそろ、お父さんが帰ってくる頃だなと思ったとき、玄関の方からお母さんの悲鳴が聞こえてきた。

 行ってみると、お父さんが犬を抱いていた。上がり框には開いたケージが置いてあった。

「同僚が、またアメリカに行くことになったんだ。この子はアメリカ生まれで、とりあえず日本に一緒に連れてはきたけど、こう異動がつづくとさすがにってね。他にも何匹かいて大変だから、一匹もらってくれないかってさ」

 そういうことは家族に相談してから引き受けてくれと、お母さんは怒っていたけれど、お父さんはどこ吹く風だった。

「夏美、おまえの友達だ」

 腕に抱えた犬を私の方へ近づける。思わず私は後ずさった。

「怖がらなくても大丈夫。おとなしい女の子だから」

 そう言われて、おそるおそる手をのばす。くんくんされ、ぺろりと舐められた。くすぐったくて、ふふっと息が洩れた。

「この子、なんて言うの?」

「ポメラニアンだ」

「違う。この子の名前」

「ああ。ブランカ」

「ブランカ?」

「ポルトガル語で白って意味さ。ほら、白いだろ?」

 たしかに白くて、たんぽぽ綿毛みたいだった。


 その日から、私はブランカといつも一緒だった。家族の中だと私が一番よく懐かれており、ごはんを食べるときも、眠るときも一緒だった。トイレまで一緒に入ってこようとして、前足でドアをガリガリされるのには参ったけれど。

 お母さんは、食費がかさむだの、借家が傷だらけになるだの、布団が毛まみれだのと文句を言っていたけれど、ブランカが家にいることそれ自体に、嫌な顔はまったくしなかった。というのも、お父さんから聞いたのだが、ブランカがうちに来てから、私が明るくなったということで、お母さんなりにブランカを信頼するようになったらしい。

 たしかに、ブランカと出会ってから、私の生活は華やぎはじめた。

 家に帰れば、いつも玄関先でブランカが待っていた。ランドセルを放り投げて、お母さんの怒声を聞きながら、散歩に出かけるのが日課になった。風の吹くまま、ブランカの行くまま歩いていく。クラスメイトに会うこともあった。ブランカは人気者で、そのまま一緒に遊んだりもした。その頃には、学校にもなじめるようになっていた。もちろん、ブランカのおかげだ。

 でも、私の一番の友達はブランカだ。家に帰って、宿題をして、夕飯やお風呂を済ませると、部屋で二人っきりになる。眠たくなるまで、二人で話をするのだ。その日あった楽しかったこと、嬉しかったこと。悲しかったこと、嫌だったことも。私は何でも話して、ブランカは何でも聞いてくれた。ブランカは言葉を話さないけれど、私の言葉はブランカに届いている。楽しい話をすれば、ブランカも楽しそうにわんわん吠えて回る。悲しい話をすれば、くーんと鼻を鳴らして悲しんでくれる。

 お母さんはそんな私を気味悪がってリビングに引きとめようとするけれど、お父さんはそんなお母さんをいつもなだめてくれた。

「俺も子どもの頃は犬を飼ってたんだ。誰にも言えないことも、あいつになら何だって言えるし、何だって聞いてくれた。夏美とブランカもきっとそうなんだよ。一番の友達で、最高のパートナーで、お互いがお互いを分かり合ってるんだ。娘を奪られたからってそうヤキモチ焼くなよ」

 ヤキモチなんか焼いてないわ、とお母さん。でも、本当にそう。お父さんの言うとおりなんだ。転校ばかりで嫌な思いもしたけれど、お父さんがお父さんでよかった。


 あっという間に五年生になった。そして、転校した。今まではそうでもなかったけれど、ブランカをとおして仲良くなっていたから、今回はちょっと悲しかった。クラスメイトも悲しんでくれた。でも大丈夫。私にはブランカがいる。次の学校でも、ブランカが私とクラスメイトを繋いでくれる。そうならなくても、ブランカがいるだけで私は大丈夫。

 ところが、新しい学校は空気が違った。肌で感じる嫌な雰囲気。イケてる女子の集団と、それに怯えるようなおとなしめの子たち。いわゆるカーストというものが、こうもはっきりと感じられるのは、初めてのことだった。

 初日にイケてる子に話しかけられた。不合格だったらしい。次の日からあいさつもされなかった。私はカースト下位に沈んだ。下位は下位で、もうすでに集団ができあがっていた。入る余地がなかったし、そう言えば、私には友達の作り方が分からなかった。なんとなく、周囲の目線が冷たいような気がしていた。

 毎日、気が重かったけれど、私の気持ちはまだ明るかった。なぜなら、家に帰ればブランカがいたから。家は変わったけれど、私とブランカは変わらなかった。毎晩二人で話をした。ただ、楽しかったことや嬉しかったことは、だんだんと話題にならなくなっていった。それでも、ブランカは私の話を聞いてくれた。時に私を励まそうとしているようにも見えた。でも、ブランカは言葉を話せない。もどかしそうに鼻を鳴らしながら、その場でくるくる回るだけだった。だけど、私にはそれだけで十分だ。言葉は分からなくても、私の気持ちは届いている。ブランカは私に寄り添ってくれる。それだけで、私はまだ頑張れる。

 けれど、限界が来た。教室でひとり机に向かっていたら、うしろから悪口が聞こえてきた。しっかりと聞き取れたわけではないけれど、たしかに悪口で、明らかに私のことだった。初めてのことだった。怖くて振り返ることができなかった。誰が言っているのかも分からなかったけど、イケてる集団の声だったと思う。怖くて、怖くて、視界が滲んだ。

 その夜、私は泣いた。初めて目にする私の涙に、ブランカは驚いていた。いつもより激しく鼻を鳴らし、部屋中を歩き回り、時折私に近づいて、何か言いたげにこちらを見上げ、わんわんと吠えて、また鼻を鳴らしながら部屋を歩き回った。

 この日ばかりは、ブランカの声が聴きたかった。ブランカが言葉を話せないことに、腹立たしささえ覚えた。自分の髪をかきむしって、引き千切って、床に投げつけたいような気分だった。叫びたかった。思いっきり叫んで喚けば、すっきりするような気がしたけれど、そんなことはできない。押し殺した叫び声は、涙となって出ていった。

 ブランカがすり寄ってくる。ただ事ではないと感じて、さっきよりも激しく鼻を鳴らしながら身体をすりつける。そのあたたかな温もりに押されて、また涙が出てくる。

 叶うならば、声が聴きたい。話がしたい。ここで一生のお願いを使ってもいい。神様、ブランカに、言葉を授けてください。


 ふと目が覚めた。あたりは暗い。時計を見ると、夜中の三時だった。どうやら泣きながら寝てしまったらしい。瞼が重かった。たぶん腫れてる。きっとひどい顔になっているだろう。

 いつもの癖で、かたわらに手をのばす。だが、そこにあるはずの温もりが感じられなかった。明かりをつけると、ブランカは私に背を向けるようなかっこうで窓辺にすわり、外を眺めていた。

「ブランカ。何見てるの?」

 その時、誰かのささやきが聞こえた。どきりとして、思わずあたりを見回す。聞き間違いではない。たしかに人の声だった。だが、この部屋には私とブランカしかいない。寝起きの頭を軽く振り、私は状況を整理する。誰かのささやき声がした。それは間違いない。そして、この部屋にはブランカと私以外は誰もいない。そして、声を出したのは私ではなく、聞こえた声音も私のものではなかった。それが意味することとは、まさかーー。

「ブラン……カ?」

 高価な割れ物に触れるかのような遠慮がちな調子で、ブランカに問いかける。

 ブランカはゆっくりとこちらを振り返った。

 そして、おもむろに口を開いたーー。

「Sorry Natsumi, did I wake you up ? Oh, than that, I have become able to talk with you ! I’m so glad ! But, unfortunately, you cannot speak English and also I cannot understand Japanese. Hmm, though you've often talked to me till now, I don't know what you want to say. I’m tired of pretending to understand what you say ! So, study English, Natsumi and become able to talk with me ! Really please…hmm」


 その日の学校で、私はまた聞こえよがしに悪口を言われたから、そいつの前歯と取り巻きのひとりの鼻をへし折った。教室が悲鳴に満たされて、先生がいっぱいすっ飛んできて、とんでもない大騒ぎになった。救急車も来て、お母さんまで呼ばれた。平日に暇なのか知らないけれど、相手の親も来てお母さんは謝りたおした。私はそうしなかった。そのうちお父さんも来て、でもお父さんは相手にキレ散らかしていた。

 とりあえず、私は学校にいづらくなり、家族はこの町に住みにくくなった。結局、お父さんを単身残してお母さんと一緒に前の町に戻り、またそこの学校に通うことになったのだけれど、人の噂はどこまでも広がっていくみたいで、以前は仲良くしていた子たちも、私を遠巻きに見るようになった。その代わり、今まで付き合いのなかった武闘派少女の由美子となぜか仲良くなった。これもブランカが取り持ってくれた縁かもしれない。

 それから三年が過ぎている。ブランカは相変わらず流暢な英語を話しているが、日本語を話す素振りはまったくない。なんともアメリカ生まれらしい駄犬ではないか。ちなみに、私の外国語の成績は「2」である。

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