第10話 夜の保健室
目を開けると、真っ先に白い天井が飛び込んできた。それと、鼻腔をくすぐるような消毒液の匂い。それのおかげで、今どこににいるのかが分かったが、このシチュエーションなら最初に喋る言葉は決まっている。
「知らない天井だ……」
SNSで天井の画像とともに流れてくる、この呟き。一度でいいから言ってみたかった。
「良かった……。目を覚ましたのですね」
横を向くと、九重先輩が丸い椅子に座り、こちらを心配そうな顔で見つめていた。その綺麗な顔に少しばかり、影がかかってる気がする。
「えっと、ここは保健室ですよね?」
「はい。祐さんが気を失った後、柔道部の方々に運んでもらいました」
「そうですか。後でお礼を言わなきゃいけないですね」
周りを見る感じ、カーテンで囲ってあって外側の様子は分からないが、人が大勢いる気配はない。俺を運んだ後、帰宅したのだろう。
「その、祐さん……。急に殴ってしまい申し訳ありません」
申し訳なさそうに頭を下げる。
「いや、こちらこそ、その……胸を触ってしまい申し訳ないと言いますか……」
右手にはまだ、あの時の感触が残って──。ってそんなこと考えるな。
「それで、その原因を作ったリアラや皆はどこに?」
「千明さんは、お友達のお見舞いに行くと言う事で、先に帰りました。リアラさんは……」
俺が寝ている、ベッドの周りのカーテンを九重先輩が開けると、リアラがいた。ただ、普通にいたわけではない。見事なまでの土下座をしていたのだ。額を床に擦り付けているので、表情は読み取れない。一体何があったのか……。
「この体勢で気絶しています」
「気絶してるんですか!?」
「祐さんが起きるまで、その体勢を崩さないようにと罰を与えたのですが、足の痺れに耐えきれずそのまま……」
罰を与えてる所を見ると、さすがの九重先輩も、今回の件はおかんむりだったらしい。てか、足の痺れで気絶する事あるんだ……。何時間その体勢だったんだよ。
「そういえば時間は……」
ポケットを探ってみたが、携帯が見つからない。って、そうか、体操着だからか。
「もうそろそろ、二十一時になります」
「もうそんなに経ってるんですか」
柔道場に向かってから、かれこれ四、五時間は経過している。さすがにみらいは帰っただろうか。
「それで
確かに隣のベッドには、俺の時と同じく周りに、カーテンが囲ってある。誰かがいる証拠だ。
「寝言ですか?」
「えぇ。いつも、みらいと呼んでいるのに、
あぁ、そういう事か。子供の頃の……思い出したくもない夢を見たばっかりに、みらいをまた傷つけて……。
俺はベッドから降り、隣のカーテンを確認もせず開く。目に映ったのは、ベッドの上で膝に顔を埋めている、みらいの姿だ。耳には手に持っているスマホから、繋がれたイヤホンを付けている。
そのままイヤホンを耳から取り、間髪入れずにみらいからスマホを奪うと、聴いていた動画を止めた。
「あ、祐……」
「悪いな、少し待たせた。帰るか」
俺の声を聞いたみらいは、先程までの暗い雰囲気から一転、いつもの能天気な笑顔を見せてくれた。
「本当よ! もうこんな真っ暗じゃない。これも、祐が夏帆の胸を揉んだせいね」
「別に揉んだ訳じゃないからな。触れただけで……」
「何で少し、口ごもるのよ!」
こんな感じに冗談を言い合えるなら、みらいは大丈夫だろう。中間テストが終われば、みらいの誕生日が来る。その日まで、あまり負担を掛けさせたくないんだけど、まさか寝言で……。
「お二人とも、その事は忘れてください。特に祐さんは、念入りにお願いしますね。さもないと……」
後ろから九重先輩の冷たい声が聞こえ、俺とみらいは、ハッと口を閉じる。
あはは、少し冗談言ってた、だけじゃないですか……。
「一応参考までに、聞くんですが。忘れないとどうなります?」
九重先輩は口ではなく、目線でどうなるのかを示した。そこにはもちろん、気絶したリアラがいて。
なるほど、忘れないとリアラと同じく、罰を与えると……。怖ぇよ。
「ですよね……。はい、今この瞬間綺麗さっぱり忘れました。だからリアラと同じ目には、何卒……」
「ふふ。それはこれからの、祐さん次第ですね」
「信じてください。この事は金輪際、口に出さないと誓いますから」
「はいはい。誓ったのなら、早く着替えて来なさい。体操着のままなんだから。まさかそのまま帰るつもり?」
「あ、そうだった。ありがと、みらい。ちょっくら着替えてくる」
二人に断りを入れ、保健室を出た。保健室は一階にある為、同じく一階にある更衣室にはすぐ着ける。だが、夜の校舎というのは不気味なもので、心なしか足が重く感じる気がした。幸いガラス越しに、外から多少の光があるのは唯一の救いだろ。
少し廊下を進んだ時、異変に気づく。目の前に二つの光。最初は警備員かと思って、何故ここにいるのか、理由を話すつもりだったが、一向に近づいてくる気配がない。
「まさか人魂とか言わないよな……?」
そのまま動けずにいると、段々目が暗闇に慣れてきて、光の正体がようやく、分かるようになった。黒い毛並みの犬だ。きっと外から漏れ出した光を反射させて、目が光っているように見えたんだろうな。だが、なぜ犬が校内にいるんだ? どこからか入って来た? というより、あの犬……。
「前に見た、黒犬だな」
実際、同じ犬なのかは分からないが、あの黄色い目に黒い毛。昨日、みらいの家から帰る時に見た、犬と似ている。
「あ……」
犬はこちらを認識したのか、逃げるように廊下の闇に走っていった。
この学校、セキュリティが甘いな。犬の侵入を許すなんて。
俺達がまだいるから、鍵が閉められないのかも、知れないけど。
「とっとと、着替えて帰らなきゃな。みらいも送らないと、行けないし」
犬の事は一旦忘れ、俺はロッカーに向かった。
制服に着替えて、保健室へ戻ると二人は楽しそうに雑談していた。リアラは未だに土下座の態勢を崩していない。生きてるよな……?
「少し待たせた。それじゃ帰るか」
「その件ですが、帰りが遅くなったのは、わたくしの責任でもありますので、今日は車をお呼びしました。皆さんをお送りいたします」
「助かりますけど、良いんですか?」
「そのぐらい構いませんよ。それに、リアラさんが今のままだと、歩けないと思うので」
「あぁ……」
「それじゃ、今日は夏帆の車で帰りましょ!」
「わたくしのではありませんけどね」
車で送ってくれると言うなら、有り難く乗せて貰おう。さて、リアラを起こすか。
「おーい、リアラ起きろ。帰るぞ」
声を掛けてみたが、無反応。軽く肩を揺らしてみてもダメ。なら……。
「リアラってゲーム下手だよな」
「なんだとぉぉぉぉ!! もう一回言ってみろやぁぁぁぁ!!」
ご覧の通り、目を覚ました。オタクって人種は、二種類いるんだ。好きな物を否定されると、キレる奴と縮こまる奴。リアラは勿論前者だ。
「って、ユウ。お、起きてたのか。良かったぜ……。こ、これで足を崩して良いよなカホォ〜。もう感覚が全然ないんだ……」
「そう言う約束でしたからね。良いですよ」
「よっしゃあぁぁぁぁ!」
そう叫び、リアラは足を地に着け立ち上がった。その瞬間。
「うぎゃああああああああああああぁぁぁぁぁ!!」
想像を絶する叫び声が、保健室──いや、学校中に響き渡った。それもそうだ、ずっと足の感覚が無くなるまで、土下座の体勢を取っていたんだ。それをいきなり立ち上がれば、圧迫していた血液が一気に流れ出し、こうなる。今頃、足がジーンと痺れてる事だろう。
そのまま立つ事ができず、四つん這いになり悶えている。
「あ、足がやば……い……。痺れすぎて、立てない……」
「だろうな。これも、自分への罰だと思って受け入れろ」
「それではリアラさんも起きた事ですし、帰りましょうか。校門前に車は止めてあります」
「は……? 帰る……? 車……? ちょっと待て、私、動けないんだけど!」
「リアラ、わたしがおぶってあげようか?」
「良いのか、助かるぞ。ミキ」
みらいが四つん這いになっているリアラに、背を向け、乗るように言いうと、産まれたての子鹿のように進み、なんとかみらいの背中に、しがみつく事が出来た。
「ミキ、くれぐれも足には触らないでくれ。ほんとガチの話で……」
「そんなの、無理に決まってるじゃない。足を手で支えるんだから」
背に乗った事を確認し、そのまま勢いよく立ち上がる。もちろん、太ももあたりを支える形でだ。
「ぎゃああああああぁぁぁ。あ、足全体が響くうぅぅぅ」
「はいはい。うるさいから静かにしてね」
このまま、校門前まで行く。途中、九重先輩が保健室の鍵を返しに職員室に向かうが、先程見た犬には遭遇しなかった。もう外に出たのだろうか。
校門前に辿り着くと、燕尾服を着た男の人が、こちらに頭を下げているのが見える。初めて見たが、これがいわゆる執事ってやつか。
「
「いえいえ、滅相もない。オレはお嬢の命令なら何時間だって待てますよ。それと、こちらの方々が──」
虎衣と呼ばれた執事がこちらに近づき、胸に手を当て頭を下げた。褐色の肌に白髪で、年は二十代後半ぐらいか? なんというか、様になってる。
「ご挨拶が遅れて申し訳ない。お嬢──夏帆様の身の回りのお世話を、任されている
「カホにも、お世話係がいたんだな。私の家にもいるんだが、いつも私を外に出そうとするし、ほんと困った奴だったよ」
それは、そのお世話係が正しいと思うんだが。家の中にいるより、外で遊んでいた方が健康的だろうし。
「それで名前だったな。私は、天壌リアラだ。よく覚えておけよ」
気のせいか、リアラの名前を聞いた虎衣さんの眉がピクリと動いた気がした。
「そうですか、貴女が……。えぇ、よく覚えておきます。それで君の名前は」
「臼杵祐と言います。俺とリアラは一年生で、九重先輩の後輩にあたります」
「ご丁寧にありがとうございます、祐様。これからもお嬢と仲良くしてあげて下さい。それでは、夜も遅いですし皆さまをお送り致します」
虎衣さんが、黒塗りの車の助手席のドアを開け、申し訳なさそうに九重先輩に声をかける。
「お嬢、助手席でもよろしいですか? 本来なら後部座席に乗って欲しいのですが、未来様、リアラ様、祐様で埋まってしまいますので……」
「構いませんよ。元よりそのつもりでした」
そう言い、九重先輩は助手席に乗り込んだ。どこかで聞いた事があるが、一番偉い人が運転席の真後ろに座り、真ん中、手前、助手席の順で立場の高い者が座るらしい。
「皆さまもお乗り下さい。未来様、気遣いも出来ず申し訳ありません。リアラ様の状況は、お嬢から一通り聞いているので、後はオレに任せを」
「そう? ありがと虎衣さん」
背負っていたみらいから、リアラを優しく受け取り、車に乗せる。その手つきはまるで、繊細な物を扱う慎重さだ。
「お二人もどうぞ」
俺は先にみらいを真ん中に乗せ、残っている手前に座る。虎衣さんは俺たちが乗ったのを確認すると、ドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
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