【短編小説】天国の在処 ~愛する人はどこへ行ってしまったのか~(約36,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章 桜散る日に

 父が死んだのは、桜の花びらが舞い散り始めた四月の午後だった。


 朝倉七海は病院の廊下で、母の妙子と並んで座っていた。

 白い壁、消毒液の匂い、遠くで鳴るナースコールの電子音。

 すべてが現実離れして感じられた。


「お父さん、最期まで穏やかだったわね」


 妙子は静かに言った。

 六十歳になったばかりの母の横顔には、深い疲労と安堵が入り混じっていた。


 七海は頷くことしかできなかった。

 しかし喉の奥には何か硬いものが詰まっているような感覚があった。


 父・朝倉健一は六十五歳だった。


 元高校教師で、定年後は地域の図書館でボランティアをしていた。温厚で、誰にでも親切で、読書家で。


 そして、


 葬儀は仏式で行われた。

 父の実家が代々仏教徒だったからだ。

 だが父自身は、宗教的な儀式に意味を見出していなかった。


「形だけだよ」


 父はかつて、そう言ったことがある。


「でも、残された人たちが心の整理をつけるためには必要なんだ。僕が死んだら、お母さんや七海が楽になる方法で送ってくれればいい。僕は形式にはこだわらない」


 皮肉なことに七海は宗教学を専門とする大学の准教授だった。


 世界中の宗教における救済の概念を研究してきた。天国、極楽、涅槃、楽園――様々な文化が描く死後の世界について、誰よりも詳しいはずだった。


 だが今、父の遺影を前にして、七海は初めて本当の意味で問いかけられている気がした。


 


 葬儀が終わり、参列者が帰った後、七海は実家の仏間で一人座っていた。位牌の前に供えられた線香の煙が、ゆらゆらと立ち上っている。


「七海、まだ起きてたの?」


 妙子が麦茶を持って入ってきた。


「うん。少し考え事をしていて」


「そう……」


 妙子は七海の隣に座り、湯呑みを差し出した。


「お母さん」


「なあに?」


「お父さんは、天国に行けたと思う?」


 妙子は少し驚いたような顔をした。それから、ゆっくりと答えた。


「お父さんは神様を信じていなかったわね。でも、誰よりも優しくて、正直で、人のために尽くす人だった」


「うん」


「だから……」


 妙子は言葉を探すように間を置いた。


「もし天国というものが本当にあるなら、お父さんはきっとそこにいると思うわ。神様を信じていたかどうかじゃなくて、


「でも、多くの宗教では


「七海は専門家だから、そういうことに詳しいのよね」


 妙子は優しく微笑んだ。


「でもね、私は学問じゃなくて、母親としての直感で言っているの。あんなに良い人が、ただ神様を信じていなかったというだけで、永遠に苦しむなんて、そんなことあるわけがないって」


 七海は母の言葉を噛みしめた。


「お母さんは、天国を信じているの?」


「信じているというより……。いつか、。いつか、また……」


 妙子の目に、かすかに涙が浮かんでいた。


 その夜、七海は自室で眠れずにいた。大学時代から使っている机の上には、世界中の宗教典や研究書が積まれている。


 キリスト教における天国は、神とイエス・キリストを信じる者に与えられる永遠の至福の場所だ。新約聖書のヨハネによる福音書には「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とある。


 では、キリスト教が誕生する前の人々は?

 紀元前に生きた善良な人々は、救済されないのだろうか?


 イスラム教では、アッラーと最後の審判を信じることが天国への条件だ。

 だが、イスラム教が誕生したのは七世紀だ。

 なら、それ以前の人類は?


 仏教の涅槃は、輪廻からの解脱を意味する。

 だが、仏教が興る前の何百万年もの間、人類は死者を弔い、来世を願ってきたのではないか?


 七海はラップトップPCを開き、「天国の起源」で検索した。

 画面に次々と論文や記事が表示される。


 ネアンデルタール人は死者を埋葬し、副葬品を添えていた。約七万年前のシャニダール洞窟では、花を手向けられた遺体が発見されている。死後の世界への信仰は、組織化された宗教よりもはるかに古い。


 人類は、愛する者の死を受け入れることができなかった。だから死後の世界を想像した。そこでは、この世で苦しんだ者が安らぎを得られる。離れ離れになった家族が再会できる。


 天国とは、生き残った者の


 七海は椅子の背もたれに寄りかかった。研究者として、彼女は宗教を客観的に分析してきた。だが今、研究対象だった「天国」が、突然自分自身の切実な問いになっていた。


 


 何度も脳裏で繰り返されるその問いは、七海の心から離れなかった。


 翌朝、七海は大学の研究室に向かった。父の葬儀から一週間、そろそろ仕事に戻らなければならない。


 研究室の扉を開けると、机の上に書類の山があった。未読のメール、採点待ちのレポート、査読依頼の論文。日常が、何事もなかったかのように待ちかまえていた。


 病院とは違い、キャンパスの桜は満開だった。

 学生たちが花の下を笑いながら歩いている。


 七海はコーヒーを淹れ、椅子に座った。しばらくぼんやりと窓の外を眺めていると、ノックの音がした。


「朝倉先生、いらっしゃいますか?」


 扉を開けると、大学院生の若い女性が立っていた。


「先生、お父様のこと、お悔やみ申し上げます」


「ありがとう」


「あの、無理にお仕事なさらなくても……」


「大丈夫よ。仕事をしている方が気が紛れるから」


 七海は微笑んで答えた。だがそれは、半分だけ本当だった。


 その日の午後、七海は「宗教と救済」の講義を行った。百人ほどの学生を前に、彼女は淡々と話した。


「多くの宗教において、救済には条件があります。信仰、善行、儀式、知識――それぞれの宗教が、それぞれの基準を設けています」


 講義をしながら、七海の心は父のことを考えていた。


「では、問います。ある宗教の救済条件をすべて満たしているが、その宗教を信じていない人間がいたとしたら、その人は救われるのでしょうか?」


 学生たちがざわめいた。


「これは古くから議論されてきた問題です。キリスト教神学では『無知の洗礼Baptism of Ignorance』という概念があります。キリスト教を知る機会がなかった善良な人々をどう扱うか、という問題です」


 七海は板書しながら続けた。


「第二バチカン公会議では、『神は、自分のせいではなく福音を知らない人々をも排除することはない』という見解が示されました。つまり、信仰を持つ機会がなかった人でも、良心に従って生きれば救済される可能性がある、と」


 一人の学生が手を挙げた。


「先生、それは他の宗教でも同じですか?」


「良い質問ですね。イスラム教でも、『啓示に達していない者』については特別な配慮があります。仏教の場合、そもそも救済の条件が信仰よりも実践と悟りにあるので、少し異なりますが……」


 講義は予定通り進んだ。だが、七海の心の中では別の声が響いていた。


 


 講義が終わり、研究室に戻ると、七海は書棚から一冊の本を取り出した。『比較宗教学における救済概念』――彼女自身が五年前に執筆した著書だ。


 ページをめくると、様々な宗教の天国観が解説されている。キリスト教の天国、イスラム教のジャンナ、仏教の極楽浄土、ヒンドゥー教のスワルガ、北欧神話のヴァルハラ、古代エジプトのアアル……


 七海は自分が書いた言葉を読み返した。


「これらの天国観に共通するのは、現世の苦しみからの解放と、永遠の幸福という要素である。死後の世界の概念は、生きる者が死者に対して抱く願いの投影とも言える」


 研究者としての七海は、そう書いた。

 客観的で、学術的で、感情を排した分析。


 だが今、その言葉は

 今の七海の心には、


 七海は本を閉じ、窓の外を見た。夕日が校舎を赤く染めている。


 その時、携帯電話が鳴った。画面を見ると、「冬香」という名前が表示されていた。


 橘冬香。七海の幼なじみで、今は仏教の僧侶をしている。


「もしもし、冬香?」


「七海、久しぶり。お父さんのこと、本当に……」


 冬香の声は、いつも通り柔らかく、温かかった。


「ありがとう」


「葬儀に行けなくてごめんね。ちょうど法事が重なってしまって」


「気にしないで。わざわざ電話くれただけで嬉しいわ」


「あのね、もし良かったら、今度お寺に来ない? 話したいこともあるし」


 七海は少し考えた。冬香と話すのは悪くないかもしれない。


「いつがいい?」


「七海の都合に合わせるよ。週末とか?」


「じゃあ、土曜日に行ってもいい?」


「もちろん! 待ってる」


 電話を切った後、七海は不思議な予感がした。冬香に会うことが、何か新しい扉を開くような気がしたのだ。


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