第二章 冬香との再会
土曜日の朝、七海は電車に乗って郊外へ向かった。冬香が住職を務める「清水寺」は、住宅街の中にひっそりと佇む小さな寺だった。
山門をくぐると、手入れの行き届いた庭が広がっている。石畳の参道を歩き、本堂の前まで来ると、掃除をしていた冬香が顔を上げた。
「七海!」
冬香は満面の笑みで駆け寄ってきた。薄い紫色の作務衣を着て、髪を短く切った彼女は、七海の記憶にある高校時代の姿とは違って見えた。だが、その明るい笑顔は変わっていない。
「久しぶり、冬香」
「本当に久しぶり。二年ぶりくらい?」
冬香は箒を置き、七海の手を取った。
「まずはお参りしましょう。お父さんのこと、ご本尊様にご報告しないと」
二人は本堂に上がり、仏壇の前で手を合わせた。線香の香りが静かに漂っている。
冬香は澄んだ声で短いお経を唱えた。その声は本堂に響き、不思議な安らぎを七海にもたらした。
お参りが終わると、冬香は客間に七海を案内した。
「お茶、淹れるね」
「ありがとう」
しばらくして、冬香は抹茶と和菓子を持ってきた。
「季節のお菓子なの。桜の練り切り」
ピンク色の可憐な和菓子を見て、七海は微笑んだ。
「綺麗ね」
「でしょう? 近所の和菓子屋さんが作ってくれたの」
二人はしばらく、他愛もない話をした。冬香の寺での生活、檀家さんとのエピソード、地域の祭りのこと。
だが、やがて話題は自然と七海の父のことに移った。
「お父さん、本当に良い方だったよね」
冬香は静かに言った。
「私が子供の頃、よく本を貸してくれたでしょう。七海のお父さんは、私にとっても大切な人だった」
「覚えてる。冬香、よくうちに遊びに来てたものね」
「うん。お父さんは、私が読みたい本をいつも選んでくれた。『冬香ちゃんは考える力があるから、こういう本が面白いと思うよ』って」
冬香の目が少し潤んでいた。
「それでね、私が僧侶になろうって決めた時も、お父さんは応援してくれたんだ」
「そうだったの?」
「うん。私の親は反対してたから、すごく悩んでた。でも、お父さんが『冬香ちゃんが本当にやりたいことなら、応援するよ。人のために祈る仕事は、素晴らしいことだ』って言ってくれて」
七海は知らなかった。
父がそんな風に冬香を励ましていたことを。
あの無神論者の父が。
「でも、お父さん自身は……」
「神様を信じていなかった、って七海から聞いたことがある」
冬香は頷いた。
「だから、私、ずっと不思議だったんだ。宗教を信じていないのに、どうしてあんなに人に優しくできるんだろうって」
「それが、今の私の問いなの」
七海は正直に打ち明けた。
「お父さんは善良な人だった。でも、神を信じていなかった。ということは、多くの宗教の基準では、救済されないことになる。でも、それっておかしくない?」
冬香はじっと七海を見つめた。
「七海は、お父さんが天国に行けるかどうか、気になっているの?」
「うん……研究者として冷静であるべきなのに、どうしても気になって」
「それは当然だよ。だって、愛する人のことだもの」
冬香は優しく微笑んだ。
「仏教ではね、救済は信仰だけで決まるものじゃないの」
「詳しく教えてくれる?」
「もちろん」
冬香は姿勢を正した。
「仏教、特に大乗仏教の考え方では、すべての人に仏性がある。つまり、誰もが仏になる可能性を持っているってこと」
「仏性……」
「そう。善い行いをすること、慈悲の心を持つこと、正しい道を歩むこと。それが大切なの。お釈迦様は、神を信じるかどうかよりも、どう生きるかを重視された」
七海は真剣に聞いていた。七海にとってはすべて既知の事実だったが、冬香の口から聞くことに意味があった。
「実は、お釈迦様は形而上学的な問いについて、あまり語らなかったの。『毒矢のたとえ』って知ってる?」
「確か、毒矢に射られた人が、矢を抜く前に『この矢は誰が作ったのか』『どんな材料で作られたのか』と問うている間に死んでしまう、という話よね」
「そう。つまり、死後の世界がどうなっているかを議論するより、今をどう生きるかが大切だって教えなの」
冬香は抹茶を一口飲んだ。
「でもね、民衆は死後の世界を知りたがった。愛する人がどこへ行ったのか、自分はどこへ行くのか。それは人間として当然の感情だから」
「それで、極楽浄土の概念が生まれた」
「うん。阿弥陀如来の極楽浄土は、西方の彼方にあるとされる。そこでは苦しみがなく、美しい音楽が流れ、宝石でできた池があって、誰もが安らかに過ごせる」
「でも、そこに行くためには?」
「浄土宗や浄土真宗では、阿弥陀如来を信じて『南無阿弥陀仏』と唱えることが大切だとされている」
七海は眉をひそめた。
「やはり、信仰が条件なのね」
「でもね、七海」
冬香は身を乗り出した。
「親鸞聖人は『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』って言ったの」
「悪人正機説ね」
「そう。自分を善人だと思っている人よりも、自分の罪深さを自覚している人の方が、阿弥陀如来の救いを求める気持ちが強いから、かえって救われやすいって」
冬香は真剣な目で七海を見た。
「つまり、仏教における救済は、『正しい信仰を持っているかどうか』という形式的なものじゃない。心の在り方が大切なの」
「じゃあ、お父さんは……」
「お父さんは、仏教を信じてはいなかったかもしれない。でも、慈悲の心を持って生きた。それは、仏教の本質を実践していたとも言えるんじゃないかな」
七海は深く考え込んだ。
「でも、それは仏教の解釈よね。キリスト教やイスラム教では、やはり信仰が絶対条件とされている」
「そうだね。宗教によって基準は違う」
冬香は少し困ったような顔をした。
「でもね、私はこう思うの。どの宗教が正しいかなんて、誰にも決められない。大切なのは、その人がどう生きたか、何を信じて生きたか、じゃないかな」
「何を信じて生きたか……」
「お父さんは、神様は信じていなかったかもしれない。でも、人間の善性を信じていたんじゃない? 愛や優しさや正直さを信じていた。それも、一つの信仰の形だと思う」
七海は冬香の言葉を噛みしめた。
「私ね、僧侶になってから色々な人の死に立ち会ってきたの」
冬香は窓の外を見た。
「中には、熱心な仏教徒もいれば、一度もお寺に来たことがない人もいた。でも、どの人の葬儀でも、私は同じように祈ったわ。この人が安らかでありますように、って」
「それは、僧侶としての務めだから?」
「それもあるけど、もっと深い理由があるの」
冬香は七海の目を見た。
「私は、死んだ人が本当にどこへ行くのか、極楽浄土が実在するのか、確かめたことはない。でも、残された人たちが『あの人は今、安らかにしている』って信じることで、心の平安を得られるなら、それが救いになると思うの」
「救いは、生きている人のため……?」
「生きている人のためでもあり、死んだ人のためでもある」
冬香は優しく微笑んだ。
「七海のお父さんは、七海の心の中で生き続ける。そして、七海がお父さんのことを思い出すたびに、お父さんは天国にいるんだよ」
「それって……」
「天国は、愛する人の記憶の中にあるんじゃないかな」
その言葉は、七海の心に深く響いた。
二人はしばらく無言で座っていた。庭からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
「ねえ、七海」
冬香が口を開いた。
「私、一つ提案があるんだけど」
「何?」
「色々な宗教の人に話を聞いてみたら? それぞれの視点から、天国について聞いてみるの」
「色々な宗教の人……」
「七海は宗教学者でしょう? 今まで、研究対象として宗教を見てきた。でも、今度は当事者として、信仰を持つ人たちの生の声を聞いてみたら、今までと違って何か見えてくるかもしれない」
七海は考えた。確かに、それは意味があるかもしれない。
「誰に会えばいいかな」
「私の友達に、カトリックのシスターがいるの。マリア・園田って人。彼女はすごく真摯に信仰と向き合っている人だから、きっと良い話が聞けると思う」
「シスター……」
「あと、七海の大学に、科学者で無神論者の教授がいるって聞いたことがある。理系の先生で」
「ああ、理沙先生のことかな。物理学の」
「そう、その人! 無神論者の視点も大切だよね」
冬香は目を輝かせた。
「色々な視点から『天国』を見つめ直すことで、七海自身の答えが見つかるかもしれない」
七海は頷いた。
「やってみる。ありがとう、冬香」
「どういたしまして」
冬香は立ち上がり、七海に近づいた。そして、そっと七海の手を握った。
「七海、一人で抱え込まないでね。辛い時は、いつでも話を聞くから」
「うん……」
七海は冬香の温かい手の感触に、涙が出そうになった。
「私ね、七海のこと、ずっと大切に思ってるから」
冬香は七海の肩を優しく抱いた。
「お父さんは、七海が思うよりもずっと幸せだったと思う。だって、七海みたいに素敵な娘がいたんだもの」
その言葉に、七海はもう堪えきれなくなった。冬香の肩に顔を埋めて、静かに涙を流した。
「いいのよ、泣いて。我慢しなくていいから」
冬香は七海の背中を優しく撫でた。その手の動きは、まるで子供をあやすようで、七海は安心して涙を流すことができた。
しばらくして、七海は顔を上げた。
「ごめんね、急に……」
「謝らないで。私、嬉しいよ。七海が素直に感情を出してくれて」
冬香は自分の袖で、七海の涙を拭いた。
「七海はいつも強くて、賢くて、一人で何でもできちゃう人だから。でも、弱いところを見せてくれるのも、信頼してくれてるってことだよね」
「冬香……」
「さあ、もう一杯お茶を淹れるわ。今度は煎茶にしましょう」
冬香は明るく言って、立ち上がった。
七海は窓の外を見た。庭の桜の木が、風に揺れている。花びらが一枚、ゆっくりと舞い落ちた。
その瞬間、七海は思った。
父もこうして、静かに、美しく、この世を去ったのかもしれない。そして、どこか――冬香が言ったように、愛する人の心の中で――生き続けているのかもしれない。
だが、それで十分なのだろうか?
七海の探求は、まだ始まったばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます