第2話 夏の残響
バーベキューから一週間が過ぎた。
オフィスの窓から差す光は、もう春のやわらかさではない。湿気が肌に絡み、背中のシャツを薄く貼りつかせる。
いつも通り椅子に腰を下ろし、パソコンを立ち上げる。
視界の端に、葉山さんの姿。
すぐに視線を逸らす。
――また、やってしまった。
意識しないほど、余計に目で追ってしまう。そんな矛盾が、最近の私をじわじわと侵食している。
「おはよう、莉緒」
美千代の明るい声に、思考が表面へ引き戻される。
「おはよう」
いつもの笑顔を形作る。
「今日も暑くなりそう。もう夏だね」
「そうだね」
他愛もない会話。でも、いまの私には、それすら少し重い。
「おはようございます」
こちらへ歩いてきた彼に、私は短く会釈を返しただけで、画面へ目を戻す。
彼は一瞬言いかけて、やめた。静かな気配のまま席に戻っていく。
小さな痛みが胸をかすめる。
――これ以上、深入りしてはいけない。
美香さんがいる。その現実を、忘れてはいけない。
♦
翌週の昼休み。
ベンチで一人、ぬるくなったアイスコーヒーを見つめていると、スマホが震えた。
美香さんからのLINE。
『莉緒さん、この前はありがとうございました♪ 遥斗が最近仕事忙しそうで心配です💦』
『職場で何かありました? 元気ないみたいで……』
無邪気な絵文字。まっすぐな心配。
そのやさしさが、矢のように胸へ届く。
――私には関係ないこと。
そう思おうとしても、「元気ない」という言葉が引っかかる。
『こちらこそ、いつもお世話になってます。葉山さんはいつも通りですよ』
当たり障りのない文面を送り、画面を閉じる。
周りの笑い声が遠のき、夏の熱だけが身体に残った。
午後、美千代がデスクに寄りかかってきた。
「ねえ、莉緒。最近なんか、元気ない?」
「え? そんなことないけど」
「うーん……」
彼女は首をかしげる。
「なんていうか、ぼーっとしてる時間が増えた気がして」
ドキリとする。
「仕事が立て込んでるだけだよ」
「そっか。無理しないでね」
優しい笑顔で肩を叩いて、彼女は戻っていく。
――気づかれてる。
胸の奥が、じわりと重くなった。
♦
数日後の朝。
コピー機の前で印刷を待っていると、背後から声が落ちた。
「おはよう。最近……忙しそうだね」
振り向かずに答える。
「そんなことないです」
「何か困ったら言ってね」
やさしい声。
そのやさしさが、いちばん苦しい。
「……ありがとうございます」
完了音が鳴り、束になった紙を掴んで足早に離れる。
背中に、彼の視線の温度だけが残った。
その日の午後、また美千代が声をかけてきた。
「莉緒、葉山さんと何かあった?」
「え?」
「なんか、最近ふたりとも変な感じ」
「変って……何が?」
「うーん、距離置いてるっていうか。前はもっと普通に話してたのに」
心臓が跳ねる。
「気のせいだよ。何もないから」
「そう? まあ、莉緒がそう言うなら」
美千代は不思議そうな顔をしたまま、自分の席に戻った。
――バレてる。完全にバレてる。
けれど、どうすることもできない。
♦
それから一週間。
私は意識的に葉山さんを避け続けた。
朝の挨拶は最小限。仕事の相談も他の人を通す。
視線が合いそうになったら、すぐに逸らす。
――これでいい。これが正しい。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、彼の表情が日に日に曇っていくのがわかった。
時折、こちらを見る視線に、困惑の色が混じる。
美千代も「葉山さん、最近元気ないよね」と心配そうに呟く。
――私のせい、だろうか。
罪悪感が、別の形で胸を締めつける。
♦
梅雨が明けて二週間ほど経った、ある夏の夜。残業中。
人の少ないフロアに、キーボードの打鍵が点のように響く。
コーヒーを淹れに給湯室へ向かう途中、彼のデスクの前で足が止まった。
資料のページをめくる手が、深い溜息のたびにわずかに震える。
――声をかけるべきか。
逡巡する。けれど、疲れ切った横顔を見て、足が動いた。
「お疲れ様です。コーヒー、いかがですか?」
顔を上げた彼が、少しだけ驚いたような顔をする。
「あ……ありがとう。もらおうかな」
久しぶりに交わす、短い会話。
湯気越しに、疲れがやわらいでいくのが見えた気がした。
「……安西さん」
「はい」
「最近、俺……何かした?」
予想外の問いに、息が詰まる。
「え?」
「なんか、避けられてる気がして」
視線が合う。そこには、傷ついたような色があった。
「そんなこと……」
「俺、何か気に障ること言ったかな。それとも……」
言葉が途切れる。
「違います。私が……ちょっと忙しくて」
「そっか」
ほっとしたような、でもまだ納得しきれないような顔。
やわらかな沈黙。居心地は悪くない。
――ああ、やっぱり。
彼と話すこの時間が、私は好きなんだ。
「安西さん……最近、俺、どうすればいいかわからなくて」
ぽつり。
「……?」
「美香とのことなんだけど」
心がきゅっと縮む。
「美香の両親が、俺に婿養子になってほしいって」
婿養子――その言葉が、夏の夜気より冷たく、胸の奥へ落ちていく。
「美香は一人娘で、両親は跡を継がせたい。でも、うちも長男の俺を手放せないって」
「……そう、なんですね」
「どちらも譲れなくて。俺も美香も、立ち尽くしてる」
横顔には、いつもの余裕がない。困惑を抱えた、等身大の青年の顔。
「美香は『あなたが決めて』って言うけど、どちらを選んでも誰かを傷つける」
視線が窓の闇へ泳ぐ。
「こんなこと、美香にも言えないし……誰にも言えなくて。でも安西さんになら……話せる気がした」
――私に、話してくれた。
胸が熱くなる。同時に、罪の意識が首をもたげる。
「実はさ……」
彼は視線を落とし、もう一度口を開いた。
「俺、四歳のときに母親が家を出ていって。二年後に父が再婚した」
空気がわずかに震える。
「継母とは距離があって……妹が生まれてからは、愛情が向かう先がはっきりしていった」
私は、言葉を飲み込む。
「物心ついたときから『母性』に飢えてたんだと思う。だから余計に、誰かを傷つける選択が怖い。自分の子に、あの感覚だけは味わわせたくない」
「……」
「だから、決められない。誰かが痛む未来を、選びたくないんだ」
彼の孤独が、手が届く距離の温度で伝わってくる。
「……そんなことがあったんですね」
自分の声が、微かに震える。
「だから、葉山さんは優しいんだと思います。知っている痛みの分だけ、誰かにやさしくできる」
「安西さんは、優しいね」
少しだけ救われたような笑顔。
「不思議と、安西さんには話せる。こんなこと、美香にも言えてないのに」
その言葉が、胸の奥で複雑に絡み合う。
嬉しさと、後ろめたさ。
「俺さ、最近気づいたんだ」
彼が続ける。
「安西さんと話してると……なんていうか、肩の力が抜けるっていうか」
視線が、一瞬だけこちらを捉える。
「美香は明るくて、いつも前向きで。それが好きなんだけど……たまに、疲れる時もあって」
――え。
「そういうとき、安西さんの静かな感じに……救われてる」
鼓動が、耳の奥で大きく響いた。
――これは、何?
ただの信頼? それとも……。
胸の奥が熱くなる。
――守りたい。
芽生えていた感情が、音もなく形を持ち始める。
支えたい。そばにいたい。
でも、それは許されない。
「今日は、ありがとうございました。お疲れさまです」
立ち上がる。
これ以上ここにいたら、境界が曖昧になる。
「こちらこそ。また……相談にのってくれる?」
その声には、確かな期待が含まれていた。
「……はい」
小さく答え、廊下へ出た。
胸の熱は、まだ冷めなかった。
――もう、戻れない。
♦
翌日の昼休み。
美千代がサンドイッチを手に隣に座った。
「ねえ、莉緒」
「ん?」
「昨日、遅くまで残ってたでしょ」
ドキリとする。
「うん、まあ」
「葉山さんも残ってたよね」
「……多分」
「ふーん」
意味ありげな視線。
「何?」
「いや、最近仲直りしたのかなって」
「仲違いなんてしてないから」
「そう言えばそうだけど。でもさ、今日の葉山さん、久しぶりに元気そうだったよ」
胸がざわつく。
「……そう」
「莉緒が何か励ましたんじゃない?」
「別に、何も」
「まあいいけど。莉緒は聞き上手だもんね。葉山さんも話しやすいんだと思うよ」
美千代は何気なく言ったのだろう。
けれどその言葉が、妙に胸に引っかかった。
――話しやすい。
それは、特別なことなんだろうか。
♦
夏の終わりが近い金曜の夜。
部署の飲み会。ビアガーデンの提灯が、風に小さく鳴っている。
十人ほどの輪。乾杯の音、笑い声。
なのに、私の心だけが静かに沈んでいた。
あの夜の会話が、何度も頭の内側で反響する。
彼の孤独、母性への飢え、そして「誰も傷つけたくない」という言葉。
そして――「安西さんと話してると、肩の力が抜ける」。
「莉緒、今日はよく飲むね」
美千代の無邪気な笑顔。
「ちょっと、疲れてて」
「大丈夫? 無理しないでよ」
「うん」
酔えば薄まると思った感情は、むしろ際立っていく。
ときどき、葉山さんの視線がこちらへ落ちる。心配の色を含んで。
それが、さらに苦しくする。
「安西さん、大丈夫?」
彼の声。
「大丈夫です」
笑顔は保つ。夜風が頬を撫でていく。
――何も感じなくなれたら、どれほど楽だろう。
後半、トイレに立ったとき、ふらりと足元が揺れた。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
頬が紅潮している。
――飲みすぎた。
席に戻ろうとしたとき、入口で彼と鉢合わせた。
「大丈夫? 顔、赤いよ」
「ちょっと飲みすぎました」
「水、飲んだ?」
「これから」
「ちょっと待ってて」
彼は自販機でミネラルウォーターを買い、手渡してくれた。
「ゆっくり飲んで」
冷たいペットボトルが、掌を冷やす。
「ありがとうございます」
「無理しないで。帰るときは送るから」
「大丈夫です」
「心配だから」
低い声が、断らせない。
♦
駅までの夜道を並んで歩く。
人の少ない住宅街。街灯が長い影を伸ばし、遠くで蝉がまだ粘り強く鳴いている。
「ゆっくりでいい」
彼の声が夜に溶ける。
少し歩いて、足元がおぼつかなくなる。
段差に気づかず、身体が前へ傾いた瞬間――
肩を支える腕の力。息が触れる距離。
時間が、きしむ音を立てて止まった。
「大丈夫? 手、つなぐ?」
耳元の声。
「転んだら危ないから」
私は小さく頷く。
重なる掌。体温が、真っ直ぐに伝わる。
少し大きな手。
――ああ。
残業の夜に聞いた言葉や、沈黙の重さが、すべて掌から蘇る。
無言のまま歩く。
夏の風、街灯の円い光、遠ざかる車の音。
――これは、ただの気遣い。
彼女がいる人の、やさしさ。
そう言い聞かせても、鼓動は言うことを聞かない。
触れ合った部分へ、神経のすべてが集まっていく。
「安西さん」
不意に、彼が口を開いた。
「はい」
「俺……最近、わからなくなってきて」
「……?」
「美香のこと、大切だと思ってる。でも……」
言葉が途切れる。
心臓が、激しく打つ。
――でも?
「……いや、ごめん。酔ってるのかな」
彼は自嘲気味に笑った。
――今、何を言おうとした?
聞きたい。聞きたくない。
矛盾するふたつの声が、同じ速さで胸を打つ。
改札前で立ち止まる。
「大丈夫?」
名残惜しそうに、そっと手が離れる。
「ありがとうございました」
私は小さく言う。
「気をつけて」
笑顔。
でも、どこか寂しげな笑顔。
会釈して、改札を抜ける。
振り返ると、彼はまだこちらを見ていた。
小さく手を振り、階段を降りる。
手のひらに、温もりだけが確かに残っている。
♦
その夜。
灯りを点けず、ソファに沈む。窓の向こうに、夏の夜が広がる。
スマホが静かに光る。美香さんからのメッセージ。
『莉緒さん、今度カフェ行きませんか? お話したいことがあって……』
画面を伏せ、深い息が漏れた。
――もう、戻れない。
あの夜の告白。掌の熱。低い声。
「でも……」と途切れた言葉。
どれもが胸に焼きついている。
彼の孤独、母性への飢え、家の事情――
すべてが、私の中で消えずに灯っている。
そして、彼が私に何かを感じているかもしれない、という淡い期待。
いや、きっと勘違い。そうに決まってる。
――私は、彼を好きになってしまった。
否定できない。
守りたい。支えたい。そばにいたい。
その願いは静かに燃え、後ろめたさの影を長く引く。
美千代の「話しやすいんだと思うよ」という言葉。
美香さんのまっすぐなやさしさ。
葉山さんの「美香は明るくて……でも」という言葉。
すべてが絡み合って、答えの出ない問いを突きつける。
――私に、何ができる?
いや、何もしてはいけない。
けれど、心は止まらない。
理性は、もう追いつけない。
夏の夜が、ゆっくりと私をあたため、そして焦がしていく。
――続く。
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