彼女と別れて私と付き合って…
2度寝騎士
第1話 水面に落ちた雫
窓の外を流れる景色が、春の光をまとう。
満員電車の中で、私——安西莉緒(あんざいりお)は吊り革に手をかけたまま、ぼんやりと外を見ていた。桜並木が遠くを流れ、花びらが風にほどけていく。あれは誰かの吐息みたいだ。
新しい季節。
けれど、私の日常は何も変わらない。会社に行って、仕事をして、帰る。ただそれだけ。
退屈ではない。むしろ、この静けさが心地いい。誰かを深く想わなければ、傷つくこともない。
スマホの画面に目を落とし、友人のメッセージに短く返す。言葉を選ぶのは癖だ。距離を測るように、慎重に。近づきすぎず、離れすぎず——それが、私の平穏の守り方だった。
オフィスに着くと、飯山美千代(いいやまみちよ)が明るい声で迎えてくれる。
「おはよう、莉緒」
「おはよう」
その笑顔に、少しだけ力が抜けた。彼女は同い年で、社内の空気を和らげてくれる存在だ。
「今日のプレゼン、緊張するよね」
「大丈夫。いつも通りでいけば」
そう言いながらPCを立ち上げる。午後にはクライアントとの重要なミーティング。資料の最終確認をしなくては。
画面に目を戻したその時、声がした。
「おはよう。今日のクライアントミーティングの資料、確認した?」
顔を上げると、葉山(はやま)さんが立っていた。
柔らかい笑顔。落ち着いた声。ネクタイを少しゆるめた、どこかリラックスした雰囲気。
「大丈夫です、確認済みなので」
「そっか。何かあったら遠慮なく言ってね」
軽く会釈して去っていく背中を、私は無意識に目で追っていた。
優しい人だな、と思う。
その思いを胸の奥で押し込み、私は仕事に戻った。
午後二時。ミーティングが始まる。
会議室の空気はひっそりと張り詰めていた。
私は投影されたスライドを前に、説明を進める。順調……そう思った矢先、質問が飛んだ。
その瞬間、数字の誤りに気づく。喉が詰まる。冷や汗が背中を伝った。
「この数値、詳しく教えていただけますか?」
言葉が出ない。
そのとき、隣にいた葉山さんが、まるで何でもないことのように口を開いた。
「その部分は最新データに基づいて修正中でして。正確な数字はこちらです」
落ち着いた声で、流れるようにフォローする。
私のミスを責めず、チーム全体の問題として包み込むように。
クライアントが納得したのを見て、私はようやく息を吸った。
救われた。
けれど同時に、心臓の鼓動が止まらない。
会議後、廊下で彼に声をかけた。
「さっきはありがとうございました」
「全然大丈夫だよ。誰にでもあることだから」
軽く笑う彼。その笑顔がまぶしくて、余計に胸が痛んだ。
「安西さん、いつも丁寧に仕事してるの知ってるから。たまたまだよ」
名前を呼ばれた。
その音が胸の奥に響く。
「むしろ俺のほうが助けられてるし。この前の企画書とか、安西さんのまとめ方すごくわかりやすくて助かった」
「そんな、大したことじゃ……」
私は控えめに笑う。
この人は、誰にでも優しい。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、彼の言葉には嘘がない。それがわかるから、余計に心が揺れる。
午後七時。
静まり返ったオフィス。残っているのは数人だけ。
コーヒーを淹れようと給湯室に向かう途中、葉山さんのデスクの前で足が止まる。
疲れたように眉を寄せている。普段の余裕が消えて、年相応の青年の顔があった。
「お疲れ様です。コーヒー、飲みます?」
「あ、ありがとう。もらおうかな」
湯気の立つカップを渡すと、彼がぽつりと漏らした。
「今日さ、部長に呼ばれたんだ。安西さんをフォローしたのは良かったけど、そもそものチェック体制が甘いって」
胸が締めつけられる。
「……私のせいで」
「違う違う、俺の責任。気にしないで」
そう言って彼は笑うけれど、その笑顔はどこか寂しかった。
「俺さ、昔から誰にも嫌われたくないって思っちゃうタイプでさ。だから中途半端になるんだよね」
その横顔を見て、息が止まった。
完璧だと思っていた人が、こんな顔をするなんて。
「でも……安西さんが困ってるの見たら、やっぱ放っておけなかった」
少し照れたように笑う。その表情が、妙に胸に響いた。
この人、本当は不器用なんだ。
守りたい。
そんな気持ちが、芽吹く音がした。
けれど、すぐに思い出す。
——彼には、彼女がいる。
午後八時。
ふたりで並んでオフィスを出た。
夜の空気は少し冷たく、昼間の熱気をそっと洗い流していた。蛍光灯の明かりが遠ざかるたびに、廊下の静けさが深くなる。
エレベーターホールに差し込む灯りが、彼の横顔をやわらかく照らした。
「今日はありがとう。話を聞いてくれて」
葉山さんの声は、低く穏やかで、まるで一日の終わりに寄り添う音楽のようだった。
その笑顔は、もういつもの優しいものに戻っている。
けれど私の胸の奥は、まだ昼間の鼓動を引きずっていた。
「安西さんって、話しやすいよね。なんか、こう……肩の力抜ける感じ」
その言葉が空気の中でゆっくりと溶ける。
肩の力が抜ける。
たったそれだけの言葉なのに、心の奥をくすぐる。
鼓動が小さく跳ねた。胸の奥がじんわりと温かい。
「また何かあったら、相談乗ってくれる?」
「……もちろんです」
言葉を返す声が、わずかに震えていた。
自分でも気づかぬうちに、笑顔を整えていた。
「遅くなっちゃったから、気をつけて帰ってね」
「葉山さんも」
会釈を交わし、彼がエレベーターに乗り込む。
閉まりかけた扉の向こうで、彼の姿が小さくなっていく。
最後まで、優しい人。
扉が完全に閉まる。
その瞬間、張りつめていた息がこぼれた。
静まり返ったフロアに、自分の吐息だけが響く。
これは、好意なんだろうか。
わからない。ただ、胸の内側で灯が消えない。
名前を呼ばれた時の声、笑う時の目尻の皺(しわ)、弱さを見せた横顔。それらが淡く、胸の奥に残っている。
けれど、その余韻にふたをするように、ひとつの言葉が浮かんだ。
——彼には、彼女がいる。
理性が静かに告げる。
その事実が、夜風よりも冷たく肩に落ちた。
外に出ると、街の灯が滲(にじ)んで見えた。
春の夜の匂いが、少しだけ切なく胸を刺した。
週明けの朝礼。上司が明るい声で告げた。
「来週末、河川敷でバーベキューやるぞ。家族や恋人の参加もOKだからな」
周囲が湧く。
「課長、俺、彼女連れてっていいすか?」
葉山さんの声。
一瞬、時間が止まった。
彼女。
頭ではわかっていた。けれど、こうして言葉にされると、胸の奥が静かに痛んだ。
「おお、いいぞ。みんなに紹介しろよ」
笑顔の仮面を貼りつけて、私は深呼吸した。
昼休みのオフィス。
窓際のブラインド越しに、柔らかな陽がテーブルの上に落ちている。
外からは、微かに桜の香りを含んだ風が流れ込んでいた。
美千代が、コンビニのサラダを手に私の隣に腰を下ろす。
「バーベキュー、楽しみだね。葉山さん、彼女連れてくるんだって」
「……うん」
返した声が、自分でも少し上の空に聞こえた。
「どんな人なんだろうね。葉山さんめちゃくちゃ優しいし、きっと彼女さんも素敵な人なんだろうな」
フォークの先でレタスをつつきながら、美千代が言う。
私は曖昧(あいまい)に笑った。
喉の奥が、少しだけ重い。
そうだよね。
心の中で呟(つぶや)く。
想像してみる。彼の隣に並ぶ女性。明るくて、柔らかい雰囲気の人。
きっと、そんな人だ。そうであってほしいとも思う。
それなのに、胸の奥が微かに軋(きし)んだ。
「莉緒は誰か気になる人とかいないの?」
美千代の問いかけに、私は首を横に振った。
「いないよ」
その瞬間、口の中に広がるコーヒーの苦味が、いつもより少し強く感じた。
「そっか。でも莉緒なら、すぐいい人見つかるって」
美千代は無邪気に笑う。
その優しい声が、なぜか胸の奥に痛みを残した。
『いい人』って、どんな人なんだろう。
気づけば、窓の外で風がカーテンを揺らしていた。
光がちらちらと揺れながら、机の上の書類に落ちている。
その眩(まぶ)しさに、私は少しだけ目を伏せた。
翌週の土曜日。春の河川敷でのバーベキュー。
風が花びらを運び、青空に溶けていく。
私は美千代と一緒に、準備を手伝っていた。
そこに、葉山さんが現れた。隣には、明るい笑顔の女性がいる。
陽だまりのような笑顔の人だった。
「初めまして。葉山の彼女の倖田美香(こうだみか)です!いつも遥斗(はると)がお世話になってます」
明るく、気配りが自然で、誰とでもすぐに打ち解けていく。
その言葉には、無邪気な強さがあった。感情をそのまま表に出せる軽やかさ。
私には、ないものだ。
倖田さんが葉山さんの隣で笑っている姿を見て、複雑な気持ちになる。嫉妬というよりも、自分との違いを痛感する——
彼と並ぶ姿が、あまりに自然で、美しかった。
バーベキューの準備をしていたときだった。
炭のはぜる音の合間に、甲高い泣き声が混じった。
振り向くと、小さな子どもが転んで、膝を押さえて泣いている。
大人たちが慌てて声をかけるけれど、子どもの涙は止まらない。
そのとき——倖田さんが迷うことなく駆け出した。
膝をつき、子どもと同じ目線まで身体を下ろす。
「痛かったね。大丈夫だよ」
その声は、風のようにやさしかった。
彼女はハンカチで子どもの涙を拭い、傷をそっと確かめる。
ポケットから取り出した絆創膏を、明るい笑顔と一緒に差し出した。
「これ貼ったら、痛いの飛んでっちゃうからね」
太陽の下で、彼女の指先が光を受けてきらめく。
貼られた絆創膏を見つめながら、子どもの泣き顔が少しずつ笑顔へ変わっていった。
周囲の空気が、ふっとやわらぐ。
母親が『本当にありがとうございます』と何度も頭を下げる。
その少し後ろで、葉山さんが穏やかに微笑んでいた。
「美香、優しいな」
その声に、倖田さんが照れたように笑う。
「もう、遥斗だってそうじゃん」
隣で美千代が小さく呟いた。
「すごく優しい人だね……。ああいう自然な優しさって、素敵だよね」
私は無言のまま、その光景を見つめていた。
この人は、誰にでも本気で優しくできる人なんだ。
作り物じゃない、心からのまっすぐさ。
その無防備さが、まるで光の粒みたいに眩しい。
倖田美香。
感情を飾らずに出せる強さ。
人を疑わない柔らかさ。
誰かの痛みに自然に手を伸ばせる、その潔さ。
私には、ああはできない。
そう思いながらも、不思議と悔しさはなかった。
むしろ、小さくため息をつく。
こんな人が、葉山さんの恋人なら、それは当然だ。
嫉妬ではなく、納得。
彼女を憎めるはずがない。むしろ、少し憧れている自分に気づいた。
風が川面を渡り、木々の葉が柔らかく揺れた。
その光景の中で、私の胸の奥だけが静かに沈んでいた。
午後。
倖田さんが笑顔で話しかけてくる。
「安西さんって、落ち着いてて素敵ですね」
その明るさがまぶしい。
「遥斗、いつも仕事の話してるんですよ。安西さん、すごく頼りになるって」
私のこと、話してたんだ。
胸が高鳴るのを、必死で抑える。
けれど彼女の言葉は純粋で、疑う余地がない。
この人の無垢(むく)さを前に、私は何も言えなかった。
倖田さんが笑顔で言った。
「安西さん、莉緒さんって呼んでいい?」
「はい」
「じゃあ私のことも美香って呼んで。あ、LINE交換しよ?」
あまりに自然な誘いに、私は戸惑いながらも頷いた。
その瞬間、彼女のまぶしい笑顔が胸を刺した。
——こんな人を、敵にできるはずがない。
帰りの電車。
窓の外を春の夕暮れが流れていく。
スマホに届いたメッセージ。
『今日はありがとうございました!また遊びましょうね!』
私は『こちらこそ』と返信する。
そのたび、心が静かに沈んでいく。
これは恋じゃない。ただの錯覚。
そう言い聞かせても、胸の奥で何かが確かに揺れていた。
夜空を見上げる。
理性と感情のあいだで揺れる私の心が、
——水面に落ちた雫のように、淡く広がっていく。
夜。
部屋の灯をひとつだけ点けて、ソファに身を沈める。
湯気の消えたマグカップが、テーブルの上で冷たく光っていた。
静まり返った部屋の中で、今日の出来事がゆっくりと頭の中を巡る。
葉山さんの声。笑顔。ふと見せたあの弱い表情。
ひとつひとつが、胸の奥で淡い余韻を残している。
私は、何をしているんだろう。
誰のものでもないはずの心が、勝手に揺れている。
罪悪感と、抗いがたい想い。そのあいだで、心が小さくきしんだ。
——彼女がいる人を、いいなって思うなんて。
それも、あんなに優しくて、あんなにまっすぐな彼女がいる人を。
わかっている。いけないことだと。
それでも、頭の中から消えてくれない。
残業中の静かなオフィス、コーヒー越しの横顔、低く落ち着いた声。
記憶の断片が、夜の静けさに浮かび上がってくる。
これは一時的なもの。すぐに忘れる。
そう何度も唱えてみる。
スマホをテーブルに置くと、画面の光がゆっくりと消えた。
代わりに、窓の外の夜が広がる。
街灯が雨上がりのアスファルトを照らし、遠くで車のライトが滲んでいる。
その光景が、なぜか胸に沁(し)みた。
孤独という言葉よりも静かな、深い空気。
自分の背中がその中に溶けていくのを感じる。
抑えつけようとする理性と、芽生えてしまった想い。
両者のあいだで、心がかすかに震える。
——まるで水面に落ちた一滴の雫。
小さな波紋は、静かに、けれど確実に広がっていく。
止めようとしても、もう遅い。
それでも、心は静かに波立っていた——
——続く。
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