第3話 その人の彼女

 スマホの画面が、暗いデスクの上で白く灯っている。

 八月下旬の朝。

 夏はまだ終わらないのに、窓から差す光はどこか和らいでいた。


 出社して席に着くなり、パソコンより先にスマホを手に取る。

 あの夜に届いたメッセージが、そこに残っていた。

『莉緒さん、今度カフェ行きませんか? お話したいことがあって……』

 差出人は美香さん。明るい絵文字が添えられている。いつも通りの、疑いを知らない優しさ。

 画面を見つめたまま、息が深く落ちた。


 金曜の夜。

 飲み会の帰り道、よろけた私の手を、葉山さんがつないだ。

 夏の夜道。掌の温もりは、シャワーでも眠りでも消えなかった。

 ——もう、後戻りはできない。

 そう思った瞬間に届いた、美香さんからの誘い。

 週末のあいだ、返信できずにいた。

 何度も画面を開いては、言葉が見つからず閉じた。

 スマホを伏せ、またひとつ息をこぼす。


「おはよう、莉緒」

 美千代の声。

「おはよう」

 笑顔を形だけ整える。

「最近ちょっと疲れてない? 無理しないでね」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 起動した画面の端で、さっきのメッセージがまだ白く光っている。

『お話したいことがあって……』

 返事を打たなければ。

 指が、動かなかった。



 月曜の昼休み。

 賑やかなランチスペースの真ん中で、音だけが遠い。

 スマホを取り出し、メッセージを開く。

『お話したいことがあって……』

 書いては消し、また書いて、ようやく送る。

『もちろんです。今週の土曜日、空いてますよ』

 送信の震えが指先に残る。口の中の味が、砂のように乾いた。


 すぐに返事。

『ありがとう! では土曜日の14時に○○カフェで♪ 楽しみにしてます♡』

 明るさが、胸の奥を正確に刺す。

『楽しみにしてます』

 そう返して、画面を伏せた。

 四日後、私たちは会う。何を、どこまで、話すのだろう。

 肩に落ちる午後の光だけがやさしくて、心だけが冷たかった。



 火曜の夕方。

 資料を探しに資料室へ向かう。

 奥のキャビネットを開けていると、背後で扉が開く音がした。

 振り向くと——葉山さんが立っていた。


「あ……」

 私たちの視線が、一瞬交差する。

 飲み会の夜以来、まともに顔を合わせていない。

「安西さん」

 彼の声が、静かな部屋に落ちる。

 心臓が、大きく跳ねた。


 彼は少し躊躇してから、こちらへ歩いてくる。

「この前は……ありがとう。大丈夫だった?」

「ええ、ありがとうございました。」

 短い言葉。でも、空気が重い。


「あの……手、つないだこと。嫌だった?」

 予想外の問いに、息が詰まる。

「え?」

「なんか、それ以来避けられてる気がして」

 彼の表情に、不安の色が滲む。

「そんなことないです」

「本当に?」

 視線が絡む。

 ——この人は、気にしてくれていた。


「実は……」

 彼が口を開く。

「あの夜のこと、ずっと気になってて」

 心臓の音が、耳の奥で大きく響く。

「俺、安西さんに……」

 言葉が途切れる。


 沈黙。

 資料室の静けさの中で、二人の呼吸だけが聞こえる。

 ——何を言おうとしている?


「……いや、ごめん。変なこと言った」

 彼は苦笑して、視線を逸らす。

「仕事、頑張ろうね」

 そう言って、彼は資料室を出ていった。


 残された私は、しばらく動けなかった。

 ——今、何が起きた?

 胸が熱い。混乱している。

 彼の「安西さんに……」という言葉の続きが、頭の中で何度も反響する。



 水曜の昼過ぎ。

 給湯室でコーヒーを淹れていると、美千代が入ってきた。


「莉緒」

「ん?」

「昨日、資料室で葉山さんと二人きりだったでしょ」

 ドキリとする。

「見てたの?」

「通りかかっただけ。でも……なんか、雰囲気が」

 美千代が意味深に笑う。


「気のせいだよ」

「そう? でも葉山さん、最近莉緒のこと気にしてるよね」

「そんなことない」

「あるって。この前も『安西さん、最近元気ないけど何かあった?』って聞かれたし」

 

 胸がざわつく。

「……何て答えたの?」

「『仕事が忙しいんじゃないですか』って言っといた」

 美千代がコーヒーを淹れながら続ける。

「でもさ、莉緒。葉山さん、彼女いるんだよね?」

「……うん」

「複雑だね」

 その一言が、胸に重く落ちた。



 四日後、土曜日の午後二時。

 都内のカフェ。大きな窓から、夏の終わりの光。

 秋には少し早いけれど、空気には微かに乾いた気配が混じっている。


「莉緒さん、来てくれてありがとう!」

 美香さんは、変わらない笑顔で座っていた。

 人を疑わないまなざし。その正しさが、いちばん痛い。

「いえ、こちらこそ」

 笑顔で応える。心は複雑な静けさを湛えたまま。


 運ばれてきたコーヒーが湯気を立てる。

 季節の話、仕事の話。軽い会話がいくつか。

 やがて、美香さんの表情に影が差した。

「実は……聞いてほしくて」

 カップを両手で包み、彼女は言った。

「遥斗のこと。相談したいの」

 胸の奥で糸がきゅっと結ばれる。表情は崩さない。


「私の両親、遥斗に婿養子になってほしいって」

「でも、遥斗のご家族も、長男の遥斗を手放したくないって」

「うちも跡を継ぐ人が必要で……どちらも譲れないの」

「遥斗は『時間をくれ』って。何か月も、そればかりで……」

 声がわずかに震える。

「私、遥斗が本当に好き。だから一緒にいたい。遥斗が私の家に来てくれたら、全部解決するのに」


 私は黙って聞く。

 ——『遥斗が私の家に来てくれたら、全部解決するのに』

 そんなに簡単な問題じゃない。

 婿養子という選択が、彼にとってどれほど重いか。

 美香さんは、知らない。ただ、知らないだけだ。

 悪意ではなく、無垢の直線。まっすぐすぎて、曲がった場所の痛みに気づけない。


 あの夜、オフィスで彼が語ったことが脳裏に浮かぶ。

 実母の不在、継母との距離、幼い日の渇き。

 "誰かを傷つける決断はしたくない"という、切実な声。

 美香さんには言えないと言った、その重さ。


「最近、遥斗が少し遠い気がして……」

 美香さんが続ける。

「なんていうか、心ここにあらずっていうか」

 不安の色が透ける瞳。

「もしかして、私じゃない誰かのこと、考えてるんじゃないかって……」


 ——え。

 心臓が、大きく跳ねた。


「考えすぎかもしれないけど。最近、遥斗の様子がおかしくて」

「ぼーっとしてることが多いし、私が話しかけても上の空で」

「もしかして……他に好きな人ができたのかなって」


 喉が、詰まる。

 ——まさか。

 いや、そんなはずない。

 でも、資料室での彼の言葉。「安西さんに……」という未完の告白。


「職場の遥斗、どう? 何か、気づいたことある?」

「悩んでたり、しない?」

 美香さんの視線が、まっすぐこちらを捉える。


 短い間。

 喉の奥で、言葉が詰まった。

 ——本当のことを、言うべきだろうか。

 葉山さんは悩んでいる。婿養子のこと、家族のこと、そして……。

 でも、それを言えば、美香さんを傷つける。

 何より、葉山さんが私にだけ打ち明けた秘密を、明かすことになる。


「職場では……いつも通りですよ。葉山さんは仕事熱心ですし」


 嘘だった。

 その一行が、胸のいちばん深いところに沈む。

 言葉を発した瞬間、舌の上に苦い味が広がった。

 美香さんの瞳を見つめながら、私は嘘をついた。

 守りたかったのは、葉山さんの秘密なのか。

 それとも——私自身の立場なのか。


「悩んでいる様子は……特には」


 二つ目の嘘。

 こちらのほうが、より重い。

 美香さんの不安そうな顔を見ながら、私は知っていることを隠した。

 罪悪感が、胸を締めつける。

 でも同時に、密かな優越感も芽生える。

 ——私は知っている。美香さんが知らないことを。


「そっか……」

 美香さんは少しほっとしたような顔をする。

「莉緒さんがそう言うなら、安心。きっと考えすぎだよね」


 その信頼が、矢のように胸を貫く。

 ——私は最低だ。

 この人の信頼を裏切っている。


「莉緒さんって、本当に聞き上手だね」

 美香さんは少し笑って、言葉を継ぐ。

「遥斗も、『莉緒さんは話しやすい』って言ってた」

 その一文が、静かに胸を貫く。

 ——優越の影が、ほんの少しだけ、疼いた。

 そんな自分を、すぐに嫌悪する。


「私、遥斗が好き。でも、どうしたらいいのかわからない」

「遥斗は、私といて幸せなのかな」

 私は言葉を選ぶ。

「……きっと、葉山さんは美香さんを大切に思っています」

 空気に浮くような答え。

 それでも彼女は少し安心した顔になり、

「ありがとう。また、話を聞いてね」

 私は頷いた。胸の奥は、静かに疼いたままだ。


 憧れと違和感。尊敬と優越。嫉妬と罪悪感。

 相反する感情が、細い糸で絡み合って結び目になる。

 カフェを出たあと、私はしばらく立ち尽くした。

 夏の終わりの光が肩を撫でても、心は温まらない。


 ——私は、美香さんに嘘をついた。

 その事実が、重い石のように胸に沈んでいく。



 その夜。

 部屋に戻り、灯りも点けずにソファに沈む。

 今日の出来事が、頭の中で何度も再生される。

 美香さんの不安そうな顔。

 「他に好きな人ができたのかな」という言葉。

 そして、私の嘘。


 スマホが震えた。

 葉山さんからのLINE。


『休み中に突然ごめん。美香から連絡なかった?』

 

 心臓が跳ねる。

 ——どう返せばいい?


『はい、カフェでお話しました』

 

 すぐに返信が来る。


『そっか。何か言ってた?』

 

 指が震える。

 ——何を、どこまで伝えるべき?


『婿養子のことで悩んでるって』

『葉山さんのこと、心配してましたよ』

 

 しばらく間があって、返信。


『そっか……ありがとう』

『安西さんには、いつも迷惑かけるね』

 

 その言葉が、胸を温める。

 同時に、罪悪感も深くなる。


『この前、資料室で変なこと言ってごめん』

『気にしないで』

 

 ——変なこと。

 「安西さんに……」という、あの未完の言葉。


『いえ、気にしてないです』

 

 そう返して、スマホを置く。

 でも、気になっている。ずっと気になっている。

 彼は、何を言おうとしたのか。



 翌週、金曜の夜。

 落ち着いたレストランで、美千代と向かい合う。

 窓の外に、初秋の光がゆっくり流れている。

 ワイングラスが細く鳴った。


「最近の莉緒、ちょっとおかしいよ。何かあった?」

 真剣な声。

 少し躊躇して、でも、もう誰かに聞いてほしかった。

「……実は」

 声が震える。

「葉山さんのこと、好きになってしまって」

 言葉にした途端、涙がせり上がる。

「彼女がいるのに。しかも、その彼女と……友達になってしまって」

「相談されるたび、罪悪感で押しつぶされそう」


 美千代は黙って莉緒を見つめていた。

 そして、静かに口を開いた。

「莉緒……そんなに苦しんでたんだ」

「でも、莉緒は何も悪くないよ。好きになるのは止められないから」


「それに……」

 美千代がワイングラスを傾けた。

「葉山さんも、莉緒のこと気にしてると思う」

 心臓が跳ねる。

「え?」

「だって、最近の葉山さん、明らかに莉緒のこと見てるもん」

「そんな……」

「莉緒は気づいてないかもしれないけど、周りから見たら結構わかるよ」


 ——そんなはずない。

 でも、資料室での彼の様子。あの未完の言葉。

 美香さんの「他に好きな人ができたのかな」という不安。

 すべてが、線でつながっていく。


「それにさ」

 美千代が続ける。

「この前、葉山さんが給湯室から出てくるとき、莉緒のデスクのほうをずっと見てたよ。莉緒は気づいてなかったけど」

「それに、会議中も時々莉緒のこと見てる。視線が優しいっていうか……なんていうか」

 美千代は少し困ったように笑った。

「私、そういうの気づいちゃうタイプだから」


 胸が、ざわめく。

 ——本当に?

 信じたい気持ちと、信じてはいけないという理性がせめぎ合う。


「でもね、莉緒」

 美千代が真剣な顔になる。

「ただ、その気持ちをどうするかは、莉緒が決めないと」

「美香さんのこと、どう思ってるの?」


 莉緒は少し考えてから答えた。

「尊敬してる。美香さんは明るくて、まっすぐで、人を疑わない優しさがある」

「私には、ああはできない」

「でも……」

 莉緒は言葉を濁した。

 でも、美香さんは葉山さんを理解していない。

 その言葉は、口に出せなかった。

 それに——私、美香さんに嘘をついた。


「莉緒は、自分を責めすぎ」

 美千代が優しく言った。

「でも、誰かを傷つけたくないっていう気持ちは大事にして」

「いまは、自分の気持ちを直視する時間が必要だと思う」

 頷く。

「莉緒らしく、正直でいなよ。それが一番大事」


 莉緒は頷いた。

 初めて誰かに打ち明けたことで、少し楽になった。

 でも同時に、言葉にすることで現実感が増した。

 私は、葉山さんを好きになってしまった。

 もう、否定できない。

 そして——彼も、もしかしたら。


 窓の外の初秋の夜景が、静かに流れていった。

 レストランの温かい光の中で、莉緒は静かに涙を拭いた。



 翌日、土曜の午後。

 柔らかな光が部屋に満ちるころ、スマホが震えた。

 美香さんからのLINE。


『聞いてください! 遥斗と喧嘩しちゃって……』

 続く長文。

『婿養子の話をしたら、また"時間をくれ"って……』

『それで、最近様子がおかしいのは他に好きな人ができたからじゃないかって聞いちゃった』

『そしたら遥斗、何も答えてくれなくて……』

『否定してくれると思ったのに』

『信じたいのに不安で、泣いちゃった』

『どうしたらいいですか?』


 画面の文字は真っ直ぐで、読むほどに胸が締め付けられる。

 ——否定してくれなかった。

 その一文が、胸を貫く。


 彼は、美香さんに言えないことを、私にだけ話した。

 その事実の重みが、静かに沈む。

 しばらく考えて、指を動かした。

『大丈夫ですよ。葉山さんは真剣に考えているはずです』

 書いたそばから、嘘の味がした。


『ありがとうございます。莉緒さんがいてくれて、本当に心強いです』

 すぐに返る感謝。

 その一文が、いちばん深く刺さる。

 ——私が、二人のあいだに居る。

 秘密を共有する安堵と、そこに生まれる優越、そして自己嫌悪。

 感情は絡まり、ほどけない。


 どうしたらいいのだろう。

 莉緒はスマホを置いて、窓の外を見つめた。

 九月の午後の光はやさしいのに、心の中は薄暗い。



 その夜。

 灯りを点けず、ソファに身を沈める。

 スマホの小さな光。画面には、美香さんとのやりとり。

 夏が終わり、秋が始まる。

 季節の縁の薄さが、心の境目と重なる。


 深いため息が出た。

 カフェでの会話。

 資料室での葉山さんの言葉。

 美千代への告白。

 今日のメッセージ。

 全てが頭の内側で反響して、静けさに波紋をつくる。

 莉緒はスマホを置いて、両手で顔を覆った。


 ——私は、彼を好きになってしまった。否定できない。

 ——でも、美香さんを傷つけたくない。それも本当。

 友人として応援したいという思いと、葉山さんを独り占めしたいという願い。

 その矛盾が、胸を締め付けた。


 葉山さんが私に心を開いてくれた。

 その密かな喜びと、それを感じてしまう自分への嫌悪。

 比較、劣等感、自己嫌悪、嫉妬、罪悪感。

 すべてが絡み合って、答えが出なかった。


 そして——彼の「安西さんに……」という言葉。

 美香さんへの「否定してくれなかった」という訴え。

 美千代の「葉山さんも、莉緒のこと気にしてる」という指摘。


 ——まさか。

 そう思いたい。

 でも、心の奥で小さな希望が灯り始めている。

 その希望こそが、いちばん罪深い。


 このままではいけない。

 そう分かっている。

 でも、どうすることもできない。


 窓の外に、遠くで虫の音が聞こえた。

 初秋の夜の冷たい空気が、窓から忍び込んでくる。


 背中に宿る孤独と、手のひらに残る記憶の温もり。

 季節の移ろいは、私の心の変化を静かに映し出していた。

 何かが、確実に動き始めている。

 その予感が、胸の奥で静かに膨らんでいく。


――続く。

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