第15話
瞼を開けると、俺はピンク色のベッドで寝ていた。
ここが鏡の部屋ーー《幻想世界》と頭では分かっていても、戻った実感はどこにもない。
思い出すだけで、心が締め付けられる。
陽愛が倒れた姿と、あの青い蝶の魂。
肩から血を流し、微かに笑っていた凛也。
身体から冷えきった感覚があって、見下ろす。
「……う、そだろ……!?」
自分の腕が、輪郭ごと薄く透けていた。
恐怖で喉の奥が強く締まり、呼吸が乱れる。
「陽翔君……!!」
永琉が俺を強く抱きしめた。
「大丈夫だから……落ち着いて」
滑らかな指の感触が、背中を擦る。
暖かい熱が全身を包み、強ばった身体が、少しずつ溶かしていく。
光の粒子が身体に流れ込み、消えかけたのが戻った。
乱れた呼吸が緩やかになり、安心するように、胸を撫で下ろした。
やがて光の粒子は俺から離れ、部屋の中心に集まり、全身鏡へ吸い込まれていった。
全身の鏡には亀裂の6角形にひびが入っていた。
右の一角だけが濁った黒に染まっていた。見えない“牙”が鏡に蝕むように、じわじわと広がっていた。
「これは……」
背筋を冷たいものが滑り落ち、息を呑んだ。
「来栖陽愛が死んだことで、鏡にあった魂に傷がついた」
全身鏡の隣に立つ、レオが淡々と言った。
「真っ黒な鏡は……毒が染み込んでいるの……」
永琉が悲しそうな瞳で、震える指で強調するように全身鏡の縁を叩く。
「鏡はね、陽翔君……自身。鏡に毒に染まれば……陽翔君も壊れて……」
かすれた声で、永琉が呟く。
「死ぬって……冗談だよな……」
微かに、笑い声が溢れた。
「……冗談じゃないよ。さっき消えかけたことを……思い出して……」
悲痛な表情で、震える声を絞り出した。
透けた自分の手を思い返す。
光が俺を包んで元に戻して、鏡へ帰っていた。
『俺がお前を助けてやる。だから、どうでもいいなんて、二度と言うな!』
白いローブのとの約束した記憶がよみがえった時も、同じだった。
鏡と俺は繋がっている。
永琉がいった「死ぬ」ことは嘘じゃない。
ーーなんでこんなことが起きている?
その瞬間、頭の奥に光が射し込んだ。
世界が反転し、深く沈んだ記憶の扉が開いた。
気がつけば、鏡の世界が広がっていた。
『約束を果たすために、どうかこの祈りを受け取ってくれ!!』
俺と同じ声が鏡に反響して、頭の奥に響きわたる。
鏡の水面には、茶色の髪の少年ーー過去の俺が魂のように叫ぶ姿が、映っていた。
祈りを込めた叫びが、光の粒子に変化して、紅蓮の髪である“今の俺”を形作っていた。
思い出した瞬間、心の奥を深く抉った。
「……俺は……あの光によって……生まれた……」
身体が震えるながら、頭を抱える。
それを信じたくなかった。否定したかった。
過去の知識だってあるじゃないか。
喫茶店で思い出したじゃないか。
ここにいるって、証明したい。
白いローブの懐中時計を助けるために、約束を果たしたい。
俺は唇を噛みしめ、震えるように、立ち上がった。
重たい足取りで、全身鏡に近づく。
「陽翔君……やめて!」
永琉は胸が張り裂けそうに叫んだ。
「待って! 陽愛の魂を守らないと……次は戻れなくなるよ!」
それでも、もう逃げられない。
あの約束を果たさないと、俺は……信じられない。
全身鏡と向き合うように、正面に立つ。
震える手を鏡へ伸ばし、銀のオーラを纏わせる。
鏡に向けて、銀の光を発生させた。
『陽愛、しっかりして……!』
『こ……こ……ごめ……ん。……や……く……なか……』
今度こそ、陽愛を守る。
心湖を悲しませたりしない。
『こんな……俺でも、守れたし……。死ぬな……よ』
凛也を殺させない。
なのに6角形の右側に、銀の光が吸い込まれなかった。
「何で、何でだよ」
焦りに駆られ、誰かにすがりたくて、ネックレスを握る。
祈るように、《ジュエルアイ》に力を込める。
しかし、何も変わらなかった。
「何で……」
全身の力が抜け落ちていき、銀のオーラが霧散した。
姿見を見ると、瞳は黒へ落ちた。
それでも、《ジュエルアイ》を発動させた。
「今の君では、無理だ。
《ジュエルアイ》はもう1人の自分だ。“もう1人”が気づき……やめさせようとしている。それが、君に見えているものだ」
レオに無理だと言われて、俺の心が凍りついた。
無理だと、一番認めたくなかった。
耐えられず、部屋を飛び出した。
月は雲に隠れて、寂しい空夜だった。
《幻想世界》は、俺が想像したものを映す。
苦しみに絞めつられて、俺がそこに
☆☆☆
墨を流した夜空の中に、薄曇りに包まれた月が、ゆらゆら浮かぶ。
分厚い灰の雲が空を覆い隠し、ざんざざんざと黒雨が大地を叩きつけた。
その下を、俺はひとりぼっちで走っていた。
紅蓮の髪は頬に張りつき、びしょ濡れた水の底へと引きずられるようだ。
恐怖に呑まれないようにただ前へ、前に走った。
どこかに居場所があるじゃないか。
自分が存在していい場所が、ひとつくらいあるじゃないか。
そんな祈りのような言葉を胸の内で繰り返す。
破壊するように、「最悪な人間」だと雨が嘲笑った。
深い泥に足が沈む。
体が支えを失い、泥の中へ崩れ落ちた。
激しい雨で、揺らめく
臆病で、滑稽で、情けない俺だった。
過去の俺の祈りによって、生み出された存在だ。
その意味を知らなければよかった。
俺は作られた存在で、記憶がないのは当然だ。
懐中時計の人を助けたいという想いも、この知識も、すべて偽物だ。
強くなるためだと言いながら『僕』じゃなくて、「俺」と名乗った。
ただ過去の影をなぞっているにすぎなかった。
『お前は、仮面をつけた相手を真似している人形だ』
結希翔が言った言葉が、事実であり的に突き刺さった。
どれだけ沈んだって“本当の自分”に触れられない。
「……成し遂げられる力が……」
陽愛の世界へ行こうとしたが、《ジュエルアイ》を発動できなかった。
「もう……ない……」
《ジュエルアイ》を宿すもう1人の俺に、止められただけじゃない。
“作り物”の俺に、出口なんか用意されていない。
陽翔という名前すら、レオに仮の名前をつけられただけだ。
「……俺は陽翔じゃない……。俺は……僕は……誰なんだ……」
その時、びちゃびちゃと水を跳ねる足音が近づいてきた。
激しい雨の向こうに、ぼんやりと影が揺れる。
レオだと思った。
初めて見つけたからだ。
どこにいてもわかるはずだ。
「俺は……僕は……いったい……誰なんだ。教えてくれ! レオ!」
すがるように、叫んだ。
誰かに存在していると、いってほしかった。
けれど、影は何も答えない。
「……黙っていないで……レオ……教えてくれよ……!」
悲痛な感情を押し付けるように、その影の胸を叩いた。
怒りでも涙でもない。
ただ“自分を見つけてほしい”という必死な叫びだった。
その刹那、強く抱き寄せられた。
柔らかい感触が顔に、伝わる。
優しく、いたわるように、雨で冷えた紅蓮の髪を触れる。
繰り返し撫でた。
まるで、日だまりに沈んでいくような温かさだった。
冷えきった体の芯を、少しずつ溶かしていく。
現実に引き戻してくれて、レオじゃないと気付く。
ゆっくり顔を上げると、そこに立っていたのは、永琉だった。
「陽翔君は、陽翔君だよ!」
いつの間にか、さんざん降っていた雨はもう止んだ。
薄雲の隠れる月が、静かな光で俺を照らしていた。
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