12
迎撃の準備が整った一月後、山脈より赤竜が降りて来たとの知らせが入った。
手負いの竜は充分に傷を癒したらしく、けたたましい咆哮で周囲を圧倒する。人間に対する憎悪が、怨嗟が、地を這う呻きとなって響き渡った。
「いよいよですな」
慌ただしく周囲に指示を飛ばす中、鎧に身を包んだセルゲイが、何処か興奮した調子で言う。以前竜に焼かれた黒鎧は修復され、残るだうと思われていた顔面の爛れは既に消えている。初戦で大敗を喫した老練の騎士は、若者に危険な役回りはさせられないなどと嘯きながら、最前線にて老骨を振るう気満々だ。
奮い立つ老兵とは裏腹に、レオニードは何処か冷静に腰に携えた砲筒の調子を確かめる。騎兵の為に用意した長筒の銃は十数丁、全て硝石の採れる鉱山を多数保有する南西の国からの輸入品だ。関税も掛かるし販路の確保にも骨が折れるが、それでも自国で用立てるよりは僅かに安くつく。
砦に設置された砲台は父の代から終ぞ使用したことがないもので、先の迎撃戦では一発撃った後にうんともすんとも動かなくなったおんぼろだ。あの時に追撃出来ていれば討伐とまでは行かずとも、竜の力を大幅に削げていただろうが。使うか使わないか知れぬものに金をかける程、この北の地は裕福ではなかったのだから仕方がない。
既に修繕も済んだ砲台は、胸壁の上で宿敵の登場を待ち侘びている。
「……余り逸るなよ。負傷したら直ぐに下がれ、砦には聖女がいる」
「本当によろしいのですか?」
「……何がだ」
「聖女様はご不満のようですな。連れて行って差し上げないので?」
「……莫迦な」
幼少期より砦の騎士として勤めと来た老獪な騎士は、レオニードの動揺などお見通しとでも言うように、白混じりの眉を上げる。
「赤竜に一泡吹かせてやると、あれ程息巻いておられましたのに」
「……下らん」
戦う力もない癖に、口には出さなかった思いを汲んだか、セルゲイは渋面になる。
「後方支援も立派な戦いですぞ」
「分かっている……救護が遠のくのは、お前たちには苦労を掛けるが……」
「そこではないでしょう、坊ちゃん」
「……坊ちゃんは止めろ」
硝煙の臭いの漂う城塔の上、老輩は高らかに笑った。幼き日、幾度となく鍛錬で打ちのめして来た時と同じ朗らかな笑みで。
「嘘はいけませんよ、坊ちゃん。特に己の心を欺くことは、自分を殺すのと同じですからなあ」
かつて師であり今や部下となった老兵に、ぐうの音も出ないレオニードは小さく唸るばかりだ。
「…………分かっている、爺」
漸く捻り出すような同意を口元で呟く。快活な笑い声に、呼応するように遠く、竜の咆哮が響いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
千年を生きたとされる人智を越えた存在は、圧倒的な生殺与奪の権利を持って、目の前に君臨している。
(何が討伐だ、簡単に言ってくれる)
これまで三度相対して、その度に思って来たぼやきが今もレオニードの中に生まれる。どう足掻いても人が手を出して良い領分ではない。
それなのに今、レオニードは赤竜の周囲で馬を駆り、どうにか有効な一打を食らわせられないかと必死になっている。
――聖女がいるから、赤竜は襲って来たのかも知れないね。
何かの折にぽつりと兄が呟いた言葉を思い出す。それは因果関係がおかしいだろうと、レオニードは反論した。竜が現れたのは聖女がこの地に来るより前で、竜の害があったからこそ聖女はこの地に寄越されたのだ。
だからこそだよ、と兄はまるで絵空事のように宣う。
――聖女は魔を遠ざける。生態を乱す。だからこそ竜が来た。聖女が訪れると分かっていたから。
そんな莫迦な、その時は一笑に伏した世迷い言だが、強ち間違いでないとも心の何処かで分かっている。赤竜はあの時、明らかに聖女を狙っていた。
だからこそ、だ。だからこそ、聖女を最前線に寄越す訳にはいかなかった。赤竜に相対しその殺意の鉾先に触れながら、レオニードは悟る。赤竜は明確に砦を――聖女を狙っていた。本来であれば第三聖女に戦線に控えて貰い、傷ついた者に癒しを施しながら総攻撃を仕掛ける。その方が余程勝算がある。
けれどレオニードはそれを選択しなかった。ヴィクトルも砦の騎士も、その方針に異を唱える者はなかった。皆が薄々、あるいは明確に悟っている事実を、レオニードだけが認められないでいる。
不意に、野を駆ける赤竜の巨躯が不自然にたわむ。背筋を駆け上る危機感に、レオニードは馬の手綱を繰った。急旋回する馬体の横を、ぶうんと竜の尾が通り過ぎる。先に、聖女の腹を裂いた凶器だ。
「っ団長! 大丈夫ですか!?」
併走していたマルクが、焦ったように叫ぶ。
「問題ない! 砲台は?!」
「充填は完了してます! 合図があれば直ぐにでも!!」
馬上から怒鳴るように告げるマルクに、レオニードは頷く。腰に下げた銃を手に、竜へ向け幾度か発砲する。着弾した翼の皮膚は厚く、さしたる打撃を与えられたようには見えない。
赤竜は長い首を揺らし、鋭い爪で地を掻いた。再び始まった進行の、向かう先にはヴァルグリム砦の城門がある。赤竜の狙いは徹頭徹尾、砦にあった。
先に接敵した時と同じ、砦の前方に広がる平野に降り立った竜は、周囲の騎士を五月蝿い羽虫のように振り払いながら、二足の脚で大地を駆ける。砲弾に貫かれた左目は未だえぐれているが、その下から薄い皮膜に包まれた眼球が隆起しているのが見えた。再生しているのだ。ぬるりとした粘膜に包まれた縦に長い瞳孔が、ぎらぎらと眼前を睨め付けた。
竜の左右を、レオニードを初めとした騎兵が旋回している。どうにか進行を食い止めたいとの銃撃は、しかし思うような成果を上げていない。初めて竜を迎撃した際、レオニードの剣はその翼を切り裂いた。しかし次にセルゼイらが接敵した際、剣は皮膚に阻まれ歯が立たなかったと言う。そして今、先の戦いでは竜の体を抉った筈の銃弾は、硬い鱗に弾かれ無為に火薬の臭いをまき散らすばかりだ。
急激に進化している。この短期間に。
絶望的な予測にレオニードは内心舌打ちをする。空になった長筒を投げ捨て手綱を引く。レオニードの牽制など意にも介さず、赤竜は重々しく大地を駆けた。
城門が近付く。竜が高らかに鳴いた。背後から馬で追いかけるレオニードは、竜の首が不自然に前後するのを見て取った。
「っマルク! 合図を!!」
「っはい!!」
マルクが頭上に二度、発砲した。砦からも呼応するように、二度。同時に、竜が急停止する。ぐっと巨躯が撓み、息を飲み込むのが見えた。
「――――撃て!!」
竜の口から炎が吐き出されるのと、砦から砲弾が撃ち出されるのは、ほぼ同時だった。
轟音と共に舞い上がった土煙に馬体を取られそうになり、レオニードは手綱を繰り何とか立ち直らせる。横合いでマルクが無様に転げ落ちるのが見えた。
着弾と業火が噴き上がったのは同時だった。地に伏した赤竜の姿は硝煙に包まれ杳として見えない。
体勢を立て直した馬を駆り、焦燥と共にレオニードは砦の方へ向かう。煙の中竜の巨躯を迂回し、見上げた城門の有様に息を飲んだ。
城塔の上に据えられていた大砲は、炎の直撃を食らったのか煙を上げながらひしゃげ、とてもではないがもう使い物にはならないだろう。
城門は石煉瓦が崩れ、焦げた臭いが充満している。崩れた瓦礫に黒ずんだ人影が見えた。血肉の焼ける臭いだった。
「レオ様!!」
「セルゲイ、無事か!」
「はっ、砲撃では炎を止めきれなかったようで、城門にかなりの損害が……恐らくは死者も……」
「……竜は」
「確実に着弾した筈ですが……損傷の程は確認出来ておりませんな」
セルゲイと併走するレオニードは、煙に霞む赤竜の巨体を見上げる。不意に、その体躯が大きく揺らいだ。同時にレオニードは奇跡の気配を感じた。きらきら、きらきら、遠く黄金の奇跡が舞い降りる。――聖女の御技だ。
赤竜が唸りながら体躯を起こした。煙が晴れる。
確かに着弾した筈の砲撃痕は浅く、僅かに抉れた口の端に乾いた凝血が貼り付いていた。口元からしゅうしゅうと立ち上る硝煙ばかりが、衝撃の深さを物語っている。
(回復している……? 莫迦な……)
ひたひたと背に押し寄せる絶望を、レオニードは馬を疾走させることで振り切った。今はまだ止まることは出来ない。竜が狙うは、この国に三人しかいない聖女の一人だ。
瓦礫の合間に金色が見える。ふとレオニードは、初めて第三聖女を目撃した時のことを思い出していた。
屋根の上に佇む痩身の金色に輝く美猫。
丁度王太子のお守りにうんざりしていた所だった。何が一体目出度いのやら、魔獣討伐凱旋パレードなどというおままごとに付き合わされ、レオニードは不機嫌の最中にあった。煌びやかな王太子の行軍とは裏腹に、レオニードを初めとする漆黒の騎士団は終始仏頂面で、笑顔の愛想を振りまくこともない。異様な集団に王太子のお披露目に沸いていた衆愚が戸惑うのが分かったが、そんなものはどうでも良かった。
援軍とは名ばかりのお荷物を預けられ、その所為で兵は負傷し領主たる父は失われた。赤竜と相対した成果として王太子を守り切れたのは大きいが、だとしてもノルデュール領としては損害が大き過ぎる。
民衆のざわめきを耳にしながら隊列を進めていた時だった。視界の端を、鮮やかな金色が掠めた。振り仰いだ屋根の上、驚いたように見開かれた碧色の瞳がこちらを見下ろしていた。その時にはまさかそれが聖女などと――ましてや己の伴侶になる存在などと、思ってもみなかったが。
今思えば、あの時から、レオニードはあの瞳に捕らわれていたのかも知れない。深く深い、海のような碧(あお)に。
赤竜が傷付いた翼を羽ばたかせる。間近で起こった突風に、遂には煽られ愛馬がよろめく。投げ出されたレオニードは、地を転がりながらも砦の方を見遣った。
黄金の残滓は消えることなく、崩れた城門の間を漂っている。臭気も物ともせず、聖女は黒こげの人影にうずくまっている。何の躊躇いもなく、救おうとしているのだ。
「っ第三聖女!!」
叫びながら、レオニードは痛感する。自分は名乗って貰えなかったことが嫌だったのではない。その名を呼べないことが、嫌だったのだ。
金色が揺らめく。見開かれた碧の瞳が注がれるのを、何処か小気味良く捉えた。
「セルゲイ、聖女を任せた!!」
怒鳴り、後ろは振り返らずに、レオニードは竜の眼前へ回り込んだ。レオニードには目もくれず羽ばたく竜は今、正に大地を離れようとしている。考える前に体が動く。剣を片手に携え、レオニードは竜の前足に飛び乗った。
鉤爪の合間に剣を突き立てしがみつく。ばさりばさりと翼の音がし、竜の体は次第に宙へと浮き上がっていった。
「ッレオ!!」
背後から呼ばわる声には、今は振り向く余裕すらなく、小さく口元を歪める。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
父は公人としては酷く正しい人だった。
公平で、厳正で、そして目的の為ならばどんな犠牲も厭わない人間だった。
かつてノルデュール領を飢饉が襲ったことがある。北の地の主食である芋が不作となり、地方の農村まで食料が行き渡らなくなった。貧困層から飢餓によりバタバタと領民が亡くなっていく中、領主が行ったのは食糧の分配ではなく、近隣地域への売りつけだった。
ノルデュール領だけでなく周囲の領も当然不作の波は押し寄せており、ノルデュール領は潤沢な資産を得ることが出来た。民を犠牲にして得た富だ。
当然、民衆は反発した。レオニードも、父に苦言を呈した。未だ騎士学生時代のことである。
――お前はつくづく為政者に向いていないな
溜め息混じりに吐き出された言葉は、〝ギフト〟がないと判明した時と同じ色をしていて、だから、レオニードはそれ以上に何も言えなくなってしまった。
結果として、その際に得た資金を元に、他国から安く買い付けた食糧によって食糧難は解消された。より大多数の人民を救うことが出来たのは事実だろう。少数の犠牲により多数を救う。為政者としては正しい。正しいが、レオニードにはどうしても受け入れられなかった。
父の正しさは、己の信念に殉ずるまで失われることはなかった。
父が王太子を庇って亡くなったのは、魔獣討伐作戦の最中のことである。
簡単な任務の筈であった。少なくとも、ヴァルグリム砦の騎士たちにとっては、魔獣の出没など日常茶飯事のことで、寧ろ王都の騎士団などに出張られて迷惑している程だった。
森林に出没した狼型の魔獣の群を、王太子に適度に手柄が行くように討伐する。完全な接待だ。
その最中、突如として現れた脅威が、王太子の前に立ちふさがった。赤竜だ。
気が緩んでいなかったとは言わない。だが警戒していたとて何にならたったろう。頭上から降り立った人智の外の存在は、悠々と王国の要人の命を消し飛ばそうとしていた。
強靱な牙、鋭利な爪、鋼の鱗。撃退を考える暇もなく、脅威は命を奪う形をしている。逃れるには誰かの犠牲が必要だった。誰かの。
王太子の間近にいた父は躊躇わなかった。王太子を突き飛ばし、竜の前に躍り出る。鋭い牙が躯を貫く瞬間、振り返った父は冷静に、王太子を、とレオに告げた。
――お前でも、その程度ならば出来るだろう。
噛み砕かれる瞬間、レオニードと同じ漆黒の瞳が、そう告げた気がした。王太子の二の腕を掴むと、レオニードは脱兎の如く駆け出した。果たして、逃げたかったのは竜からか、父からか。
それを今でも、考えている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
びょうびょうと体中に冷たい風が吹き付ける。叩き付けるような冷気に、レオニードは歯を食いしばった。
赤竜の右前脚にしがみついたままに喉を通る呼気は白く、痛い。時折鬱陶しそうに振られる前足の揺れに耐えながら、レオニードは慎重に剣を突き立て、その身をよじ登った。
眼下の砦は見る見る内に遠のき、平野を駆ける騎兵たちがぽつり、ぽつりと豆粒のように小さくなっていく。瓦礫の合間に輝く金色を見い出し、レオニードは小さく口の端を上げた。
鱗に剣を立て、竜の巨躯を一歩一歩這い上がる。腕の付け根に到達されては流石に看過出来なくなったのか、唸る竜の口が迫って来る。これを好機とばかりにレオニードは引き抜いた剣を携え、食いつかれるより前に近付いて来た上顎に飛び乗った。
ぶんぶんと首が振られるのに合わせ、剣の柄にぶら下がり衝撃を逃がす。
「お前も……年貢の、納め時だろ」
赤竜に語り掛ける。果たしてこの天災が人語を解するかは分からないが、生命の危機を感じてか抗おうと必死になっているのは分かる。
「果てろ……お前に聖女は渡さない」
真紅の瞳がぎらりと殺意を増す。縦に伸びた瞳孔に、レオニードは渾身の力で剣を突き立てた。
落下を恐れず全身の体重をかけ剣を進める。魚卵をフォークで突き刺した時のような、つぷりと、弾力のある反発を越え、尚も進めた剣が竜の脳髄を貫いた。
断末魔の咆哮に鼓膜が破れる音がする。溢れ出た赤竜の体液は焼けるように熱く、全身を焦がした。最早飛んでいるのか落下しているのかも分からない。
柄を握っていた手が滑った。滑落の最中強く閉じた瞼の裏側には、きらきら、きらきら、金色の奇跡がいつまでも輝いていた。
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