11

 その日、レオニードは朝から酷くそわそわしていた。

 神殿内の行列に並ぶ間、落ち着かなく蝶ネクタイを弄くる。常ならば行儀が悪いと厳しく叱られる所だが、傍らに立つ母親はレオニードを宥めるように軽く背中を叩くばかりだった。

 母も緊張しているのかも知れない。そう思うと一層引き締まる思いで、レオニードは新品の背広に包まれた背筋を伸ばした。

 王都で行われる〝選定の儀〟。国中の十五歳を迎える子らが集められ、〝ギフト〟を持つ者を探し出す為の儀式だ。今年十五歳を迎えるレオニードは、儀式に参加する為、母と二人遙々王都までやって来ていた。

 春先とはいえ静謐な神殿内は少しばかり冷え込む。ぶるりと身を震わせたレオニードの隣で、母が小さく咳き込んだ。レオニードはさっと顔を青くする。母は元々体が弱い。心臓が悪いのだ。領土から出ることは滅多にない。それを、レオニードの付き添いで初めて王都に出たのだ。

 レオニードは浮かれていた。初めての母との遠出、そして自身の能力を試す〝選定の儀〟。自分が特別な人間なのではないかと、夢想することはこの年頃の子供には良くあることだ。殊にレオニードの母も、兄も、〝ギフト〟持ちであるのだから、レオニードに対する周囲の期待も本人の願望も、一際であった。

 浮き足立った気持ちを引き締め、レオニードは傍らの母の顔を見た。北国出身の者相応に、レオニードも十五歳にしては体躯ががっしりしている。いつの間にか見下ろす程になった母は、少し白い顔で、それでも薄い背中をぴんと伸ばしていた。

 カヴェーリン家の名に恥じないように。それが母の口癖であり、生き様だった。

 〝ギフト〟は遺伝しないというのが通説であるが、それでも少しでも血を濃くしようと婚姻相手に〝ギフト〟持ちを求めるのが貴族の常である。母もそうして父に見初められた。だから、嫡子が〝ギフト〟持ちであった時には心底ほっとしたことだろう。次男にもそれを求めるのは、当然と言えば当然の成り行きと言えた。

 早い者では十を迎える前に〝ギフト〟を自覚する。レオニードの兄もそうで、階段の上から落ち掛けた赤子の時分のレオニードを、ふわりと浮かせて助けたことで発覚した。

 レオニードには未だ何の力も現れていない。けれど、自覚の出来ない〝ギフト〟もある。人より少し丈夫だったり、人より少し運動神経が良かったり。そうした個性の中に埋没してしまう、表出しない力を見出すのが、この〝選定の儀〟だ。

 列は滞りなく進み、レオニードの番になった。鷹揚に手を開く大司祭の前に歩み出て、レオニードは壇上の宝玉に手を翳す。期待と不安に胸を高鳴らせながら、レオニードはじっと宝玉を見下ろす。

 何も起きなかった。透明な宝珠は沈黙し、奇跡の片鱗も見られない。

 大司祭に退却を促され、レオニードは青い顔で壇上を降りる。振り返った先、母の失望したような昏い目を、直視することは出来なかった。


 報告を受けたノルデュール領主である父は、そうか、とだけ言った。元より何の期待も関心もない、無機質な返答だった。

 母はその年、冬を越すことは出来なかった。失意を抱いたまま冷たくなったのはきっと、自分の所為である。その思いがいつまでも、いつまでも、胸の奥で凍り付いていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 扉を開けた瞬間、ふわりと風が舞い起こる。

 手にしていた資料を飛ばされそうになり、レオニードは慌てて紙面を握り締めた。

「ああ、すまない、レオ。少し換気をしていた」

 ベッドに横たわったヴィクトルが薄ら笑いながら言う。背に積まれたクッションに凭れ、緩く手を挙げる。窓も開いていないのに、ふわりと風が舞い上がった。

 ヴィクトルの〝ギフト〟だ。柔らかな空気を起こすその力で、部屋は静謐に保たれている。

「……体調はいかがですか?」

「ああ、今日は悪くないな」

 応じるヴィクトルの呼気は荒い。言葉とは裏腹にその表情は冴えなかった。

 ヴィクトルが床に就くようになってから、数ヶ月が経つ。真冬の寒さに体調を崩し、そこから体を起こしていることが困難になった。冬の極めて寒い日に儚くなった母を思い起こさせ、レオニードは気が気でなかったが、何とか最も厳しい季節は越えることが出来た。

 だが、日に日に起きていられる時間が減り、口に出来るものが少なくなっていくヴィクトルが、後どれだけの季節を越えられるのだろうか。考えるとレオニードは暗澹たる気分になった。

「申し訳ありません、兄上。国に提出する予算案の確認をお願いしたいのですが……」

 何時までも兄に頼っている訳にいかない。それでも尚、これまでこなしていた業務を自分が全て行ってしまうことは、その人がいなくなる準備をしているようで、胸が詰まる。

 レオニードの思いを見透かしたように、ヴィクトルは薄く笑う。

「いい加減、本腰を入れて秘書官を探さなければな」

 ぽつりと吐き出される言葉はいずれ来る別離を余りにも受け入れ過ぎていた。それはそうだろう、大人にはなれない、長生きは出来ない、子供の頃から散々に言われて来た兄だ。時折、こうして結婚して子を成せたのは奇跡の御技だよ、などと、冗談めいた口調で言うものだから、それは尚のこと本音に近いと感じさせた。

 動揺しているのは周囲の方で、思いもかけない天恵を、どうにかして取りこぼさずにいられないものか。右往左往する様を余所に、ヴィクトルばかりが一人、鷹揚にその時を構えている。

「ああ、これで問題ないだろう。無理のない範囲だから、概ね通る筈だ」

「ありがとうございます」

「……聖女様々だな」

 ぽつり、と吐き出される言葉は、兄らしくもなくじっとりとした暗さを帯びていて、思わずその顔をまじまじと見る。口の端を上げた兄の皮肉めいた表情は、余りにも父に似ていて、レオニードは気圧された。

「王宮も貴重な聖女を失いたくはないのだろう。これまで散々陳情申し上げたというのに、今更……まあ、悪名高い聖女でも看板として役に立つならば、精々利用してやると良い」

 どろりと、耳の奥にこびりつくような悪意だった。突然のヴィクトルの変貌に、レオニードは混乱する。これまで兄が聖女に対して不満を口にしたことはなかった。結婚が命じられた時も、お前には苦労を掛けるとレオニードを労うばかりで、聖女が来てからも敵視する様子は見受けられなかったのに。それが、今になって、何故。

 薄ら笑うヴィクトルの険のある目がレオニードを見上げる。父と同じ目だ。

「良かったな、穴ばかりでなく有用な聖女で」

 すっと目の前が白くなった。それが怒りであるのだと、瞬時には理解出来ずにレオニードはひたすら白い視界で瞬きをする。兄に対しては終ぞ抱いたことのない怒りだった。温厚で理知的で、病弱な、兄に対しては。

 ばさりとヴィクトルの手から書類か落ちた。己がそれを叩き落としたのだと、自覚するより前に口から言葉が放たれる。

「……取り消して下さい」

「うん?」

「っ訂正しろ! あの子は……あの子を、侮辱することは、兄上でも許さない……っ!」

 丸まった白い背中を思い出す。ごめんなさいと、絞り出すように呟いたその背は、余りにも頼りなく哀しかった。

 言いたくないのか言えないのか、名を明かさない事情は知れない。それでも良いと思えた。初めは癇に障ったそれが、あの子の最後の盾となっているのならば、それで。

 怒りに拳を震わせるレオニードを見上げる兄の顔は青い。未だかつてその人に怒鳴りつけようなどと思ったことはない。喧嘩はなかった。しようなどとは思わなかった。今日までは。

「っ兄上!」

 レオニードが詰める。兄の口元がふっと緩んだ。

「……お前にも、そんなに熱くなれるものが出来たんだな」

 遠い、遠い深淵から投げ掛けられるような声音だった。ひょっとしたら兄も、レオニードと同様の思いを抱いていたのだろうか。一歩掛け違えれば絶縁しかねない、掛け値なしの本音で殴り合う、喧嘩をしてみたいと。

「……兄さん、」

 思わず幼少の頃からの呼び方が漏れる。ふうと息を吐くこけた頬はもう父のようには見えなかった。

「謝罪はしないぞ。言い方を選ばなかったのは事実だが、紛れもない本音だからな」

「……分かっています、兄さん」

「お前はもう少し処世術を身に付けろ。何でもかんでも顔に出すな。……大事なものを守りたいのならな」

 疲れたのか目を閉じるヴィクトルに、レオニードは小さく頷く。気絶するようにそのまま入眠する、兄の横顔は静謐だった。いつか逝く人の、横顔を只眺める。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 白く伸びた脚が、ぷらぷらと揺れている。

 チュニックから覗いた脚は細く、揺れる度にその裾が僅か持ち上がる。一層透けるように白い太股と最奥のあわいを、思わずまじまじと見つめていると、居心地悪そうに脚を組み直した聖女は、執務机に座ったまま睨み上げて来た。

「何見てんだよ、変態」

「……机に乗るなといつも言っているだろう」

 実際に細い脚の付け根を食い入るように眺めてしまっていたのは事実なので、レオニードはいつものように小言を言うに止めた。むすりと唇を結んだ第三聖女は、我が物顔で執務机に座っている。

 どうやら第三聖女は、日中の暇な時分をレオニードのいる執務室で過ごすことに決めたらしい。部屋の主ががいるいないに関わらず勝手に入り込み、定位置と決めたらしい机に腰掛けてはレオニードの小言を食らうのだ。

 時折鍛錬から戻ると、所在なさげにぷらぷらと脚を揺らし、窓から外を眺めている。待たせたか、問い掛ければ、別にあんたを待っていたんじゃないと、不機嫌そうに返す。

 毛並みの良い痩せぎすの美猫は、その気まぐれさでもって容易くレオニードの心を掻き乱した。

「ヴィクトルんとこか?」

「ああ」

「……具合は?」

 聖女の問い掛けに、レオニードは無言で返した。聖女も聞かずとも分かってはいるのだろう。一層不機嫌そうに唇を噛む、その様は甚く悔しそうだ。

 悪かったな、何かの折に、聖女が呟いたのを覚えている。病を癒せないことに対して、聖女が呵責を抱いているのを知っていた。その為に婚姻関係を求められたと、心の何処かで薄々考えているだろうことも。

「……お前が気に病むことではない」

「気に病んでる訳じゃねーけど、……イリヤの子、父親に会えないんだな」

 イリヤの子、ヴィクトルの子。はちきれそうに膨らんだ腹の中にいる赤子は、もう間もなくの誕生を迎える。既に鼓動が聞こえるその子を、ヴィクトルが抱くことは、恐らくない。

 一瞬沈痛な顔を浮かべた聖女は、直ぐにあっさりと肩を竦めて見せた。

「ま、親なんざ居なくても子は育つしな。俺も父親なんて知らないし」

 さらっと吐き出す聖女に、レオニードは咄嗟に言葉が出ない。レオニードの動揺を余所に、聖女は机から飛び降りると、挑発するように顔を仰いで来た。碧の瞳がレオニードを見据える。そこに浮かぶ色を量りかねて、レオニードは凡庸な問い掛けをする。

「母親は、記憶にあるのか」

 聖女は答えなかった。そのままレオニードの手から書類を取ると、分かりもしないだろうにふんふんと謎に相槌を打つ。

 婚姻をする前に、聖女の素性は調べていた。娼婦の子として生まれ、捨てられ、孤児院で育てられた天涯孤独の子供。

 知っているにも関わらずつまらない質問をしてしまったと内心悔いるレオニードに、聖女は気にした様子もなく、話を変える。

「で、これが通ればいよいよ、赤竜討伐って訳か」

「ああ……そうだな」

「ほらな、結局俺の言った通りになったじゃねーか」

 勝ち誇ったように聖女は笑う。かつて聖女が口にした竜の討伐という言葉を、ヴァルグリム砦の騎士たちは一笑に伏した。レオニードもそうだった。何を夢物語を、と。

 しかし気付けばそれは現実の所に迫っている。それもこれも、聖女の恩恵に因るものであると、レオニードとしても認めざるを得ない。

「やっぱなあ、原因を絶たないと意味ねぇからなあ」

 訳知り顔でにやにやと笑う、聖女の存在のお陰で魔獣の被害は随分と減った。損害が減ればその分、戦線に回せる物資も人手も格段に増える。だからこそ先の接戦において、貴重な火薬を惜しみなく消費することが出来た。王都からの予算も増額し、物資の供給が目に見えて増えたのも聖女がいるが故にだろう。

 尤も、王都に頼り過ぎるなよ、とヴィクトルからは苦言を呈されている。利権を取られる程の介入はよろしくないのは事実だ。

「夏が来る前にはケリを付けたい……長引くと騎士団の連中が出張って来る」

「王都の騎士団なんて、あの、王太子の取り巻きみたいな連中だろ?」

 第三聖女の明け透けな物言いに、思わず吹き出しそうになるのを堪える。初めて出会った時の聖女を思い出す。王太子の地位など一切省みず、啖呵を切る姿は爽快だった。

「いや、来るとすれば第三騎士団だろうな。魔獣討伐の専門家だ」

「ほーん、そいつらに横取りされるのはよろしくない、って訳か」

「ああ。我々の手で止めを刺す。手柄を取られる訳には行かない」

「あ、そ……ほんで、俺は?」

「……ん?」

「俺は、何をすればいい?」

 不意に投げ掛けられる問いに、レオニードは言葉を詰まらせた。静かな色が見上げて来る。浅瀬の海の、静かに押し寄せる波の色だ。

「後方支援? 別に、前線でもいいぜ。こないだあいつにはやられたし、やられっ放しってのも癪だからな。ま、俺は戦わねーけど」

 波間を揺蕩うように揺らぐのはレオニードの心ばかりで、聖女は確かな信念を持ってレオニードを見据える。

 好きで聖女になった訳ではないと、嘆いていた癖に。繊細で儚げな見目とは裏腹に剛胆な第三聖女は、先に重傷を負ったにも関わらず戦線に立つことを恐れないようだった。

 それなのにどうしても、レオニードの脳裏に浮かぶのは、白く細く、さみしい背中だった。

「……お前は……砦にいろ」

「……は? 何て?」

「お前は城に残れ」

「……ふざけんなよ」

 低く聖女は唸る。反発を食らうのは目に見えていた。それでもレオニードとて後には引けない。

「何だよそれ、赤竜と戦うんだろ? 聖女の力が必要なんだろ?! だったら俺も連れてけよ」

「駄目だ、残れ」

「っだから、何でだよ! 俺の力が必要だったんだろ? その為に結婚したんじゃないのかよ!」

 その為の婚姻だった。少なくとも国から命じられたのはそれ故だろう。その方が効率が良い、そうすべきだ。理性では分かっているのに、感情が言うことを利かない。そんなことは初めてだ。

 頑ななレオニードに焦れたらしい聖女が詰め寄って来る。細い腕が胸倉を掴む。レオニードは振り払わなかった。

「レオニード!!」

「火薬が整い次第出立する。お前はそれまで大人しくしていろ、第三聖女」

「……っ俺(せいじよ)は必要ないってのかよ……!」

 悲痛な叫びが薄い唇から零れ落ちる。胸元を引き寄せられ、間近に見下ろす先、揺れる瞳は深海よりも尚、昏い。

「ああ……必要ない」

 過った激昂は本の一瞬で、直ぐに相貌は色を失くした。酷なことを言っている自覚はある。それでも、吐息すら掛かりそうな距離で、レオニードは聖女に告げる。

「聖女は必要ない。足手纏いだ。城に残れ」

 言い放つと同時に胸元を掴む手を振り払う。きっともっと上手いやり方がある筈なのに、レオニードは愚直に突き放すしか出来ない。兄ならばもっと優しく気を遣っている振りをして、上手に言いくるめられるだろうに。傷付ける言い方しか、レオニードは選べない。

 第三聖女は強張った表情を消し、へらりとした笑みを口元に貼り付けた。それが聖女なりの自衛であるのだと、分かっていても妙に癪に障る笑い方だった。

「あっそ、じゃ、俺はここで好きにさせて貰うけど。……別に、疲れることしたい訳じゃねーし」

「……羽目を外し過ぎるなよ」

 余計な一言を去り行く背に投げ掛ける。応じる言葉もなく扉を開け出て行く人の、唇に未だ笑みが張り付いているのかどうか、確かめる術はない。

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