13

 断末魔の咆哮が轟く。頭上から降り注ぐ悲鳴に似た声に、少年は体を震わせた。

 墜落する赤い巨躯ともつれるように、漆黒の獣が宙を舞うのが見える。ひゅうと喉の奥から詰まった息が漏れた。心臓が痛い。周囲は焼けた肉の嫌な臭いが漂っていた。焦げた肉片が辺りに散乱している。竜に焼かれた騎士たちは、瓦礫の中で黒ずんだ亡骸を晒していた。

 聖女の奇跡が及ばないこともある。そんなことは知っていた。少年にはどうすることも出来ず、命を落とした騎士たちが辺りに哀れな亡骸となって転がっている。

 間に合わなかった。そしてまた、間に合わないかも知れない。恐怖に慄いた少年は後先考えず走り出す。瓦礫に脚を取られ、よろめきながら城門を降りた先、広がる平野に赤い巨体が墜落して行った。

 辺りに残った騎士たちが静止するのも構わず、少年は走り出していた。

(何で……これで、終わりだなんて……まさか……っ)

 最後にまともに口を交わしたのはもう一月も前のことになる。城に残れと言われ、腹を立てた少年は、今日に至るまで碌にレオニードと顔も合わせていなかった。

(分かってた筈だろ……竜と戦うってことは、死ぬことだって当然ある訳だ……あいつの父親みたいに)

 凱旋パレードに参列したヴァルグリム砦の騎士たちは一様に傷付いていたのではなかったか。その脅威を目の当たりにし、死を感じたのではなかったか。

 分かっていたのに、砦でじっとしていることを強いられ、勝手に腹を立てていたのは自分だった。唇を噛み締めながら走る少年の、足がもつれて転び掛ける。突いた膝が擦り剥けるのも構わず、地に落ちた赤と黒へ向かって走り続けた。


「聖女……様……」

 震える声でマルクが呟いた。走り来る少年を迎える顔は真っ青だ。黒鎧の騎士たちが集い、その惨状を前に青い顔で絶句していた。

 赤竜は事切れていた。巨躯は地面に叩き付けられ、牙の折れた口から泡と夥しい量の血が吐き出されている。

 衝撃はその傍らにあった。

「レオ……」

 竜の背に落ちてから転がったのか、黒鎧は粉々に砕け、全身の皮膚を裂傷が覆っている。流れ出た血は何処から出ているのか最早判別すら出来ない。瞳は漆黒の光を見せることなく閉ざされている。

 熱に浮かされたように、少年はふらふらと歩み寄る。止めるものはない。

「……っレオ……」

 横たわった哀しい獣の隣に膝を突く。半分空いた口から、ひゅうひゅうと小さな吐息が、段々と小さくなっていくのが分かった。

――死なせない、絶対に。

 かつてない程の強い思いに突き動かされ、少年はレオニードの上に覆い被さった。あれだけ疎ましかった聖女としての力を、これ程に求めたことはない。

(死んで終わりなんて、そんなの許せるかよ……俺は未だ、名前を呼んで貰ってもいないのに)

 与えられたことのないその名を思う。きっとそれは、聖女の奇跡などよりずっと、尊い祝福に違いない。

 血の滲んだ唇に己のそれを重ねる。ぐんと胎の奥から力が引きずり出されるのが分かる。目の前がちかちかと明滅した。意識が飛びかける。けれどまだ駄目だ。まだまだ全然、足りない。こんなものではないだろう。聖女の御業であるというのならば――奇跡ならば、叶えてみせろ。その力はある筈だ。少年には――聖女ならば。

 きらきら、きらきら、祝福は激しく少年の周りに舞い上がる。皆が固唾を飲んでその光景を見守っていた。

 汗が滲む。手先が震える。頭は熱に浮かされたように熱いのに、全身は急速に冷えていた。喉の奥が焼けるようだ。沸き上がる金臭さが、相手のものか己のものかも分からない。

(……勝手に死ぬなよ、レオ……)

 心の中で語り掛ける。きらきら、きらきら、世界は黄金に染め上げられていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 子供の泣き声がする。哀しみより甘えの強い、憐れな子供の泣き声が。

 耳障りで鬱陶しい、けれど振り払うことの出来ない甘えた声の持ち主を、うんざりしながら少年は抱き上げる。

 赤子から成年間近の子供まで、預けられた子らの面倒を見る職員は怠惰で、とてもではないが世話が行き届いていたものではない。

 手間のかかる幼児の面倒は当然のように孤児院の子供たちに押し付けられ、そしてそれはそのまま少年に押し付けられる。『娼婦の子』と侮られ、最底辺の扱いを受けている少年に。

 煩わしかった。鬱陶しかった。得られもしない愛情を求め、泣いて縋り付く赤子に与えられるものなど、少年は持ち合わせてはいないというのに。

 うんざりしながら抱き上げた体は恐ろしく軽く、驚くほど熱い。小さくその名を呼んでやる。寄せた頬が生温く濡れていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ぽたり、頬を伝う水滴が唇に触れる。喉の乾きに思わず舐めた少年は、そのしょっぱさに眉を顰めた。

「……何、だ……?」

 声を上げようとした少年は、喉の痛みにげほげほと咳き込んだ。掠れた声は言葉にならず、噎せる最中に頭上から息を飲む声がする。

 薄ら涙の浮かんだ瞳を、少年は開いた。滲む碧の向こう、歪んだ黒が映る。

「……れ、お……?」

 ぱちりぱちりと、少年は瞬きをした。どうやら少年は、自室のベッドに横たわっているらしい。パチパチと薪のはぜる音がする。漆黒の獣が、苦しそうに少年を見下ろしていた。

 鉄面皮は崩れ、唇が戦慄いている。深淵の瞳が光っているのを目にし、少年は瞠目した。

(何泣いてんだ、あんた……)

 話し掛けようとする声は喉に詰まり、再び噎せる傍らで、慌てたように漆黒の獣が右往左往するのが見えた。

「……水を……飲めるか」

 静かに差し出された水差しを受け取り、一気に呷る。喉奥に流れ込む水の甘さに、如何に口渇していたかを知った。

 人心地付き、漸く少年は上体を起こした。頭がくらくらする。随分と長く寝ていたようだが、冬のノルデュール領は空が重く、窓の外の光景からは時刻が掴めない。

「お前は丸二日間、目を覚まさなかった」

 少年の視線から察したのか、傍らの男がぎこちなく告げる。驚きは薄かった。体を覆う疲労感と僅か感じ始めた空腹がそれを裏付けている。

 少年は隣を見た。寝台の横、椅子に腰掛けた獣は、何故だかしょぼくれたように肩を落としている。

 傷は、見当たらない。欠損や目立った不具合もなさそうだ。只、らしくもなくその瞳には水滴が光り、うなだれた様は実に惨めったらしい。

 少年は幾度か、瞬いた。深呼吸一つ、喉はもう発声には十分な程潤っている。

「生き返った分際で、何であんたが落ち込んでるんだよ!!」

 叫び、手を振り上げる。然程早くもない手刀は避けられもせず、黒い頭皮にぶち当たった。


「ほんで、怪我は? ちゃんと治せたのかよ?」

 少年の質問に、肩を落とした男が小さく頷いた。ベッドに上体を起こしたまま、少年は嘆息する。ベッド脇のスツールに腰掛け辛気くさい顔をしているのは、ノルデュール領の領主であり、カヴェーリン伯爵家の当主であり、ヴァルグリム砦の騎士団長であり、赤竜を討伐した英雄であり――そして少年の夫でもある男、レオニード・カヴェーリンだ。

 レオニードは窮屈そうに椅子に縮こまり、険しい顔面の前で手を組んでいる。随分と厳めしい相貌をしているが、その眦は赤い。

 何であんたが泣いてんだよ。思いを込めて睨み付ける先、レオニードは観念したように口から重い息を吐いた。

「聖女の力のお陰で、生き延びることが出来た。……礼を言う」

「当ったり前だろーが! こんだけ力使い果たして、死んでたら殺すとこだったぞ?!」

 訳の分からない少年の暴言に、レオニードは反論しなかった。只ぐっと息を飲む。

 それで知れてしまった。他でもない自分のことだ、言われずとも分かる。体を覆う倦怠は決して疲労ばかりではない。

「……俺、今どんな状況?」

 問い掛けに、レオニードが寄越したのは手鏡だった。掌に収まる程の古びた鏡を覗き込む。

 そこには白髪の少年がいた。きょとりとした碧の瞳が見つめ返している。透けるような白い肌、繊細な面立ち、見間違いようのない美少年がそこには映っているが、そこに祝福は欠片も見当たらない。

「……ま、そーなるわな」

 少年は横髪を指先で掬った。祝福を示す黄金の髪は見る影もなく、色の抜けた白がぱさぱさと顔の周りを覆っている。

 聖女の力が抜け落ちていることには、目覚めてから直ぐに気付いていた。寧ろそうでなくては困る。己の全てを賭けて、少年はレオニードに力を注いだのだ。それが一時的なものか一生なのかは分からないが、なくなってしまったものは仕方がない。

 聖女の力は失われた。少年は聖女ではなくなった。疎ましいだけの力は、それでも少年を助け、そして身を去る時には少年の価値を全て奪って行った。

 がらんどうになった身を自覚し、少年は途方に暮れた。空っぽだった。聖女でない己に価値などない。聖女でなければ未だ少年は『娼婦の子』のままなのだ。

 ふう、と息を吐き、ぐいとレオニードを睨み付ける。己の口から零れ出る言葉が空元気に過ぎないと知りながら、無理に明るく声を上げた。

「まあ、しゃーねぇな。なくなっちまったもんはなくなっちまったもんだし」

「何を……そんな、あっさり」

「深刻になってもしょうがねぇだろ? ほんで……、俺は、どうすれば良い」

「どう、とは?」

「だから……聖女じゃなくなった俺は、いつまでここに居て良いのか、ってことだよ……」

 己の言葉が力なく尻すぼみになるのを、少年は自覚せざるを得なかった。

 聖女の立場であるからこそ成された婚姻だった。ならば、最早少年がここに居る、居続けられる理由は、何処にもない。

「っ何を、莫迦な……!」

「バカじゃねーだろ、その目的で結婚させられたんだろーが」

「それは……そうだが。だが、命の恩人を放り出すような真似はしない」

 心外だとばかりに告げる、レオニードの言葉は少年には響かない。

「あっそ。で、それって、いつまで?」

「……何を、」

「いつまで俺は居られんの。動けるようになるまで? あんたが結婚相手見つけるまで? ……あんたが、子供作るまで?」

 中腰で立ち上がりかけていたレオニードが、虚を突かれたように動きを止める。嗚呼、言った。言ってしまった。少年の心を僅かな悔恨が過るがもう遅い。一度口にしてしまえばその思いが如何に強く、深く、心に根付いていたかが分かる。

 聖女の力目当ての婚姻だった。少年の身では子は成せない。だからいつか――いつの日か、この身が不要となった時には。レオニードは正式な妻を設け、子を成し、〝正常〟に戻るのだと。その不安はずっと、漠然と、胸の奥に鎮座していて少年を脅かし続けていた。

 へらりと少年は笑う。全てを覆い隠すべく、薄っぺらい笑みを貼り付けて。

「せめて体動くようになるまでは待ってくれよ? 今放り出されたら流石に……」

「っふざけるな!!」

 怒鳴りながらレオニードは少年の細い手首を掴んだ。強い力に握られ痛みが走る。大人の男の力だ。

「俺の伴侶はお前だ、第三聖女。それ以外に娶るつもりはない」

 低く、告げられる。少年は未だ笑みを貼り付けたままだ。

「んなこと言っても、お貴族様なら世継ぎ問題もあんだろ?」

「後継なら兄上の子がいる。そうでなくとも養子なり何なり、何とでもなるだろう。そうではない、そうではなく……話を逸らすな!」

「逸らしてねーだろ、力のない聖女も、子供が産めない結婚相手も、あんたには不要のもんだろうが」

「そんなことは……」

「そうだろうが! だってそうじゃなかったら、何で……何で俺のこと、置いてったりしたんだよ?!」

 それは突然に、少年の内から溢れ返った。これまで見ないようにして来た、誤魔化し続けて来た感情の奔流は少年を押し流し、激情へと導く。不意の衝動に抗えず、少年の頬は強張った。

 もう作り物の笑いは、浮かべられない。

 驚くレオニードの手を振り払い、見開かれた漆黒の瞳を睨み付ける。

「あんたが戦うのに、何で俺を置いてった!」

「それは、危険があるからで……」

「んなこな分かってんだよ! それでも連れてけよ、足手纏いでもお荷物でも、それが俺の役割だろ!?」

――聖女は必要ない。足手纏いだ。

 告げられた言葉が今も心に刺さり、じくじくと膿んでいつまでも胸を痛めつける。

 聖女として必要ないならば、少年自身が必要とされることもない。そんな分かり切ったことを、今更、まざまざと実感させられ、奥底でくすぶった焦熱が胸を灼く。

 歪んだ視界で黒い獣は只戸惑うばかりだ。

「そうではない、そういうことではなく……」

「そうじゃないなら何で……何で、勝手に死のうとした! っ何で、俺を置いて……っ!!」

 噴出した想いをぶつけきれず、唇を噛んで俯く。置いていかないでと、心の奥底で叫ぶ声がする。噎せ返るような香水の匂い、気まぐれで少年を殴ったり愛でたりする、少年を産み落とした人が居なくなったのを知ったのは大分後のことだった。置いていかれたのだと、分かってからは哀しみよりも虚しさが勝った。

 所詮、その人にとってはその程度の存在だったのだと。作り笑いをするようになったのは、それを悟ってからのことだった。

 高く高く、竜と共に登り行く漆黒の背中を見送った時、感じたのはその時と似た思いだった。押し殺してなかったことにしていた感情が、細い体を渦巻き巡り今にも口から飛び出さんとしている。

 思いを殺すようにぎゅっと体を丸める、少年の頭に、ぎこちない掌が触れた。無骨な指先が耳の上の横髪を掬う。逡巡するように触れる指が、少年の白を優しく撫ぜた。

「……お前を、守りたかった」

「意味分かんねーよ」

「守りたかったのだ、第三聖女」

「っもう……聖女じゃねーよ」

 聖女でないならば何なのだ。聖女としか呼ばれない自分は、只の、何者でもない。

「ならば何と呼べば良い?」

「……ねーよ、他の呼び方なんか」

「……どういうことだ?」

「っだから! 聖女以外に俺の呼び方なんかねーって言ってんの! 名前がねーんだよ! 俺には!」

 ずっと『娼婦の子』と蔑まれて来た。ずっと『聖女』と崇められて来た。少年自身を表す名は何もない。

 遂に言った、言ってしまった。立てた膝の間にぎゅうと顔を埋め、少年は小さく震える。

 戸惑ったような獣の気配が遠退く。喪失に胸がきゅうと締め付けられる。しかし離れたと思った気配は直ぐ後ろにやって来た。二人分の体重を受け、ぎ、と古いベッドが軋む。脇のスツールから寝台へと腰を移した人は、背後からそっと少年の肩に腕を回した。

「……お前の事情は分からないが、もし名がないと言うのなら、」

 低く柔らかく、耳元で声がする。

「俺が、お前に名を与えてることは許されるだろうか」

 弾かれたように少年は背後を振り仰いだ。視界の端、漆黒の瞳が揺れる。

「……名前、」

「ああ」

「……くれるの、あんたが」

「ああ。お前が嫌でなければ」

 気遣わしげに囁かれ、少年の胸が震える。おずおずと振り返る先で、同じような怯えを抱いた瞳とかち合った。拒絶を、否定を、恐れる瞳だ。

 不意に心の奥底で、何かか解ける感覚があった。そこにあったのが只の優しさなら、ましてや同情であったなら、きっと少年は反発し、二人の間の亀裂は戻らないままだったろう。

 けれど戸惑い、怯えながら差し伸べられた手は、少年と同じだった。

 恐る恐る、寄り添った獣の肩に顔を埋める。

――じゃあ、頂戴。

 小さく呟いた言葉が届いたのか、埋めた肩口が僅か震えた。

 暫し沈黙の後、静かな言葉が告げられる。

「……ルカ」

「ルカ?」

「そうだ。ルカ……どうだろうか」

 ルカ、ルカ、ルカ。

 心の内で三度唱えた。ルカ、与えられた名がきらきら、きらきら、胸の奥で輝きを増す。

 それはきっと、聖女の力などより何より、確かな祝福だった。

「ふうん……あんたにしては、センス良いじゃん」

「……お前のその憎まれ口はどうにかならんのか」

「お前、じゃない」

 ベッドに膝立ちになり、少年は身を乗り出す。厳めしい獣の頬を両手で掴み、こつりと額をくっつけた。

「ちゃんと、呼んで」

 与えられた名は全身を巡り、歓喜の渦を巻き起こす。まだ足りない。もっと、もっと。急いた気持ちが溢れてぐりぐりと額を擦りつける先、面映ゆそうな男の顔が不器用に笑う。

「……ルカ」

「もっと」

「ルカ、」

「まだ、もっと呼んで、レオ」

 強欲に強請りながら少年は男の首筋に細い腕を絡ませる。抱き付かれた人が今度こそ声を上げて笑うのに、呼応するように少年も身を揺らした。

 ルカ、ルカ、ルカ、呼ばれる名は飽きることなく、少年の胸に祝福を撒き散らす。溢れる喜びに突き動かされるように、少年は名を呼ぶ唇を己の口で塞いだ。受け止める男の手が背に回され、そっと、優しく、抱き締められる。

 少年ルカはもう、愛を知っている。

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