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 石畳の白の部分を踏み外さないように歩く。示し合わせた訳でもないのに、何故か孤児院の子供たちは皆、そうして遊んでいた。

 金はないが時間はある。そうした幼少の時分の所作は、少年の身に染み着いている。

 王都の大通りを歩く少年は、押し寄せる人通りも物ともせず、すいすいと身軽に歩みを進めた。勿論、白い石畳だけを踏み締めて。黒い部分を踏んだら死ぬぞ。そんな幻聴が頭の奥に響く。もう遠い、孤児院の子供たちの声だ。

 今の少年は、果たして群衆の目にどう映るのだろう。最早少年は貧困街の孤児ではない。だからといって貴人の風体や佇まいでもない。多少裕福な家庭の使用人、そう見えていれば御の字だろう。

 特に宛てもなく大通りをぶらつく少年は、決して後ろを振り返りはしない。けれど、忠実な護衛であるゴルドーが確と着いて来ているの気配を感じている。

 本当の意味での自由など、もう少年には訪れない。それを分かっていながら、少年は幾許かの休息を求め、時折こうして市街をぶらつくとにしている。それで気が晴れることはないのだと、心の何処かでは分かっていても。


「そこの坊主、どうだい、主人に土産なんて? 聖女様の所縁の品だぞ」

 道端の露店から声をかけられ、少年は思わず足を止める。あからさまな客引きは普段ならば無視するか愛想笑いで通り過ぎるものだが、その呼び込みは流石に看過できない。

 客引きに成功したと見て取ったか、店主は木造露店の木枠の向こうで、嫌らしい笑いを浮かべながら手のひらを差し出して来る。ごつごつとした拳に握られていたのは、そこらの石でも拾って繋げたかのような、質素なブレスレットだ。

「目が高いな、坊主。これはな、先日赴任した第三聖女様の加護が籠められてるんだ」

 にやにやと告げる店主に、少年は知らず渋面になる。第三聖女とは、紛うことなき少年自身のことだ。そこらに売られているアクセサリーに願いを籠めた覚えなど、少年にはない。

 少年の渋い顔に勘違いしたのか、店主は慌てて言い募る。

「いやまあ、確かに第三聖女様は素行が悪いって有名だしよ。……淫売だって噂もあるくらいだ。けどな、その祝福は本物だ。祈りに罪はない。お前も主人が健康に過ごせた方が嬉しいだろ?」

 そう言って提示された金額は、そこらの露店で売られるアクセサリーにしては随分と高いが、聖女の加護が籠められたものだと考えれば余りにも安い。そうして、安直に信じた通行者を相手に、良い小銭稼ぎをしていたのだろう。下衆なことだ。

 うんざりとした少年が無視して踵を返しかけた時、背後から伸びた手が店主の手首を掴んだ。

「……聖女の加護だと? 神殿からの許可は取っているんだろうな?」

 店主がひゅうと息を飲む。振り仰げば、いつになく険しい顔をしたゴルドーが、店主を睨み付けていた。

「う、ぁ、神殿騎士様……っいえ、あの、それは……」

「聖女様の祝福を偽るとは、立派な犯罪行為だ。それは分かっているだろうな。……引っ捕らえろ」 

 いつになく饒舌なゴルドーが、騒動に寄って来た衛兵たちに指示を出す。その隙に、少年はするりとその場を離れた。不快には思うが、こうした偽証はそこらにありふれている。少年が一々足を止めなければ、ゴルドーも少年の護衛を優先し、態々引っ立てたりなどしなかっただろう。運のないことだ。

 思いながらも少年は、何事かと集って来た人垣を抜けて一人大通りを悠々と抜ける。お目付役のない外出など、この半年なかったことだ。しかし少年の心は、思いの外弾まなかった。

――第三聖女様は素行が悪いって有名だしよ。

 気にすまいと思えば思う程、店主の言葉が脳内で反復する。第三聖女の評判が市井に出回っているとは思わなかった。寧ろ、貧民街の出身であるからこそ、悪評も広まるのは早かったのかも知れない。

――淫売だって噂もあるくらいだ。

 孤児院の人間なら、或いはかつて少年が身を売った相手ならば。嬉々としてあることないこと触れ回ることだろう。

 そんなことを気にする少年ではなかった。人からどう思われようが、少年には関係がなかった。ない筈だった。しかし何故だろう。白の石畳を踏む、その足取りは酷く、重い。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 聖女の勤めは早朝の祈祷から始まる。

 ヴァルテナ神殿の大聖堂は、王宮の広間にも匹敵する広さを持っている。そこに大聖女を始めとして、大司教から末端の神官まで、神殿に勤める者全てが集められ、女神ユミエールに祈りを捧げる。その圧巻な光景は神殿の名物ともなっていた。

 聖女の祈りは結界となり、シルヴァリル王国を魔のものから遠ざける。らしい。結界だなんだと言われても少年にはぴんと来ないので、眉唾ものだと思っているが。何せ魔のものを遠ざけるなどと言っておきながら、時折耳にする魔物の被害は相当なものだ。やれ南方で魔獣の暴走が起きたの、北方で竜が現れただの。神殿のお膝元である王都では滅多に聞くことはないが、その効力は疑わしいと少年は思っている。

 祭壇の前に跪き、真剣に祈る大聖女の背を眺めるのに、少年は数日で飽きた。仮病を理由に祈祷をサボるようになったのも当然の流れと言えよう。


 祈祷を終え質素な昼食を口にした後は、聖女として個々の勤めが始まる。最も力の強い大聖女は、癒しばかりでなく〝先見〟の力を備えている。国の凶事に備え、大聖女は基本的に大聖堂に常に控えている。

 代わりに精力的に動き回っているのが、第二聖女だ。街へ下りての癒しの儀、孤児院への慰問、辺境への派遣、外交官の妻の立場を生かして国外へと、それこそ一所に留まることなどないのではという程、精力的に飛び回っている。

 第三聖女として見出された少年はといえば、癒しの力を制御出来なければ話にならないと、神殿の一室でひたすらに病と怪我を治すことが目下の聖女としての勤めだった。


 最初に癒したのは高齢な貴族の男だった。

――これが第三聖女か。お手並み拝見、といった所だな。

 至極偉そうに男は言う。その尊大な態度とは裏腹に、男の症状は、軽い打撲だった。先日執務中に肘を打ち付けて痛むのだと言う。特に皮膚の変色もなく、骨折もしていない。軽傷といって差し支えのない、只の打撲だった。

(この程度で、聖女の癒しが必要なのか? たかが、打撲で……?)

 思いながらも少年は貴族の男が痛むと言う患部に手を当てる。確かに重症患者であれば、力を使いこなせない少年に診せることはないのだろうが。

 癒しの力を行使するのは苦痛だった。肉体は抗い難い快楽をもたらすのに、心はそんなのは真っ平ごめんだと拒絶し続ける。その相反した感情が、少年を苦しめていた。

  吐き気すらもよおしながら、渋面で少年は男の肘に触れる。黄金の祝福が体内を巡る。患部へと放出する、それよりも遙かに多く下腹部へと流れ込む癒しの力に、少年は『たかが』打撲を癒す程度で、息も絶え絶えになった。

 たっぷり十分やそこら、暴走し体を甘く駆け抜ける衝動に耐えながら打撲を治すと、貴族の男は軽蔑したように少年を見下ろしていた。

――ふん、第三聖女の力は、この程度か。

 先に少年が思った言葉をそっくりそのまま投げつけられる。床にへたり込み赤い顔で俯く少年の、それが初めての、聖女としての癒しの勤めだった。


 それから何度も、何度も、癒した。

 痣が気になる貴族の女性や、腰を痛めた神官や、喉を痛めた裁判官や、膝を擦りむいた令息や。

 少年の目からすれば大したことのない症状でも、癒すのに一々発情し力を使い果たす。それを繰り返し、繰り返し、半年も経って漸く、少年は自らの力を制御出来るようになった。

 聖女の祝福を他人に分け与える内に、少年は気付いたことがある。どう足掻いても少年の癒しは、外に出すよりも内に籠もる魔力の方が遙かに多い。効率良く他者に分け与えるにはどうすれば良いか――より少年の内側に近い部分で、癒せば良い。

 試しに膝を擦りむいた貴族の子供の傷口に、唇を触れさせてみた。少年は発情することもなく、力を使い果たしてへたり込むこともなく、極僅かな時間と労力で、傷を完璧に癒すことが出来た。

 少年は愕然とした。折角、金の為に行ってきたそうした触れ合いから解放されると思ったのに。結局はそれが身に染み着いた性質でしかないのか。

 

 このことは内緒だよと伝えた時、貴族の子供は神妙な顔をして頷いていた筈だった。しかし幾ら諭そうとも幼い子供に秘密を守れる筈もなく、その子の母親からご婦人方の噂を介し、貴族から神官、市井へと、少年の悪評は瞬く間に広まった。

 第三聖女と二人きりになると癒しを対価に淫らな行為をさせられるらしい。第三聖女は誰にでも股を開く淫乱だ。第三聖女は夜毎取っ替え引っ替え相手を誑し込む淫売である。

 人を介する内に面白可笑しく脚色された風評は、簡単に覆すことは出来ない。少年とて一時は真面目に祈祷や治癒に専念した。風聞など掻き消すことが出来るのだと。

 けれど、何をしても噂が消えることはなく、少年は神殿の者たちから侮られ蔑みの視線を向けられた。

 『娼婦の子』――そう呼ばれていた時分と何一つ変わらない。何が聖女だ。何が癒しの力だ。

 だからもう、少年は、聖女の力に何も期待しない。

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