第七章 スタンドの空席

※視点:天野 光輝(陸上)


 県大会の朝。

 光輝は、競技場の控室でスパイクの紐を結びながら、深呼吸を繰り返していた。


 あと0.04秒。

 その先に“全国”がある。


 それはただの記録じゃない。

 ずっと見上げていた星に、手を伸ばす瞬間だ。


 スマホを見ると、グループチャットに変化はなかった。

 既読はついている。でも、奏と澪からの返信はまだない。


 (……いい。期待するな、俺)


 そう自分に言い聞かせる。

 けれど、ふとスタンドを見上げた瞬間――視界が止まった。




 最前列の席に、見覚えのある人影があった。


 濃いピンクのマフラーに、軽くウェーブのかかった髪。

 朱音だった。


 横には、背の高い少年。バスケのジャージを羽織った陽翔がいる。


「……マジで、来たのかよ」


 驚きと、胸の奥が熱くなる感覚が同時に押し寄せた。

 思わず笑いが漏れそうになるのをこらえる。




 スタートラインに立つ。

 ピストルの音が鳴る。

 地面を蹴る。風を切る。まっすぐ、前へ。


 フィニッシュの瞬間、記録を見るより早く、スタンドからの声が聞こえた。


 「光輝ーーーっ! 全国、いったかーーっ!?!?」


 陽翔の大声。その隣で朱音が顔を赤くして、うるさいと口を動かしている。


 光輝は苦笑しながら、掲示板を見た。


 ──10秒79。


 「……行った」


 その瞬間、視界がにじんだ。




 レース後、着替えを済ませて外に出ると、ふたりが出待ちしていた。


 「ナイスラン!!!」

 「……ギリだったけど、よくやったわね」


 光輝は言葉にならず、ただ「ありがとな」とだけ呟いた。


 「で、来てないのって……」

 「奏と澪だけ。でも、澪からはね、これ預かってきたの」


 朱音が取り出したのは、一枚の五角形の紙片。

 子どもの頃、5人で作った「五つ星ノート」の切れ端だった。


 そこには、澪の小さな字で、こう書かれていた。


「1本、中てました。今度はあなたの番。」


 静かに、けれど確かに──届いていた。




 その夜、グループチャットに光輝がメッセージを送る。


「10秒79。全国、決まった」

「来てくれたふたり、ありがとう。来れなかったふたりも……ちゃんと届いたよ」


 数分後。

 ──既読、5。


 そして、画面に新着メッセージが表示される。


奏「……追いつかれたらダサい。次、俺が全国行く」


 さらにその直後。


澪「次、誰が行くの?」


 スタンプがポンと押される。陽翔のバスケのユニフォーム姿の似顔絵。

 朱音も、キラキラ星のスタンプで応える。


 その画面を見ながら、光輝は、

 心のどこかでずっと止まっていた時計が、また動き出した気がした。

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