第二章 10秒のその先へ

※視点:天野 光輝(陸上)


 スタートラインに立つと、世界が静かになる。

 スタンドのざわめきも、スピーカーから流れるアナウンスも、耳には届いているはずなのに、まるで遠くの出来事みたいだ。


「天野、集中しろ。いい流れだ」

 コーチの声だけが、やけにクリアに聞こえる。


 軽く肩を回し、深く息を吐く。

 「……ああ。いける」

 自分に言い聞かせるように呟くと、スターティングブロックに足をかけた。


 ――ピッ。


 号砲とともに地面を蹴る。

 腕を振り、脚を回し、ただ前に、前に。


 空気を裂くようなスピード感。地面を叩くスパイクのリズム。

 頭の中は空っぽで、身体だけがゴールを目指していた。


 ──フィニッシュ。


 電光掲示板にタイムが表示される。


 10秒84。


 光輝は肩で息をしながら、それを見つめた。

 全国大会出場のボーダー、10秒80まであと0.04秒。


 惜しい。でも、確かに前より近づいている。


 「……まだ届かねぇか」


 悔しさと同時に、じわっと込み上げてくる喜びもある。

 タイムという数字は、正直で、冷たい。けれど、それだけに、努力が報われたときの重みもまた、確かだ。




 帰りの電車。窓の外はすっかり夕焼けに染まっていた。


 イヤホンから流れる音楽も、耳に入ってこない。

 ふと、スマホを開く。画面に並んだ名前。


 「幼なじみ5人グループ」

 ──未読メッセージ:0


 最後の投稿は、3ヶ月前の朱音のスタンプだった。

 その前は、陽翔が「次の大会、観に来いよ!」と送ったまま、既読だけがついている。


 「……誰も返事してねぇのかよ」


 苦笑しながら、スマホを閉じる。

 それぞれが忙しい。それぞれの競技で、戦ってる。

 わかってる。なのに、寂しいのは、なぜだろう。


 あの日、5人で見た星空が、ふと脳裏に浮かぶ。

 「五つ星の約束」――


「それぞれの競技で一番になって、大人になったら、またここに集まろう」


 そんなこと、子どもの口約束だって思われるかもしれない。

 でも、光輝にとっては、今もずっと、心の支えだった。




 家に帰ると、母が夕飯を作っていた。

 「光輝、おかえり。大会どうだったの?」

 「まあまあ。自己ベスト出たよ」

 「すごいじゃない! ねえ、それ、幼なじみの子たちにも伝えたら?」

 「……今、あんま連絡取ってないんだ」


 母は「そう……」とだけ言って、それ以上何も聞かなかった。




 その夜、ベッドの中で、光輝はひとつのメッセージを打った。

 グループチャットに送るには、少し勇気がいったけど――


「次の県大会、出ることになった。あと0.04秒で全国。……お前ら、今、どこまで行ってる?」


 送信ボタンを押したあと、心臓が少しだけ早く打っているのを感じた。


 ──誰かが返事をくれるかは、わからない。


 でも、どこかでまた、あの星空の下に戻れる気がした。

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