第十節:いざ、ママベントへ

船上での戦いを終えた四人は、休息と傷の手当てのため、船室へと移動していた。


 「やっかいなヤツだったな」


 「あんなのがこれからも襲ってくると思うと、ちょっと不安だわ」


 「いったい何が起こってるんだ?」


 「エリス、お前の瞳でも見えないのか?」


 「残念ながらいまのところは……ニャニャ」


 戦や闘で受けた手当てはできているが、心の整理がまだつかない。


 「皆さん、これを飲んで元気出してください」


 「おぉ、すまんな」


 ミラが全員分のお茶を運んできた。


 蒸気船の内部は、機械音と水の揺らぎが混ざり合い、どこか傲慢で孤独な調べを奏でている。 


 アーヤは薄暗い部屋の角に座り、ゆっくりと呼吸を整えていた。


 (この先に待つものは、いったい何なのだろうか……)


 誰にも聞かれぬまま小さく呟いた言葉は、冷たい金属の壁に吸い込まれていく。

 心の中に渦巻く思考の波は、静かにだが確実に彼女を揺さぶっている。


 「わたし、ちょっと風を浴びてくるわ」


 「あぁ、気をつけろよ」


 アーヤは、ミラが持ってきたお茶を一杯飲み干すと、ゆっくりと部屋を出ていった。


 「ルーナ・グローブあたりからいろんなことが起こりすぎて、アーヤにもかなり疲労が溜まってる」


 「ルーナ・グローブ?あそこの森で何かあったのか?」


 「そうか、エリスは知らなかったな」


 グレイは、ルーナ・グローブのことを掻い摘んでエリスに説明した。


 「そうだったのか、そんなことが……大変だったな……しかしミラが無事でよかったニャ……」


 「ありがとうございます、でも、アーヤ様にはホントにご心配をおかけしました」


 アーヤが甲板に向かって船内の薄暗い通路を歩いていると、背後から背筋をなでるような足音が近づいてきた。


 ーーコツ、コツ、コツ、コツーー


 ゆっくりと振り返ると、そこには薄紫色の長髪を揺らし、紳士風に身なりが整った一人の男が立っていた。


 淡いグレーの瞳が、静かに彼女を見つめている。


 「迷っていますね、アーヤ・アーデン」

 

 その声は静かで落ち着いていたが、どこか遠くを見通すような深みを帯びていた。


 驚きと警戒が胸をよぎるも、アーヤはすぐに冷静さを取り戻し、問いかける。


 「あなたは……?……どこかでお会いしましたか?」


 男はゆっくりと歩み寄り、微かな笑みを浮かべた。


 「あぁ。どこかで会ってるかもしれませんね」


 その言葉は謎めいているが、確かな重みを持っていた。


 (この人……誰なんだろう……なぜ私のことを知ってるの……)


 アーヤは過去の記憶を呼び起こすが、やはり面識はない。


 「私はイアン。旅路の途中でこの船に乗りました。あなた方の行く先を少しだけ知っています」


 「あの……なぜ私の名前を知ってるの?よくこの船に乗れましたね」


 アーヤは恐る恐る尋ねてみる。

 

 船の小さな揺れが床を伝い、ランプの灯がわずかに揺らいだ。


 「それは……顔に書いてありますよ。そして私はこの船の船長と馴染みでしてね」


 曖昧な回答が、アーヤのイライラを増幅させる。


 しかし、イアンの瞳には、まるで過去と未来の狭間を見つめるような色彩が宿っていた。


 「この船は、あなた方にとってただの移動手段ではない。運命を揺るがす場所でもあります」


 「何を言ってるの。もしかしてあなた……」


 「フフッ。わたしは何もしてませんよ……濡れ衣ですね……」


 イアンの声は低く、しかしなぜかその一言一言がアーヤの心に深く染み渡った。


 「さっきの戦いももしかしてどこかで見てたの?」

 

 「えぇ……拝見させていただきました」


 「見てるだけなんて、趣味が悪いわ……」


 「すみません、貴方がたのほうが有利だとみましたので……」


 アーヤはゆっくりと息を吸い込み、大きなため息をついた。そして答える。

 

 「覚悟はできています。どんな試練が来ようとも、進み続けます。いや、進むしかないんです」


 二人の間に言葉は多く交わされなかったが、重なり合う視線の中に、確かな繋がりが生まれた。


 「フフッ……そのようですね……」


 蒸気船の機械音が静かに響き渡り、船内のランプの灯が小さく揺れる。


 イアンとアーヤは、しばし言葉を交わさぬまま、その場で立ち尽くす。


 蒸気船の揺れに伴って、船内の空気が揺れた瞬間、アーヤが口を開いた。


 「……あなたは、これから起こることが何か知っているの?」


 問いかけながらも、アーヤの声にはためらいが混じっていた。


 「知っているとも言えるし、知らないとも言える。だが、避けられない道筋ですね」


 (……また曖昧な回答)


 アーヤの苛立ちがまた少し増す。


 イアンはわずかに目を細め、その瞳の奥に遠い光を宿す。


 「今はまだお答えできません……しかし、これだけはお伝えしておきましょう。あくまで通過点だと……」


 金属の軋みと油の匂いが、密閉された通路の空気に重く溶け込み、二人の間に張り詰めた膜を作っている。


 「何でもいいので、何か知ってるなら、教えてもらえませんか?」


 アーヤは強い口調でイアンに迫る。


 「あなたの進む道はあなた自身のものです。わたしがとやかく言えるものではありません……フフッ」


 彼の声音には、妙に落ち着いた深みがあった。


 「なんかズルいわ。ようするに自分を信じるしかないってことね」


 「信じる、或いは受け入れる、それだけです」

 

 アーヤは会話の中で彼の視線の奥を探ろうとするが、そこはまるで底知れぬ深海のようで、掴もうとするほど距離を感じさせる。


 淡々と放たれた言葉は、まるで海霧のようにアーヤの心に入り込み、輪郭を曖昧にしていくのだった。


*****


 ……その頃船室では、他の三人もそれぞれの時間を過ごしていた。


 グレイが薄暗い灯りの下、左肩に巻かれた包帯を何度も見つめながら、心の中で戦いの一瞬一瞬を反芻していた。


 痛みが冷たく身体を刺すたび、己の不甲斐なさを突きつけられるようだった。


 (……あの時、もっと速く反応できていたら、仲間にあんな傷を負わせずに済んだかもしれない……次はあれを試してみるか……)

 

 責任感と共に、胸の奥が締め付けられる。


 窓の外、遠くに広がる曇天は、鉛色の海を映し出し、まるで未来の不確かさを象徴するかのようだった。


 (…もっと強くならなければ……)


 グレイは深く息を吸い込み、固く唇を噛んでから、再び包帯の巻き直しに取り掛かった。


 部屋の一角では、ミラが細い指先でルーナ・グローブの辺りから破れている外套の布を丁寧に繕っていた。


 針を通すたびに想いが強くなる。

 何度も同じ結び目を確かめる動作が、彼女の不安を映し出しているようだった。


 布の裂け目は小さいが、そこに宿る想いは計り知れなかった。


 (…この外套は、私たちが歩んできた証。仲間のため、そして自分のためにも、手を抜くわけにはいかない……)


 ミラの瞳には、強い決意と、どこかまだあどけなさが残る。  


 (…初めてナイフを使ったわ……まだ怖い……わたしも成長しないと……)


 ミラは、咄嗟に使ったナイフが、まるで自分を傷付けたように残っている感触が気になっている。

 そして、次なる戦いに備える気持ちが、新たなことへの挑戦を決意させるのだった。


 エリスは甲板とは反対方向にある、粉貨物船唯一の娯楽ともいえる船の最上段にあるダイニングにいた。


 眺めの良い場所には、仕事を終えた船員が、疲れを癒やしにところ狭しとたくさん集まっている。


 「おぉ、さっきのネコじゃないか。あぶなく船が沈むとこだったぜ」


 「すまないニャ。迷惑かけるつもりはなかったニャ」


 「驚いたよ。あんなのいままで見たことない。イカの化け物なんて……いまだに信じられないよ」


 エリスが船員との会話で笑顔を浮かべながらも、鋭い目で周囲の船員たちを観察していた。


 (…敵の動き、旅の行き先、何でもいい。少しでも役立つものがあればいい。情報を集めることも戦いの一部だニャ……)


 「この船はいつもこの航路を通っているのか?」


 「あぁ、天候もあるが、だいたい同じだな」


 「この船にはオレたち以外に誰か乗ってるのか?」

 

 「そうだな……お前たちみたいに裏で頼んでくるやつは結構いるからな。……何人か乗ってるかもな」

 

 杯を手に取りつつ、赤茶の斑耳を澄まして会話の断片を拾い上げ、時折尻尾をくねくねさせながら、仲間たちに役立ちそうな情報を探る。


 彼の明るい表情の裏には、本能的な鋭い判断と仲間への思いやりが隠れている。


 エリスは未来視では見えないものを求めながら、着々と次の準備に取り掛かっていた。


 皆、それぞれのやり方で、迫り来る何かを感じ取っていた。


*****


 「選べる道は少ない。しかし、その選び方ひとつで、見える景色は変わります」


 イアンがアーヤへの視線を逸らさぬまま言葉を続けた。


 その言葉が放たれた瞬間、船体がわずかに傾き、ランプの灯が揺れた。

 まるで嵐の気配が、すでに船内へ忍び込んでいるかのように……


 イアンの瞳は薄暗い通路の奥の闇を見据え、言葉をさらに深くアーヤの心に刻み込む。


 「あなた方の進む先には、ただの戦いだけではない、選ばれし者たちが背負う宿命と、それを超える希望が混在しています」


 「……宿命……宿命って?」


 「それはいずれわかります……フフッ」


 イアンの言葉が、波に揺れる空間に溶け込むように広がった。 


 「いずれ……って。もったいぶらないで教えてください」


 「運命に従いなさい」


 低く穏やかな声に込められた重みが、アーヤの胸に静かに染み込んでいく。


 「だが、その先の希望を掴むためには、何かを手放さねばならない時が来るでしょう」


 心はざわつきながらも、どこか冷静な観察者のようにその言葉を受け止めていた。


 その言葉にはいったいどんな意味が込められているのか。冷たい空気の中で重く波紋を広げていく。


 アーヤはしばらくだまったままだった……

 そしてアーヤの胸の奥底で何かが重く沈み込むような感覚が広がった。


 (……失うもの。……守りたいもの。……選ばねばならないもの……)


 その葛藤が、彼女の呼吸を乱していく。


 「何度も言いますが、覚悟はできています。何を失っても……必ず前に進む」


 それでも、彼女の目に迷いはなかった。    

 小さく震える声に、確かな決意の強さが宿っていた。


 イアンは静かに微笑み、ゆっくりと頷いた。


 「それでいいのです。あなた方の旅は、まだ始まったばかり」


 通路の奥からは、蒸気船の機械が規則正しく吐息を吐くようなリズムを刻み、少し湿っぽい冷たい金属の匂いが鼻をつく。


 薄暗い空間の隅々に、まだ見ぬ未来の影が静かに揺れているかのようだった。


 アーヤは目を閉じ、脳裏に浮かぶ仲間たちの姿と家に残してきた家族のことを思い描いた。


 グレイの鋭い視線に宿る、闘志と責任の重さ。


 ミラの繊細な指先が外套の布を丁寧に繕う静かな決意。


 そしてエリスの明るい笑顔の裏に隠された、冷静な観察力と気遣い。


 四人それぞれの胸の内に、言葉にできない覚悟がひそんでいる。


 そして……

 愛しい2人の子供たちとレオンとの何気ない日常。


 その静かな心の火は、嵐のような試練の中でも消えることはない。


 アーヤは深く息を吸い込み、ゆっくりと目を開けた。


 「掴んでみせるわ。必ず……」


 「フフッ……」


 イアンの微笑みが不気味さの中に温かさを感じさせる。


 揺れる金属の壁と、重くのしかかるように迫ってくる曇天の空。


 胸に満ちる緊張感と、それに反する静寂。


 その狭間で彼女の足は、確かに前へと進もうとしていた。


 蒸気船の揺らぎに身を任せながら、未来への航路は次の舞台へと場所を変えつつある。


遠くから見えていた灰色の雲は港の上空を覆い、潮を孕んだ風が甲板の帆布やロープをきしませた。


 海は不穏なざわめきを帯び、岸壁に打ち寄せる波が白く砕けて跳ね上がる。


 視線の先には、古びた木造の建物が段々と近づいてくる。屋根瓦の間には海鳥がとまり、甲高い鳴き声を響かせている。


 市場のざわめきや、荷を運ぶ男たちの怒鳴り声が、港の喧騒として風に乗って届きはじめた。


 「見えてきたわ」


 小さくつぶやいたアーヤの声には、旅の緊張と新たな希望の両方が入り混じっていた。


 「あれがママベント」


 「さすがに元王都だけのことはあるな」


 「とりあえずやっと陸に降りれるニャ」


 蒸気船が、最後の力を振り絞るかのように黒い煙を轟々と吐き出しながら、ゆっくりとママベントの港へと近づいていく。


 「下船の準備だ。それぞれ荷物を再確認しよう」


 戦いで受けた疲れと傷はまだ体に残っているが、未知の場所に降り立つ瞬間の高揚感が、その重さを軽くしていく。


 アーヤは荷物をまとめながら、舷窓からママベントの港を見つめていた。


 (ついに……着くのね)


 港に停泊する他の蒸気船も、巨大な船体をゆっくり揺らしながら、アーヤたちが乗った船を待ち構えているようだった。


 「よし!こっちは準備オッケーだ」


 「わたしも大丈夫です」


 「もともとそんなに荷物はないニャ」


 「すみません、先に行っててください。後から合流します」


 荷物の整理が遅れたアーヤは、グレイたち三人を先に行かせた。

 

 「遅れちゃった……急がないと……」


 グレイたちと合流するために船室を出たその時、通路の背後から静かな足音が近づいてきた。


 ーーコツ、コツ、コツーー


 重たい荷物をかかえたまま、スッと振り返ると、イアンが荷物を手にぶら下げ、こちらを見て立っていた。


 「君たちの旅は、これから本当の意味で始まる。忘れないでください……フフッ」


 その声は低く、優しさの奥に何かを隠しているようだった。


 「あなたは……どこに行くの?」


 アーヤは穏やかに尋ねると、イアンはふっと口元に笑みを浮かべ、首を横に振る。


 「さぁ、どこでしょうね‥‥」


 港に吹き込む風が二人の間をすり抜け、イアンの外套の裾を揺らした。


 ーーコツ、コツ、コツーー


 彼はそれ以上何も言わず、静かに通路の影に消えていった。残されたのは、彼の靴音と、胸の奥に沈む小さなざわめきだけだった。


 「ふぅーーー」


 アーヤは短く息をつき、甲板へと出る。

 

 そこではグレイ、ミラ、エリスがすでに港を見下ろしながら言葉を交わしていた。


 「すごいな……あの市場の人だかり」


 店主たちの威勢の良い声が四方から飛び交い、通りは旅人や商人でごった返していた。


 「ねえ見て、あの屋台のあたりからすごくいい匂いがする」


 「寄り道は後だ。まずは必要なものを揃えよう」


 「えーーーーっ……ちょっとぐらいいいじゃないですかぁ……」


 「ダメだ。何が起こるか分からんのだぞ」


 アーヤは仲間の顔を見て、自然と笑みをこぼす。


 「せっかくだから、ちょっと楽しもうよぉ」


 ミラがそう言って肩をすくめると、エリスが嬉しそうに頷いた。


 タラップを降りると、港の石畳がしっかりと足を支えた。


 その感触は、長くも短い航海の終わりと、新しい物語の始まりを告げているようだった。


 港の市場は色とりどりの品で溢れかえっていた。赤や金色の香辛料が山のように積まれ、焼き立ての魚や貝の香りが鼻をくすぐる。


 しかし、その賑わいの片隅で、不審な視線がじっと彼らを追っていることに、まだ誰も気づいていなかった。

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