第4話 白檀の人

 彼女の歌声が聴こえる。

 ジェラルドはまどろみの中、彼女と初めて会った日のことを夢に見た。


 王宮庭園にある『聖樹』に風の精霊の力を送ったその帰り、路地から飛び出して来た女性とぶつかってしまった。街灯に照らし出された彼女は、驚くほど繊細な美しさを持つ女性だった。


 相手がこちらを見ないのを良いことに、時間を忘れて見惚れてしまった。

「失礼。お怪我はありませんか?」

 我に返って慌てて尋ねるジェラルドに、その女性もまた慌てたように返事をした。


「す、すみません、私も前を見ていませんでした…!」

 魅惑的なその声。


 後日、王都に向かっている途中で川を流れてきたのが彼女だと気付いた時、もう二度と彼女を自分から離さないようにしようと思った。

 もう二度と死にたがらないよう、心ごと虜にしてしまおう。


(早く、この腕の中に落ちてくればいい)



  ☆☆☆



「おそらく、君の声には特殊な魔力が宿っている」

 ひとときの眠りから覚めたジェラルドは、長い黒髪をかきあげながらそう言った。その仕草がひどく艶っぽい。


「いつだったか、大通りで私がぶつかった令嬢は、君だろう」

(大通り?)

 フィオレンティーナはすっかり忘れていて反応が遅れた。


 そして、あの衝撃的な夜のことを思い出した瞬間ジェラルドの前にバッと平身低頭した。

 あの時ふわりと薫った白檀の香りは、今考えると間違いなく風の侯爵ジェラルドのものだ。


「今の今までぶつかったのが侯爵様と気付かず大変申し訳ありませんでした!! かくなる上は腹をかっさばいて!」

「分かった、まず落ち着こう。私が言いたいのは……あの夜、長年の悩みが消えたんだ」

「悩み?」


「長く、よく眠れない日が続いていてね。薬に頼らなければ熟睡できなかったのが、あの夜だけは不思議なことに、薬を飲まなくても眠ることができた。私自身その理由を考えていたのだが」


「私の声に魔力があると思われたんですか?」

「君がこの屋敷に来てからも毎晩よく眠れている。そうでもなければ、説明がつかない。しかもその魔力は、どうやら歌になることで威力を増す」


 ジェラルドはそう言うと、まだ床に座っているフィオレンティーナの前に膝をついた。

「礼を言いたいと思っていた。そして叶うならこれからも私のそばにいてほしいと」


 フィオレンティーナはたまらず床に額を擦り付けた。

「畏れ多いお言葉です! 私はここに居てはいけない人間なんです!」

「君がそう考える理由を教えてくれないか。君がここに相応しいかどうかは私が判断する」


 ジェラルドが真剣な顔で見つめてくるので、フィオレンティーナは仕方なく、あの夜の出来事を話した。


「つまり浮気癖があると知りつつ男と婚約したら、しっかり本命の彼女までいて怒り狂ったと」

 ジェラルドはすげなく2行ほどでまとめてしまった。


「どこに君の罪がある?」

「ありまくりです! 家の敷地に侵入して、小屋に火を付けたんですよ! しかも女の子ごと!」

「言っては何だが、その本命の彼女には落ち度は無かったのか?」

「……落ち度……?」

 フィオレンティーナは戸惑う。


「君とその男との婚約が成立する前に、本命の彼女の方が行動を起こしてさっさと婚約でも結婚でもすれば良かっただろう。それなのに君との婚約後もだらだらと中途半端な関係を続けていたとしたら、男も、その彼女も、君という人間を馬鹿にするにも程がある」


 ジェラルドの声には苛立ちが混じる。

「そっ……そんな、ことは……」

「自分の行動を反省するのは殊勝な心がけだが、君だけが全ての責任を背負い込む必要はないよ」


 ジェラルドはフィオレンティーナを抱き寄せた。

 白檀の香りに包まれる。

「君は十分苦しんでいる。償うことを考えているなら、死ぬことよりも、その命でこれから何をしていくのかを考えるべきだと私は思う」

 

 ジェラルドは「それに」と冗談を言うような口調になった。


「君の命はもう既に私の物のはず。早くその男など忘れて私のことを考えなさい、お姫様」


 風の侯爵ジェラルド・サルヴィ。人懐っこく爽やかな水の伯爵クラウディオと違って、どこか妖艶で強引な人。

 さっきからドキドキと心臓がうるさい。

 フィオレンティーナは赤らんだ頬を必死で隠した。

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