【第2話 原稿の中の原稿】

 クラウドの原稿を“検版モード”で開く。

 見た目は完璧だ。見出しは端正、本文は呼吸が浅く速く整い、脚注は行末にふわり浮上する。太字は三点で均一、スクロールはPageDownの拍子にきれいに乗る。——編集部で十年磨いた「読みやすさ」の見本品。


 なのに、指の腹に摩擦が残った。ページの底に、薄い板を一枚挟んだみたいに重い。

「不可視文字、出すね」来栖が開発者ツールを立ち上げ、無表示記号の可視化をオンにする。画面に針金のような影がいくつも点った。

「U+2066(LRI)、U+2069(PDI)——読順を“箱”で囲ってる」

 箱の外側に、さらに薄い層が縫い付けられている。本文の行間をなぞるように、極小の注記が走った。

〈FOLLOW_BOLD=3〉〈FOOTNOTE_INLINE=ON〉〈PAGEDOWN_PRIORITY=HIGH〉

 読みやすさの三点セットが、命令の三項として裏側に書き込まれている。


 私は試しに、見出しの太字を一つ飛ばしてスクロールし、脚注はあえて後回しにする。

 下層ログの小窓が一瞬だけ白く明滅し、次段へ入るところで待ちが生じた。

「ほら」来栖が指先で示す。「FOLLOW_BOLDの同期が崩れる。ここ、まさに“読みやすさ→命令”の変換点」


「本文が表なら、これは裏だね」本條が身を乗り出す。「私たちが“整える”ときの癖が、そのまま実行手順に見えてしまう」

 私は頷き、さらに下へ潜る。注記はまだ続く。

〈KEYLINE=“あなたが最後の読者である。”〉

〈BREATH_WAIT=0.7s〉

〈SYNC_OK if (KEYLINE touched) & (BREATH_WAIT met)〉

 鍵文に触れて0.7秒の息を置けば同期成立。読むことが、合図の条件式へ落ちている。


 画面の右上で、灰色の小さなアイコンが沈んでいるのに気づく。四角い枠に“R”。

「見覚え?」高月が目を細める。

「AutoReadability」私は指でなぞる。「体裁を“読みやすく”自動整形するやつ。社内の配信環境では無効のはずだけど……そこにいる」

 灰色は無効の色。それでも、アイコンは消えない。使っていなくても、在る。

「外側(プリプレス)でPDFにされると、有効になる可能性はある」来栖が言う。「昨夜の“密室の練習”、あれ外の手順が中に滑り込んだ疑いがある」


 私は二人称の行で指を止めた。

 ——あなたが最後の読者である。

 視線が鍵文に触れた瞬間、裏層ログが二度だけ脈を打つ。

〈KEYLINE_TOUCH〉〈BREATH_WAIT armed〉

 実装の言葉は冷たいのに、胸の内側で確かな**“間”が生まれる。

「やっぱり呼吸が組み込まれてる」本條。「読みやすさの極みは、無意識の呼吸まで設計**すること」

「だから、EXEC_DONEにも接続できた」私は小さく言う。整った導線は、最短経路だ。最短は快い。快いものは、灯に触れやすい。


 一旦、注記を三つに絞って別タブへ剥がす。

〈FOLLOW_BOLD=3〉〈FOOTNOTE_INLINE=ON〉〈PAGEDOWN_PRIORITY=HIGH〉

 削った瞬間、本文のスクロールが軽くなった。

「裏を剥がせば、速さは戻る。貼り付けば、速さが命令になる」来栖が要約する。

 私は紙の端に三角形を描き、角にそれぞれ太字/脚注/PageDownと書き入れた。三点同期が「収束=終わり」ではなく、「実行=合図」に接続された三角形——昨夜、私たちが見たのはこの裏図だ。


「法務に見せるとき、本文の前に“裏の抜き刷り”を付けよう」本條が言う。「紙なら摩擦が残る。画面のように“つるり”と欺けない」

「うん。しかも——」私は思いついたことを口にする。「脚注の距離をわざと広げるバージョンも用意しよう。即参照を外す。三点太字も二点不均等に崩す。PageDownの既定速度は落とす。読む=止める方向への手順を一つずつ足す」

「対症療法に見えないよう、定義を上げる必要もあるね」高月。「“読了=終わり”じゃなくて——」

「“読了=停止”」私は言い切れず、舌で言葉を転がす。まだ仮の定義。けれど、昨夜の灰色の呼吸は、それを支持している気がした。


 来栖が指先で画面の右下10%を示す。「ここ、黒密度が不自然に高い。見た目は白でも、ドットが沈んでる」

 拡大すると、微細な点の群れが現れた。句点よりさらに小さい黒——「おしまい」を示す影の点。

「ここを拾って終端扱いするプリプレス、あるんだよ」来栖。「たぶんAutoReadabilityの古いビルド」

 私は冷たい背筋を覚えた。文字の合図だけじゃない。絵でも合図は作れる。

「禁句は文字でも絵でも同じ規範で扱う」本條が、まだ書いてもいない規範を先に言い切った。


 テストとして、私は太字→脚注→送るを“裏の指示どおり”に三度なぞる。ラッチは待機へ、ファンは追随へ。緑は点かない。——昨夜と同じく、準備だけが静かに進む。

「準備ができたら、最後の一押しは何?」高月。

 私は二人称の鍵文を見た。

 ——あなたが最後の読者である。

 裏層の注記が0.7秒のBREATH_WAITを要求する。息が、扉の蝶番に触る。

「これだと思う」私は言った。「息。読者の身体を経由しないと、点かない」


 ツールバーの**灰色の“R”**は相変わらず沈黙している。

 使っていないのに、在る。在るだけで、導線はできる。

 私はスクリーンショットを撮り、法務用のメモに貼り付けた。キャプションは一行だけ——〈可読性が命令へ反転〉。


 夜更けの編集部は、昨夜より静かだった。清浄機の灯は緑にならない。灰色だけが薄く呼吸している。

「次は、裏だけ印刷しよう」本條が紙束を指で叩く。

「紙でやれば、誰でも再現できる」来栖。「誰でも止め方も学べる」


 私は頷いた。

 本文ではなく、本文の中と下から始める。薄い層を剥がして、手順に触れて、合図の由来を証拠に変える。

 そして、読む=止めるの設計に置き換える。まだ遠いけれど、道は一本だ。


 ——次話「実行完了」。裏面だけを紙に落とし、緑が点く瞬間と、点かせない術式を見極める。

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