【第3話 実行完了)】
翌朝、私たちは“本文の裏面だけ”を印刷して会議室に集まった。白い紙には文章がない。代わりに、極小の注記と制御記号が点線のように並び、三角形の頂点に〈FOLLOW_BOLD=3〉〈FOOTNOTE_INLINE=ON〉〈PAGEDOWN_PRIORITY=HIGH〉とある。読みやすさの三点が、裏では命令の三項だ——昨夜出した結論を、今度は紙で確かめる。
「投影はしない。紙でやろう」本條が言う。「摩擦が見えるから」
私は紙束を手に、太字→脚注→送紙の順で“読むふり”をする。見出しの位置で視線を止め、脚注を即座に参照し、ページ送りを一定のリズムに保つ。二人称の鍵文に触れたら、0.7秒だけ呼吸を置く——裏面の注記どおりに、忠実に。
天井の清浄機が一拍だけ追って揺れ、非常扉のラッチが待機に入った。室内の圧はわずかに沈む。昨夜の“練習”が、紙の上でも再現されたことになる。来栖が端末のログを叩き、緑の小窓を呼び出す。
trigger=EXEC_DONE
source=read_flow
hint=FOLLOW_BOLD/FOOTNOTE_INLINE/PAGEDOWN_PRIORITY
「ここまでは準備だね」高月が囁く。「点灯条件は、まだ先にある」
私は、紙の右下10%を親指で隠し、もう一度、太字→脚注→送紙の順を揃える。視線と指が最短経路で滑る瞬間——
壁の制御盤で緑の灯がひとつ、はっきり点いた。
空気が硬くなる。ラッチは締まり、ダクトの弁が閉じる側へ倒れた。紙は何も語らないのに、装置は実行へ踏み出す。
「——点いた」本條の声が小さく、しかし部屋の音をすべて制した。
私は紙面から目を離さず、二回目の試行に移る。今度は三点太字の二つ目をわざと飛ばし、脚注は後参照にし、送紙のテンポを崩す。鍵文へ触れても、呼吸の位置をずらす。
緑は点かなかった。清浄機の唸りは遅れ、ラッチは待機へ戻る。
「同じ本文でも、読ませ方が違えば灯は消せる」高月が安堵の息を漏らす。
「順番と呼吸が鍵だ」私は紙の余白に赤鉛筆で三つ書く。
〈二点不均等に崩す(太字の三点を壊す)〉
〈脚注距離を置く(即参照を外す)〉
〈鍵文→0.7秒の呼吸を別位置に移す〉
来栖が首を傾げる。「でも、これは対症療法。裏面の仕様が生きている限り、誰でも最短で点けられる」
「だから読む手を直す」私は応じる。「“読みやすさ”の習慣を、装置が解釈できない遅さへ置き換える」
ラップトップの端に灰色の“R”が沈む。《AutoReadability》。社内では無効のはずの影は、それでも在る。使っていなくても、在るだけで導線になる。
「昨夜の“密室”は、外側で整形されたPDFが内部の閾値に届いたから起きた。右下の微細な黒も拾っていたかもしれない」来栖が言う。
私は拡大鏡で印刷の隅を見た。肉眼には白い余白だが、点の群れが沈んでいる。句点にも見えないほど小さな黒——“終わり”の影。
「絵でも合図になる」本條が頷く。「じゃあ、絵で止める方法も、要る」
もう一度、裏面だけを読む。今度は、鍵文に触れた直後ではなく前に息を置く。
——あなたが最後の読者である。
0.7秒の“間”を前渡しすると、扉の蝶番に届く力が弱まったのか、ラッチは待機のままだ。
「呼吸の位相で、実行は外せる」私は紙端にメモする。「読了=終わり」ではなく、「読了=停止」へ向けて、身体側の設計を始める。
緑の灯は手を離せば消える。だが、胸の内側では別の灯が点いていた。点灯の快楽だ。十年磨いてきた“読みやすさ”は、まっすぐにこの快楽へ向かう。整然、滑らか、最短。気持ちよさは、いつだって危険のすぐ隣にある。
私は紙束を閉じ、会議室のホワイトボードに四角を書いた。
表(本文)と裏(注記・制御)。
速さ(三点太字・即参照・最短送紙)と遅さ(二点不均等・距離・呼吸の前渡し)。
EXECとHALT。
「次は、この四角を反転させる」私は言う。「EXECを外し、HALTを最終状態へ——“読む=止める”を定義に上げる」
本條が笑う。「語から行こう。語が変われば、設計の向きも変わる」
緑は消え、灰色だけが薄く呼吸している。
私は扉に背を向け、指先に残った“気持ちよさ”を自覚したまま歩く。次にやるべきは、読者の手の方だ。順番と呼吸を、装置から人へ戻す。
——次話「読む手順」。読者の身体に停止を仕込む。読みやすさを、止まりやすさに書き換える。
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