HALT_LOCK

クソプライベート

【第1話 煙の密室】

 非常用のエアダクトは止まらず、天井の清浄機が小さな灯で規則正しく脈打っていた。深夜の編集部は、人の声よりも機械の息が濃い。机の端で私の端末が一度だけ震え、社内チャットのスレッド末尾に〈EXEC_DONE〉が点った。

「誰が流した?」と高月。 「無署名。タイムスタンプは十七分前」私は画面を拡大する。

〈EXEC_DONE〉は、いつも“原稿が締まった”合図だ。校閲の手順が止まり、印刷のキューが走り、編集部の夜はようやく終わる。だが今夜、その合図は別の装置を動かした。非常扉が自動施錠に切り替わり、空調が密閉モードへ移行する。誰もいないはずのフロアが、手順どおりに「締まる」。空気の出口が順に失われ、廊下のセンサーが咳払いのように赤く瞬いた。煙はない。数値だけが、密室を作っていく。

 私は換気系統のログを呼び出した。 mode=FINISH / door_lock=ON / duct_flow=LOOP 「原稿の“終わり”が、建物の“終わり”に繋がってる」本條が眉を寄せる。 「仕様では、編集端末からの終了イベントはセーフティに入らないはずだよ」来栖が回線を叩く。「なのに、ここでは合図になってる」

 画面の片隅に薄い参照リンクが滲んだ。〈参考:原稿・最終〉。クリックすると、クラウドの原稿ファイルが開く。本文は整っている。見出し、本文、脚注。太字は三つずつ均等、脚注は行末に浮上し、PageDownの手触りは滑らかだ。——読みやすさの典型。なのに、スクロールの摩擦が指にひっかかった。ページの下に、薄い板を一枚挟んだように重い。私は最下段に向けて指を滑らせる。画面は動かず、代わりに天井のファンが微かに唸った。

「止める?」来栖。 「まだ」私は首を振る。ここは、読む速度に同期するように設計されている。スクロールが一定の速さを保つと、清浄機の回転が追随し、太字が三点続くと出力がわずかに上がる。脚注が即参照されると、非常扉のラッチが待機に入る。——読みやすさが、命令になっている。

 私は試す。まず、太字の見出しを一つ読み飛ばす。ファンは反応しない。次に、脚注を開く前に呼吸を置く。回転がほんの少し落ちる。最後に、二人称の行で指を止める。 ――あなたが最後の読者である。 耳の奥で空気がひと拍ほど躊躇し、天井の唸りが遅れた。0.7秒。数字より確かな“間”が、胸骨の内側で弾む。

「たぶん読んだ順番そのものが合図だ」私は言う。「本文の下に、別の指示が寝てる。表の文章と裏の手順が、同じページに重なってる」 来栖が開発者ツールを立ち上げ、不可視文字の表示をオンにする。画面に針のような影がいくつも点った。 「読順を囲う制御記号が入ってる。箱で区切って、通り道を作ってある」 「誰が?」高月。 「まだ分からない」私は画面から目を離さない。「でも、合図は先に走ってる」

 ツールバーの右端に、灰色の小さなアイコンが沈んでいるのに気づく。四角の中に“R”。 「それ、見覚えある?」本條。 「AutoReadability。体裁を自動で“読みやすく”整えるプラグイン。社内では無効のはず」私は言いながら、指で灰色をなぞる。反応はない。ただ「ここに在る」という事実だけが残る。読みやすさを約束する影が、黙って座っている。

 私はさらに踏み込む。本文の太字三点をわざと不規則に拾い、脚注は即参照せず、スクロールのリズムを崩す。壁の制御盤に並ぶ緑の列は沈黙のまま、清浄機の灯も色を変えない。逆に、見出し→脚注→PageDownの順にテンポよく流し、二人称に触れた直後に0.7秒の呼吸を置くと、ラッチが微かに鳴って待機に入る。——同じ文章でも、読ませ方ひとつで結果が変わる。

「裏面が命令なら、表は囮だ」本條が言う。「わたしたちが十年かけて磨いた“読みやすさ”の作法が、装置にとっては“実行しやすさ”として読まれてしまう」 胸の奥で、身に覚えのある熱がひやりと冷えた。読みやすさは誇りだった。太字は三点、脚注はすぐ読む、PageDownは早く。読者が迷わない道筋を作れ、と教えてきた。それが今、密室のスイッチへ直結する最短路に化けている。

 私は紙を取り出し、画面を模写する。本文を消し、薄い層だけを印刷する。紙は嘘をつかない。角度を変えれば、余白のうねりが見える。そこに微細な指示が、線よりも薄い字で沈んでいる。FOLLOW_BOLD=3、FOOTNOTE_INLINE=ON、PAGEDOWN_PRIORITY=HIGH。読み手の癖と装置の癖が、同じ方向を向いたとき、回路は最短になる。回路が最短になれば、合図は灯に変わる。

「練習は終わったみたいだ」高月が廊下を見やる。非常扉のランプは黄色へ戻り、レジスタが順に開く音が遠くで続いた。私はログを保存し、紙の端に一行だけ書く。〈終わりの合図が、終わりでない場所で働く〉。終わりは、終わりじゃない。読了は停止である——と、まだ言い切れない私は、舌の上でその言葉を転がす。

 清浄機の灯に目をやる。緑は点かない。灰色だけが薄く呼吸している。視界の片隅に、灰色の“R”がひっそり残る。私はそれを見逃さないことに決める。影を影のままにしておくと、回路は私たちより先に走る。

「最初に触るのは原稿だな」本條が言う。 「本文じゃない。本文の中と下」私はうなずく。「薄い層を剥がす。書式=犯行計画を証拠に変える」

 犯人はまだ見えない。ただ、〈合図〉だけが先に走っている。

 ——次話予告:原稿の中に埋め込まれた手順を、紙に剥がして可視化する。読みやすさが命令へ反転する、その瞬間を捕まえる。次話「原稿の中の原稿」。

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