第26話 地上へ戻る

 重く湿った空気が、肌にまとわりつく。

 遠くで、地鳴りのように足元が震えた気がした。


 ダランが去ってから、空気が少しずつ変わっていくのを肌で感じる。

 それでも音は、何ひとつ聞こえない。

 ──音を吸う岩が、恐ろしいほど静寂を保っている。

 その沈黙が、かえって恐怖を増幅させていた。


 扉が開く音がした。

 振り向くと、そこに立っていたのは──ダランだった。

 乱れた髪に、焦りを押し隠したような硬い表情。


「ダラン……?」


「ソレル、今すぐ荷をまとめろ。地上に戻る準備をしろ。」


「え……?」


 心臓が跳ねた。

 何を言われたのか、理解できなかった。


「噴火の兆候が出ている。地下の圧が高まりすぎているらしい。

 ここにいるより、地上の方が安全だ。」


 いつになく早口だった。

 その声に滲む焦燥で、ただ事ではないことが分かる。


「でも、僕は──」


 言いかけた声を、ダランが遮った。


「ここに残る理由はない。地上に戻れ。」


「……嫌だ。このままひとりで逃げ出すなんて、できない!」


 自分でも驚くほど、はっきり言葉が出た。

 ダランの瞳が、かすかに揺れた。


「このままここで、一緒に頑張ろうって言ってよ!

 僕だって、この国のために……ダランのために──!」


「やめろ!」


 鋭い声が、部屋の空気を震わせた。

 いつも穏やかなその声が、こんなふうに荒れたのを初めて聞いた。


「お前は──元より“カミュラ”の代わりだろう!」


 息が止まった。

 喉の奥が熱くなり、視界が滲む。


(……そんなこと、言われなくてもわかってるのに)


 それでも、涙は止まらなかった。


「……それでも、僕は……行きたくない。」


 嗚咽にまぎれた声に、ダランが目を伏せる。

 しばらくの沈黙ののち──彼は静かに言った。


「……ソレル。」


 名を呼ぶ声が、かすかに震えていた。


「お前にもしものことがあったら、どうする?

 俺たちは、知の国ナランサスにどう説明すればいいんだ。

 何故カミュラではなく、ソレルが地底の国ドルナーグにいると?」


「そんなの……どうとでも説明できるだろ!」


 僕の言葉に、ダランが一瞬、天を仰いだ。

 その手がわずかに震えている。


「今回の噴火は、きっと起こる。

 知の国ナランサスにも被害が及ぶ可能性が高い。

 ──だから、今度こそ俺たちの声を……お前の国の民に、届けてくれないか。」


 息が詰まった。

 その言葉が何を意味するのか、痛いほどわかった。


「……そんなに僕がいると困るの? どうしても戻らせたいの?」


「俺たちは地に生きる民だ。

 この暗さにも、大地の震えにも、ずっと付き合って生きてきた。

 ──大丈夫だ。俺たちは生き延びる。

 だから、お前は元の世界に……“カミュラ”の影に隠れることなく、

 本物のソレルに戻るんだ。」


「…………!!」


 首を振る。信じたくなかった。

 けれど──


「絶対に死なないで。絶対に、生きて。」


 涙に濡れた声でそう言うと、ダランはほんのわずかに笑った。

 その笑みが、酷く優しくて、残酷だった。


「……わかった。約束する。」


 そう言って、彼はそっとソレルの頬に触れた。

 温かい掌の感触を、どうしても離したくなかった。


(本当は……一緒に、いたかったのに)


 その願いを胸に、ソレルは震える足で立ち上がった。

 地上へ戻るために。

 ──四百年前と同じ轍は踏まない。

 今度こそ、自分の手で、この声を伝えるんだ。


 元より荷物なんてほとんどなかったから、準備といっても服を着替えるくらいだった。

 だけど、どうしても何か“証”が欲しくて──

 僕は花瓶に挿してあったアルネラの花を数本、そっと手に取った。

 小さな子どもたちがくれた、決して枯れない淡い光の花。

 掌の中で、かすかに温かさを帯びていた。


「入口まで送ろう」


 ダランの声にうなずき、迷路のように曲がりくねった道を進んでいく。

 もう、この場所には戻れない。

 そう思うたびに、胸の奥が締めつけられる。

 あの光の下で、彼が何かを作っている姿を見ることも、もう──。


「──…ソレル」


「ん?」


「どうして、俺は光に弱いんだろうな」


「ダラン?」


「お前を連れて、この国からも、この狭い世界からも逃げ出したいのに。

 俺には、それができないことが、とても悔しい」


 前を見据えたまま呟いた言葉が、胸に突き刺さるようだった。

 込み上げてくるものをどうにもできなくて、涙がこぼれ落ちる。


(あぁ、好きだ。本当に、大好きだ)


 地上に続く扉の前で、ダランが足を止めた。

 その手が、静かに僕の手をほどく。


「……俺が行けるのは、ここまでだ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が張り裂けそうになった。

 それでも、最後の力を振り絞るように、僕はダランの腕を掴んだ。

 お互いに引き寄せられるように、抱きしめ合う。

 頬に伝わる体温、掌の温もり、震える息──

 それを全部、心に刻み込むように。


 そして、最後の口づけを交わした。

 短く、けれど永遠のように深い、ひとつの口づけ。

 これが最後の。

 永遠の別れになるのだと、どちらも知っていたから。


 その口づけの余韻が、まだ唇に残っている。

 離れたくなかった。

 だけど、ダランの手がそっと僕の背を押した。


「行け。……もう、時間がない」


「……ダラン──」


 名前を呼んでも、もう返事はなかった。

 ただ、優しい眼差しだけがそこにあった。

 

 白い手袋をしたダランの指先が、胸を二度叩く。

 そして、僕の胸の方に伸ばした。


 ──その仕草を、忘れるはずがない。

 あの朝、言えなかった言葉。

 恥ずかしくて、ただ“ありがとう”で誤魔化してしまった言葉。


 涙で滲む視界の中で、震える手を胸に当て──

 彼の胸へと、そっと差し出す。


 「……愛してる」


 音にならない言葉。

 けれど、彼にはきっと届いた。

 その証のように、ダランが微かに笑った気がした。

 


 洞窟に沿って進むにつれ、壁に灯された松明の炎が次第に増えていく。

 やがて、世界が眩い光に包まれた。

 思わず目を細め、顔を覆う。

 初めて、“地の国の闇”が背後に沈んでいくのを感じた。


 ──音が、聞こえる。


 地上の風の音。鳥の声。

 岩にぶつかって砕ける水の音。

 それらが一斉に胸へと押し寄せる。


 ここには、音も光もある。


 振り返る。

 けれど、もうそこに地底の国ドルナーグの姿はなかった。

 扉の向こうは、静かな闇。

 たった今までいたはずの彼が、まるで初めから存在しなかったかのように消えている。


「ダラン……っ」


 声が震えた。

 呼んでも、返ってくるのは風の音だけ。

 その風が頬を撫でていく。

 まるで、彼の手のひらのぬくもりが残っているみたいで──

 もう一度、涙が溢れた。


 握りしめたアルネラの花が、かすかに光を放っている。

 それは、地の国の光。

 ダランと、子どもたちと、あの暗い世界が残してくれた希望の光。


(……絶対に、伝えるから)


 両手でその花を胸に抱きしめ、ソレルは一歩、光の中へと踏み出した。

 その瞬間、眩い風が吹き抜け、地上の空気が肌を包み込む。

 温かくて、痛いほど優しい世界の中で、

 彼は小さく、けれど確かに微笑んだ。


「……ありがとう、ダラン。」


 その言葉が、風に溶けて消えていった。


 光の花びらが散るように、アルネラの花が淡く輝く。

 それはまるで──

 地の底から届いた、最後の“愛の灯”のようだった。

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