13 禁術ー①
大陸より更に北に位置する
秋は雨の季節で、洗濯物を乾かす魔法を編み出す季節なのだ。日常生活に魔法は使わない規則だが、これだけは教師陣も目をつぶっているらしい。
今日は男子寮の洗濯日だ。熱や風魔法が定番の中、共同洗濯場でリザンは見てしまったのだ。カヴィルが洗濯物を一瞬で乾かすのを。
よほど面倒だったのか、油断していたのだろう。リザンに「なに今の⁈」と叫ばれて、しまったという表情で背を向ける。
「ねえ何やったの?」
「何も? 見間違いじゃないかな」
「そんなわけないよね。何なの、その指でスイッて」
「さあ。早く乾かさないと、明日履くパンツがないんだよねー」
リザンは洗濯を終えて重ねてあったパンツたちをむしり取る。
「全っ然濡れてない。ちゃんと石鹸の匂いもして洗えてる」
「ちょっ、人のパンツ嗅がないの!」
間違いなく洗い済みなのだ。まるで濡れていたという事実だけが消えたように。
「湿気だけを反転させた? いや、そんな高度なことが……」
そこでハッと思い出す。カヴィルは以前、リザンとジャジへ放たれた火竜のブレスを多重魔法陣で吸収したではないか。まるでなかったかのように。
「あれなのか」
術式と魔力量を整えれば、あの熱量と質量さえも反転が可能なのか。だったら下着が乾いたのも納得できる。
リザンが愕然とした隙にカヴィルはパンツを取り返し、そそくさと洗濯場を後にした。
寮へ戻ると、何かざわついている。焦った顔で走っていく学生とすれ違った。
「あっ、ルスラン。何かあったの?」
階段で鉢合わせたルスランも、やはり焦った表情だ。
「講義棟で事故があったらしい。ロト寮の学生って聞いたぞ」
それだけ告げて、急ぎ階段を下りていった。
「おれたちも行こう」
洗濯物を置きに部屋へ走ると、ラムゥがいた。
「おう、戻ったか」
「ジャジは?」
「さっきから待ってるんだが、戻ってねえんだ」
「まさか……」
「とにかく行ってみよう」
心臓が嫌な速さで鼓動する。全力で走って息が上がっているはずなのに、呼吸をしている感覚がまるでなかった。
講義棟の魔法薬学教室前には、既に人だかりができている。ワドル寮、ファ寮の学生もいた。
「全員下がりなさい。これ以上の立ち入りを禁じます」
魔鉱錬成学のスカハ教授が中から言い渡したことで、前方に少し余裕が生まれる。そこに抱き合って泣いているナディアとビオラの姿があった。
「ナディアさん!」
無我夢中で人をかき分けて中へ入り込む。他の学生から睨まれるが、構わなかった。
「ナディアさんッ、一体何が」
嗚咽の間に、恐れていた名前を聞いた。
「ジャジが……」
「ジャジがどうしたの。怪我したの?」
首を横に振り、それ以上ナディアは言えなかった。ビオラが指さした教室の中には、作業台の向こうに横たわった足だけが見えている。見覚えのある靴と足だ。
「ジャジ……どうしたの。なんで動かないの」
体の深部を冷たい刃で貫かれたようだった。最も見たくないものを目にしている。なのに目が離せない。その顔を確かめなければならない。
「嘘でしょ。聞こえてるなら返事してよ」
震えながら前へ進もうとする。だがスカハ教授に押さえられた。
「今は駄目だ」
「確かめなきゃ。ジャジじゃなかったって。別の人だったって」
「ジャジで間違いない」
「違う! 俺は信じない! ジャジ、返事しろ!」
教授から逃れようとするリザンを、後ろからラムゥが押さえる。カヴィルが教授へ問いかけた。
「教授。おれたちはジャジと同室の三人です。どうか顔だけでも見せてもらえないでしょうか」
スカハ教授が答えを求めたのは、パーヴェ学院長だった。浅黒い肌にオレンジ色の華やかなヒジャブを頭に巻いた、ふくよかな老女だ。
学院長が前に出て、口を開いた。
「皆さん。痛ましい事故で、私たちはジャジ=ヴァルカを失いました。これから事故の原因を究明しますので、すべての授業は明後日まで休講とします」
その場にいる学生全員を見渡し、表情を和らげる。
「詳しいことは分かり次第お知らせしますので、皆さんは自習をしながら、なるべく普段と同じ生活を心がけてください。心配事がある人は、寮長を通して私に直接話すように。いいですね」
それを聞いた後方の学生から少しずつ寮へ戻っていく。
「あなたたち三人には聞きたいことがあります。皆が戻るまで、少し待つように」
それから静かになった教室が閉ざされた。中に残ったリザン達は、ジャジへ近づくのを許された。
焦点を失った緑色の瞳が虚ろだ。唇は何かを発しようとしたのか、今にも動きそうだった。 ラムゥとカヴィルも膝から力が抜けたように、遺体の側でがっくりと座り込む。
「……ッ、何やってるんだよお前ッ!」
「本当に死んでるんですか。生きてるみたいなのに」
ラムゥの声が震えている。カヴィルは唇を噛みしめ、涙を流している。それを見て、リザンもやっと涙があふれた。ジャジの腕をつかむ。まだ温かい。まだ柔らかい。なのに、もう二度と動かない。
声を上げて泣いた。泣きながら、ジャジの名前を何度も呼んだ。
「どうしてこんなことになったの。ジャジが何をしたっていうの!」
「その通りです、リザン。分かっているのは、ジャジはモネ教授の許可を得ず、たった一人で夢幻魔香を生成していたこと。そして自ら生成した幻術の中で亡くなったということです。モネ教授が発見した時にはもう息も心臓も止まっていて、救命はかないませんでした」
幻術内の死は現実の死となる。危険な魔法なのだ。だから教授のいない所での生成は禁止されているし、必ず複数名で対応する規則になっている。
「そんなっ、教室にはいつも鍵がかかっていて、学生は勝手には出入りできないはず……」
尻すぼみになるリザンの声。何を言っているのだ。鍵開けはジャジの得意魔法ではないか。
「でもジャジの性格からいって、規則を破って無茶するのは考えにくいな」
ラムゥの言葉にリザンも同意だった。だがカヴィルだけは違ったようだ。
「一つ、心当たりというか。気になることはあります」
作業台に広げられた帳面を手に取る。ジャジのものだ。薬品がこぼれて変色したページをめくり、視線を走らせる。ある箇所に目を留めると確信したようで、学院長へ見せた。
「ご存じの通り、魔法の基本は「生成」です。そして生成には原理がある。例えば海に囲まれたこの島で水の生成は容易いように、逆に煙のないところに火を起こすのは難しい。ジャジは鍵開けと魔法錠の作成を研究していましたが、ある時おれに言ったんです。原理——原因をなかったことにできないかと」
「どういうことですか」
「魔法で鍵を開けるのではなく、錠前の方を鍵がかかる前の状態にすればいい。つまり鍵をかけたという状態——原因を、なかったことにできないかと言ったんです。その時は、鍵開けがうまくいかなくて嫌になってるんだろうと思いました。しかし、よくよく考えれば真理だ」
洗い終えた洗濯物から「濡れている」状態だけをなかったことにする。それは時を遡ることになり、魔法では不可能だ。魔法の流れは命と同じで、生から死へ、原因から結果へ、現在から未来への常に一方向のみなのだ。
「濡れた洗濯物から水だけを取り出して反転させる。これは『濡れた』原因ではなく、『洗濯物に水がある』結果にはたらきかけているに過ぎません。『最初から濡れていなかった』ことにはできない。魔法の限界だと、おれは答えました」
リザンには雲を掴むような話だった。
「しかしジャジは別の可能性を考えた。幻術内で過去の記憶を操作し原因をなかったことにすれば、現実世界の結果まで変わるのではないか。それを試していたように思います。夜遅くまで考え込んだり、たまに寮を抜け出していましたので」
「モネ教授は知っていましたか」
「いいえ。ただ、幻術の意識の中で記憶を刷新しようというのは、何度か試していました」
帳面を受け取った学院長はかがんで、ジャジの髪と頬を撫でる。
「自らの幻術の意識の中で、誤った何かを選択してしまい、それが運悪く死へと繋がってしまった。というのが今のところの見立てかしらね」
学院長は教授たちを見上げ、視線を合わせる。
「裏付けを取りましょう。モネ教授とナナク教授はジャジが使っていた薬草や薬品、魔法の解析を。リフ先生、スカハ教授は医師と共に遺体を改めます」
そしてリザンたち三人を見た。
「あなたたちは部屋に戻り、明後日までにジャジの荷物をまとめてください。ゆっくりで構いませんので」
そう言って、ジャジの瞼に触れて目を閉じてやった。
何も考えられない。三人とも言葉はなく、どうやって寮まで戻ったのかもわからなかった。しばらくしたらジャジがひょっこり戻って来る気がして、誰も荷物に手をつけようとはしない。
だが夜になっても翌朝になっても、ジャジは戻ってこなかった。礼拝堂に安置された遺体は、明日の定期船で島を出るという。家族と連絡を取りながら、引き渡し場所まで連れて行くそうだ。
礼拝堂には一日中、ジャジとの別れを惜しむ学生が絶えなかった。棺にはたくさんの手紙や花が添えられている。
リザンも何かあげられるものはないかと探すが、思いついたのは竜石だけだ。ジャジとの思い出の品で、宝物だ。
「一緒に火竜の赤ちゃんを見たよね。俺は忘れないから、寂しくないようにジャジが持ってて」
もう冷たく硬くなってしまった手を握りしめる。
その感触が離れず、ある考えがリザンの中でむくむくと大きくなっていく。それは止められようもなく、具体性を帯びて、頭の中に構造物として実体を成していった。
夜中になると、リザンは一人、寮を後にした。向かう先は、礼拝堂だ。
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