12 夢のような時ー②

 ナディアは少しためらった。やはり思い出したくないのだろうか。


「ごめんなさい。やっぱりいい——」

「カヴィルが火竜の世話をしていたのは知ってる?」


 ナディアは長い銀髪を耳にかけながら、リザンを向いた。透明感のある素肌と瞳に、リザンの視線は奪われる。


「うん」

「私の初恋の人はね、火竜に殺されたの」

「ミシュが……」


「ミシュという名なのね。火竜が飛来したのは三年前。この島を産卵場所にしようとしたみたいね。島の南側はほとんど焼け野原になって、学院もかなりの被害を受けたわ。彼は当時のロト寮の寮長で、学生たちを守ろうとしたの」


 教授たちが戦ったのは聞いたが、犠牲者が、しかも学生に出たというのは初耳だった。


「あまりに突然亡くなったから、未だに思い出すと心が揺らいでしまって」


「そんなことが……。つらい事を思い出させてしまってすみません」


「優しくて責任感の強い人だったから、自分の力で皆を守らなきゃと思ったんでしょうね。逃げもせず、最後まで残って」


「きっとすごい人だったんだね。ナディアさんを好きにさせたんだもん」


 リザンの言葉に、ナディアは少しはにかんだ。


「そうね。ちょっとラムゥに似てるかも」

「筋肉と体力お化けなの?」


「そういう感じ。でも勉強も好きで、学院に残って研究を続ける予定だったのよ」

「そこはラムゥと違うね」


 その人が卒業せず残る道を選んだのは、もしかするとナディアと共に過ごしたかったのではないかと思った。きっとナディアもそれを願っていたはずだ。


「あの時はね、火竜の世話をすると言うカヴィルと大喧嘩したの。世界的に貴重な標本だからって向こうも譲らなくてね。あんたなんか焼き殺されればいいって言っちゃったわ。未だに根に持ってると思う」


「ええっ? でもそれは仕方ないよ。ナディアさんにとっては恋人を奪った憎い火竜なんだし」


「結局焼き殺されはしなかったわね。でも一生懸命世話してたのに、最近見捨てられちゃったんでしょう?」


「まあ、そんなとこ。結構落ち込んでたよ」

「じゃあ喧嘩は私の勝ちってことかしら」

「だね」


 二人で笑い合った。それからナディアが聞いたのだ。


「リザンは? 何が見えた?」


 自然な話の流れだ。そう聞かれると分かっていて、自分はナディアに何を見たかたずねたのだろうか。それともナディアがリザンの答えを分かっていて聞いているのだろうか。


 どちらにしろ、今日は礼を伝えるだけだ。言うはずではない。それに婚約者というのは亡くなったその人だったのか、別にいるのか、聞けていない。

 けれど、今を逃すわけにいかなかった。


「俺は……ナディアさんだよ」


 ナディアの瞳をしっかりと見て届ける。心臓が爆発しそうだ。


「卒業の日、船着場から船が出港するところだった。幻術の中の俺は手を振ることすらできなくて、何も伝えられなかった。だから今日、ここに来たんだ」


 ナディアの瞳が揺れる。そっと手を重ねると、ナディアは一度視線を逸らした。


 うまくいかないと分かりきっている。それでも伝えずにはいられない。恋がそういうものだとは知らなかった。

 ナディアはもう一度リザンを見つめ、告げる。


「ごめんなさい。リザンのことは後輩として好きだけど、そういう気持ちにはなれないわ」


「わかってる。それでも伝えたかったんだ」


 柱時計が夜九時の鐘を鳴らす。自室へ戻る合図だ。ボードゲームをしていた六人組も解散し、談話室は二人きりになる。


 蝋燭の炎で金色に輝くリザンの瞳に、艶のある絹のように滑らかでやわらかなナディアの肌に、互いの意識はさらわれた。


 ゆっくりと顔が近づいて、リザンの唇がナディアの額に触れる。

 夢のような時間が終わると、手を離してリザンは立ち上がった。


「話を聞かせてくれてありがとう。おやすみなさい」

「リザン」


 談話室を出るところで呼び止められる。

 振り返ると、ナディアの頬が少しだけ上気していた。


「お花ありがとう。よかったら、今度はあなたの話も聞かせてね。おやすみなさい」


 もう寮へ戻らなければならない時間だが、そういう気になれず、回廊で夜風に当たる。 無意識に足が向いたのは、学院中央部の青いドームだった。


 耳鳴りがする静けさと、墨を溶かしたような暗闇。今は見えないが、この天井には見るものを無限の喜びへと誘う楽園が広がっているはずだ。


 ——大魔法使いアマルナ。少し分かった気がします。


 あなたが描く世界は、喜びに満ちてはいなかった。悲しみも寂しさも喪失も、最初からここには描かれていたのだ。

 咲き誇る花と花の間には、何もないように見えて、枯れた草木が存在する。星の輝きを描くには、暗く沈黙する夜空が必要だ。


 世界が美しいかどうかは最後の結果ではなく、まだ途中にすぎないのだ。ドームから透ける光が祝福するのは、喜びと悲しみ、どちらもなのだろう。ナディアの優しい声も、唇で触れた額の感触も、張り裂けそうなこの胸の痛みも。


 部屋に戻ると、カヴィルが机に向かってペンを走らせている。ジャジは実家に一時帰宅でいない。時間外だが、ラムゥも部屋にいない。


 何も言わずに、布団へ潜り込んだ。ぐちゃぐちゃのこの感情をなんと言っていいのか分からなかった。


 しばらくしてコーヒーの香りが立ち始める。 何をしているのかと起き上がってみると、カヴィルが普通にコーヒーを淹れていた。


「飲むか?」

「こんな時間に飲んだら眠れなくなるよ」

「眠れるのか?」


 言いながら、カヴィルはもう飲み始めている。


「……余計なお世話だよ」

「おれはナナク教授に頼まれた資料をまとめるから、夜更かしするの。明日は休みだしね」


 そのくせ、床にしっかり座り込んでくつろいでいて、机に戻る気配がない。暖炉の薪がパチッと爆ぜた。

 笑いながら涙が滲む。


「こうなるって分かってたんだよ。別に平気だし」

「そうか」


 カヴィルは短く答えただけで、何も聞かなかった。ただ蜂蜜入りのコーヒーを作り、手渡してくれた。


「ねえ、カヴィル。俺がもっと大人で、ナディアさんに釣り合うくらいの魔法使いだったらさ……ううん、いいや」


 一口飲むと、鼻が詰まって甘味も苦味も分からない。けれど泣きたくなくて、ぐっと飲み込んだ。

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