第16話 種目決め
視界がぼやけ、戦場の光も音も遠のいていく。
握った拳の温もり、胸の奥の安堵——その感覚だけが残る。
「……ここは……?」
目を開けると、見慣れた天井が目に入った。
戦場の熱や硝煙はなく、聞こえるのは遠くの鳥の声と、自分の荒い呼吸だけ。
体を起こすと、布団の感触が肌に伝わる。
戦場で流した汗も、血の匂いも、痛みも、すべては夢——いや、あの世界での出来事だったのだと実感する。
けれど、胸の奥に残る感覚は本物だった。
仲間を守ろうとした決意、絶望から希望へ揺れた感情——それらは夢ではなく、自分の心の一部として確かに刻まれていた。
階段を降りる足音が、静かな朝の家に響く。
カーテン越しに柔らかな光が差し込み、床に淡い影を落としていた。
洗面所では姫野さんが、鏡に向かって歯を磨いている。
「おはよう、姫野さん」
「
歯磨きをしながら微笑む姫野さん。その仕草や笑顔に、自然と心臓が跳ねる。
この前、看病してもらった時から、姫野さんを見ると胸がざわつく。
俺に限ってラノベみたいな恋愛なんてするはずがないと思っていたのに、この感情は一体なんだろう。
「今日、体育祭の種目決めだね!」
姫野さんが歯磨きを終え、目を輝かせながら話しかけてくる。
その声に、胸の奥に小さな温もりが灯る。
戦場での緊張と絶望をくぐり抜けた後の、こんな何気ない朝が、どうしようもなく尊く思えた。
窓の外では、庭に差し込む朝の光が白く反射している。
昨日までの雨が嘘のように空は晴れ渡り、風がカーテンをやさしく揺らした。
「そうだね、姫野さんは何に出るか決めた?」
姫野さんは歯磨きを終えると、タオルで口を拭いながらこちらを向く。
体育の授業を見ている限り、彼女は運動神経がかなりいい。リレーも、跳び箱も、なんでも器用にこなすタイプだ。
「私は余ったやつでいいかな! みんなにやりたいのやってもらう!」
そう言って笑う姫野さんの頬に、朝日が反射して柔らかく光る。
——んん、なんていい子なんだ。
「俺も決めてないんだよね。余ったやつでいいかな!」
自然と笑みがこぼれる。
たったそれだけの会話なのに、胸がじんわりとあたたかい。
戦争を終えた後の今、こうした何気ない時間が、どれほど幸せなものかを思い知らされる。
いつものように朝食を済ませ、制服に袖を通して家を出た。
通学路には朝の光が差し込み、アスファルトの上で小さな影が並んでいる。
すれ違う小学生の笑い声や、自転車のブレーキ音がやけに心地よかった。
——こんな“普通の朝”が、こんなにも愛おしいなんて。
「おお! 大和に姫野! おはよう!」
声をかけてきたのは、朝倉蓮だった。
入学して一週間ほど経った頃に仲良くなった友達だ。
家も近く、放課後に一緒に帰ることも多い。いまでは一番気の置けない存在だ。
「蓮! おはよう!」
「朝倉くん、おはよ!」
蓮は茶髪の短髪で、いつも明るい笑みを浮かべている。
誰にでも分け隔てなく話しかけるその人柄から、クラスでもすぐに中心的な存在になった。
朝日を背に立つその姿を見ていると、まるで太陽みたいなやつだな、とふと思う。
ということで、今日は三人で登校することになった。
朝の光が校舎に反射して、窓がきらきらと輝いている。
登校中の生徒たちはみんな元気に挨拶を交わし、校門の前は活気に満ちていた。
——この学校の生徒は、本当に挨拶が多い。
声をかけ合うたびに、こっちまで少しだけ明るくなれる気がする。
そんな空気の中、俺たちは三人で他愛もない話をしながら教室へ向かっていた。
笑い声が続く、穏やかな時間。
——そのときだった。
「あの!」
背後から、少し震えたような声が響いた。
振り向くと、小柄な女の子が立っていた。
胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤にしている。
「どうしましたか?」
思わず、丁寧な口調になってしまう。
「西園寺くんと姫野さんは……付き合っているんですか!?
もし、そうじゃなければ——この手紙を受け取ってください!」
そう言って、彼女は勢いよく封筒を差し出してきた。
まるでそれを渡した瞬間に全てが爆発するかのような勢いで。
「おお? おお?」
隣で蓮がニヤニヤしながら、俺の顔と手紙を交互に見ている。
やめろ、その目線。余計に恥ずかしい。
「えっとぉ……付き合ってはないんだ」
自分でも驚くくらい、声がかすれていた。
そう言った瞬間、女の子の顔がぱっと明るくなり、勢いよく手紙を押しつけてくる。
「じゃ、じゃあこれっ!」
そして、真っ赤な顔のまま、廊下の向こうへと駆けていった。
足音だけがしばらく響き、やがて静かになった。
——なんだったんだ、今の。
妙に胸の鼓動が速い。
別に恋愛とか興味ないと思っていたのに、こういうのはやっぱり意識してしまう。
ちらりと横を見ると、姫野さんがこちらを見ていた。
いつものように、柔らかく笑っている。
それだけなのに——なぜか少し、心がチクッとした。
「……行こっか」
姫野さんがそう言って歩き出す。
俺はその後ろ姿を見つめながら、心の中で小さくため息をついた。
——やっぱり、俺のことなんて気にしてないよな。
教室に入ると、黒板には「体育祭 種目一覧」と書かれた表が貼り出されていた。
チョークの白が朝の光に反射して、少し眩しい。
けれど、さっきの出来事のせいで、頭の中はまだ少しだけざわついていた。
ざわざわと教室に人の声が満ちていく。
黒板の前では数人のクラスメイトが談笑しながら机を並べ替えていた。
朝の光が窓から差し込み、チョークの粉がきらきらと舞っている。
昨日までの戦場が嘘のように、平和で、柔らかい時間だった。
「おはよう、みんなー!」
教室の扉が開き、担任の藤堂先生が入ってくる。
いつものように一束にまとめられた髪、そして明るい声。
「さて、今日は体育祭の種目を決めるぞー!」
その言葉に、教室の空気が一気に弾けた。
「リレーやりたい!」「騎馬戦やろうぜ!」など、あちこちで声が飛び交う。
俺も姫野さんや蓮と目を合わせ、自然と笑みがこぼれた。
「西園寺ー、お前運動神経いいしリレー出ろよ!」
「いや、俺はいいってー!」
そんなやり取りをしているうちに、隣の姫野さんがくすっと笑う。
「大和くん、走るときすごく真剣な顔するからかっこいいと思うけど?」
不意打ちの一言に、心臓が跳ねた。
顔が熱くなるのを隠すように、俺は急いで前を向いた。
担任が黒板に種目名を書き出していく。
「リレー」「騎馬戦」「大玉転がし」「二人三脚」……。
チョークの音がコツコツと響く。
この、何でもない教室の喧騒が——
どうしようもなく、幸せだった。
開け放たれた窓から、春の名残と夏の匂いが入り込む。
頬を撫でる風が、制服の袖をふわりと揺らした。
「それで、選抜リレーなんだが、速い順で四人決めさせてもらったぞー!」
藤堂先生の声が響くと、教室のざわめきが一瞬で変わる。
机の軋む音、椅子を引く音、ざわっ……と空気が揺れた。
みんなの視線が黒板に集まり、名前を探す。
「速い順……ってことは、あの体力測定か」
蓮が隣でぼそっとつぶやく。
そうだ。入学して間もない頃に行われた、あの50メートル走。
高校に入る前までの俺なら、きっと名前は呼ばれなかっただろう。
でも——あの世界を駆け抜けた“今の俺”は、もう違う。
「えーっと、一番速いのは……おっ、朝倉か! アンカー頼むぞ!」
「よっしゃ、任せてください先生!」
教室のあちこちから歓声と拍手が上がる。
藤堂先生は満足そうにうなずき、次の名前を読み上げた。
「二番目は……西園寺!」
「えっ」
思わず声が漏れた。
「勉強も運動もできるのか、頼もしいな!」と先生が笑う。
周囲から「まじ?」「すげー!」と声が上がるが、俺は笑えなかった。
最悪だ。走るのは、ずっと嫌いだった。
……いや、正確には“嫌いだった”のかもしれない。
あの戦場で、何度も駆け抜けた。
誰かを救うために、守るために、必死に走った。
その感覚が、まだ体の奥に焼きついている。
(でもまあ……これくらいなら、余裕か)
小さく息を吐いて、苦笑した。
窓の外では、春と夏のあいだの風に、校庭の旗がゆるやかに揺れていた。
その後は、他の種目を希望する生徒たちが次々と手を挙げていき、
教室はまた賑やかさを取り戻した。
笑い声と椅子の軋む音が交じり合い、日常の温度が戻ってくる。
——最後に残ったのは「障害物リレー」だった。
「これ、二人一組だから、誰か二人! やりたい奴いるかー?」
藤堂先生がホワイトボードを振り返りながら言う。
「じゃあ、私出ます!」
軽やかに手を挙げたのは姫野さんだった。
窓から差し込む光に髪が透けて、柔らかく揺れる。
その笑顔を見て、なぜか胸の奥が少しざわついた。
「誰かもう一人いないかー?」
その瞬間、隣の席の神谷くんが勢いよく手を挙げた。
運動神経が良く、いつも明るい。クラスでも中心にいるタイプだ。
「おお! 神谷でいいかー?」
先生の言葉に、周囲から「いいじゃん!」と声が上がる。
けれど——その音が少し遠くに感じた。
姫野さんと神谷くんが並んで走る光景が、頭に浮かぶ。
胸の奥で、小さな棘がチクリと刺さった。
「僕がやります」
気がついた時には、もう手を挙げていた。
自分でも驚くほど、自然に。
「おっ、西園寺か。いいな、それ!」
神谷くんが少し笑って肩をすくめた。
「西園寺には敵わないわ〜」と言って手を下ろす。
「んじゃ、西園寺と姫野で決定なー!」
先生の声に、教室がまた盛り上がる。
俺は小さく息を吐いて、そっと姫野さんの方を見た。
彼女は笑っていた。
いつものように、何も知らない無邪気な笑顔で。
——その笑顔を守りたくなるのは、なぜだろう。
こうして、体育祭の種目決めは終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます