第15話 戦争(2)

 【冷氣】と【熱氣】。

 その存在を今初めて知った。どのような力か、どう扱うのか――その全てが、自然と理解として流れ込んでくる。


 作者である俺ですら知らない力。だが今は、それよりも――。


 「あいつらを許さない」


 腹の奥が怒りで煮えたぎり、同時に頭の中は氷のように冷たかった。

 感情の熱と理性の冷気がせめぎ合い、体の奥から異様な力が噴き上がる。


 「お前も射抜いてやる!」


 サラに矢を放った兵士が叫ぶ。


 お前のせいで……。


 矢が放たれる。だが、それはとても遅く見えた。

 視界に映る全てがスローモーションのように伸びる。


 「【零ノ守れいのもり】」


 その言葉と共に、ミラが形を変えた。

 刃がほどけ、無数の氷片が舞い上がる。瞬く間にそれらが融合し、俺の前に巨大な氷の盾を形成する。


 放たれた矢は、氷の表面に触れた瞬間――音もなく軌道を反転した。


 「ぐはっ……!」


 矢は放った兵士の眉間を正確に貫く。

 彼の身体が崩れ落ちる音だけが、戦場に静かに響いた。


 氷の盾は砕け散り、無数の氷片が空に舞い上がる。

 宙を漂うその光景は、美しくも――怒りの冷たさそのものだった。


 気づけば、戦況はこちらに傾きつつある。

 師匠と龍雷が怒りのままに剣を振り抜き、戦場を白銀と蒼炎で染め上げていた。


 「【月影蒼牙げつえいそうが】!!」


 龍雷が咆哮する。

 瞬間、空気が震え、足元の地が爆ぜる。

 蒼い炎と闇が月光のように絡み合い、夜を裂く巨大な刃が現出した。


 ――ズドォォォォンッ!!!


 閃光が走り、衝撃波が周囲を飲み込む。

 爆風とともに数百の兵士が蒼炎に包まれ、次の瞬間、黒い炭と化した。


 龍雷は嗚咽をこらえながら、そのまま蒼炎の中を歩む。

 涙が蒸発していくほどの熱気が、辺りを焼き尽くしていた。


 師匠は剣を振るうたびに閃光を撒き散らし、剣聖の名にふさわしい怒りの剣舞を見せる。

 その背中は、まるで神が降り立ったかのようだった。


 そして――俺は空を仰ぐ。


 「【紅星こうせい】」


 ミラから放たれた紅の光が、爆ぜるような轟音とともに天へと昇る。

 夜空が血のように染まり、数百の紅い星が現れる。

 空全体が脈打つ。


 「……落ちろ」


 低く呟いた瞬間、星々が一斉に墜ちた。


 ――ドドドドドドドドォォンッ!!!


 地平線が赤に染まり、爆炎が連鎖する。

 焦げた風が肌を焼き、音が耳を裂く。

 世界そのものが崩れ落ちるような轟き。


 煙が晴れたとき、敵の姿は――ほとんどなかった。

 燃え盛る炎の海の中で、ただ数えるほどの影が、よろめきながら揺れている。


 「ば、化け物だー!!」

 「撤退しろぉぉ!!」


 怯えた悲鳴が戦場を駆け抜け、敵軍は総崩れのように逃げ出した。

 そう――戦争は、終わったのだ。


 「【レインストーム】」


 龍雷が静かに呟くと、蒼い魔力の雨が空から降り注ぐ。

 その雨は燃え盛る火を瞬く間に鎮め、灰色の湯気が戦場を包み込んだ。

 赤かった大地は、今はただ、冷たく濡れて沈黙している。


 「はぁ……はぁ……っ」


 全身から力が抜ける。

 呼吸が浅く、肺が焼けるように痛い。

 炎も、怒りも、戦いも、すべてが遠ざかっていく。


 『……おい、大和。サラの元へ行くぞ』


 ミラの声が頭の奥に響く。

 かろうじて意識を繋ぎとめ、足を前へと動かした。


 焦げた草の匂いと、血の生臭さが入り混じる中――

 龍雷は立ち尽くしていた。


 無数の屍の中心で、ただ一点を見つめている。


 「龍雷……行こう」

 「え? あ、うん……」


 その瞳には、もう何の光も宿っていなかった。


 湿った風が、焦げた血と鉄の匂いを運んでくる。

 その中で、龍雷はゆっくりと歩を進めた。

 視界が揺れて、足元の屍も、世界も、すべてがぼやけて見える。


 ――そして、見つけてしまった。


 サラが倒れていた。

 地面に広がる赤が、まるで彼女を飲み込むように滲んでいる。

 胸には矢。

 茶色の髪が、血に濡れて地に張り付いていた。


 「……やだ、やだ……やめろよ……」


 龍雷は膝から崩れ落ちた。

 泥と血を混ぜたような地面に手をつき、顔を伏せる。


 「母さん……なぁ、冗談だろ? なぁ、起きてよ……」


 声が震える。

 唇が動くたび、息が詰まる。


 返事はない。

 サラの胸は、もう上下していなかった。


 龍雷は、ゆっくりと彼女を抱き上げる。

 腕の中のその身体は、驚くほど軽かった。

 血に濡れた服の下、温もりがゆっくりと消えていくのがわかる。


 「……あ、あぁ……っ」


 喉の奥から、言葉にならない声が漏れた。

 次の瞬間、彼の叫びが爆ぜる。


 「うわああああああああああああああっっ!!!!!」


 それは悲鳴ではなく――魂の絶叫だった。

 空気が震え、魔力が荒れ狂う。

 地面が軋み、周囲の死体が宙に舞う。


 「なんでだよッ!! なんで俺なんだよ!! 守るって、言ったじゃねぇか!!」


 龍雷の拳が地面を叩くたび、土が抉れ、血が跳ねる。

 拳の骨が砕けても、彼は叩き続けた。

 それでも、サラは動かない。


 「母さん……っ……返してくれよ……頼むから……」


 声は枯れて、もう音にもならない。

 ただ震える唇が、サラの名を繰り返し呼んでいた。


 俺は、何も言えなかった。

 ただ、その背中を見つめることしかできなかった。

 ――それほどまでに、龍雷の世界は崩壊していた。


 龍雷の叫びが、夜の風に掻き消える。

 その声を、師匠はただ見つめていた。

 息子の肩が震える。

 腕の中で、妻の手が冷たくなっていく。


 ——なぜだ。

 何を守るために、ここまで来たのだ。


 剣を持つ手が、ゆっくりと力を失う。

 地面に突き立てた刀が、わずかに震えていた。

 師匠は膝を折り、血に濡れた地面に手をつく。


 「……サラ」


 その声は、かすれていた。

 怒りも悲しみも超えて、何も残らない。

 ただ、胸の奥で何かが静かに崩れていく音がした。


 ——守れなかった。

 息子を、妻を、未来を。


 肩を落としたまま、師匠は空を見上げた。

 風が流れる。

 夜空はあまりに静かで、あまりに残酷だった。


 何も語らず、何も言わず。

 ただその沈黙の中で、師匠は心のどこかが永遠に壊れたことを悟った。


 龍雷は胸の奥に押し込めていた絶望が、重く広がる。

 「母さん……ダメだ……もう……」

 そう呟いた声は、血まみれの戦場の風にかき消される。


 だが次の瞬間——微かに鼓動を感じた。

 龍雷は目を見開き、体全体の力が一気に抜けるような感覚に襲われた。

 「……え……?」


 サラの体から、柔らかく蒼白の光が滲み出す。

 血の色が薄れ、傷が塞がっていく。

 矢の跡が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていく。


 龍雷の胸の中で、混ざり合った感情が溢れた。

 恐怖、怒り、絶望——そして、希望。

 息が詰まるような重みが、今度は温かさに変わる。


 「母さん……生きてる……!」

 声が震え、涙が溢れ落ちた。

 抱きしめる腕は力強くもあり、しかし心はまだ震えていた。

 絶望の淵から這い上がる、震える希望の光が、胸を熱く焦がす。


 戦場の音は遠く、風の匂いも血の匂いも、すべてが霞んだ。

 龍雷の視界は、母の光だけに集中している。

 「もう……絶対に離さない……」

 小さな声で呟き、抱きしめる腕に全ての想いを込めた。


 涙は止まらず、顔を伝い、戦場の土に落ちる。

 その一滴一滴が、龍雷の胸の奥にあった恐怖と絶望を流し、希望だけを残していく。


 師匠もまた、剣を握ったまま静かに涙を零す。

 その姿に、龍雷は改めて母の存在の大きさを感じ、胸の奥で一瞬、すべてが溶けるような安堵を覚えた。


 光の中で、母は生きていた——

 その事実が、龍雷の胸に確かな勇気と決意を灯す。


 「母さん、よかっ……」


 安堵で体中の力が抜け、龍雷は膝から崩れ落ちた。

 戦いの疲労も重なり、全身が熱く、そして冷たい。

 ようやく力を抜ける——その瞬間の、何にも代えがたい重み。


 俺も同じだった。

 握った拳の温もりが遠のき、世界がふわりと揺れた。


 「よかっ、た……」


 声にならない声を口にしながら、意識が静かに遠のいていく。

 戦争の終わった戦場は、燃え尽きた炎の匂いと硝煙の残り香だけを残して、静かに沈んでいた。

 その静けさが、二人の心の中に、深い安堵を刻みつけていた。

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