第17話 サラの奇跡
——私は昔、一つの命を授かった。
ダビルとの間にできた、たったひとつの奇跡。
十ヶ月間、私はその小さな命を抱きながら生きていた。
お腹を撫でるたび、内側からとくん、とくんと響く鼓動。
それはこの世界でいちばん優しい音だった。
「早く会いたいね」と、何度もお腹に話しかけた。
返事なんて返ってこないのに、きっと聞こえていると信じていた。
けれど、その命は、ある日突然、動かなくなった。
流産だった。
聖女である私は、治癒の力を誰よりも信じていた。
何度も最上位魔法を唱え、何度も祈った。
けれど、冷たくなっていく小さな体に、
どんな光を注いでも——命は戻らなかった。
その瞬間、私は悟った。
「聖女」である前に、私は“ひとりの母”なのだと。
そして、神は私から二つの奇跡を奪った。
子どもと、母になる身体を。
夫のダビルは泣かなかった。
ただ、夜の帳の中で、私の肩を静かに抱いた。
その手の震えが、言葉よりも雄弁だった。
彼の胸に顔を埋めると、心臓の音が苦しくて、
息をしているのが辛いほどに、愛しかった。
——そして、数年が過ぎた。
森の奥で、かすかな泣き声が聞こえた。
足を止め、耳を澄ますと、そこには一人の赤子がいた。
青い布に包まれ、冷たい土の上で、か細く泣いていた。
頬に触れると、まだ温かかった。
震える指でその子を抱き上げた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……あぁ、この子は、神様がもう一度授けて下さったのですね」
涙が止まらなかった。
私はその子に『龍雷』と名付けた。
彼の目は、あの日失った子と同じ色をしていた。
それからの日々は、奇跡の連続だった。
初めて笑った日、初めて立った日、
魔法の光を灯した三歳の夜——
どれも胸が震えるほど愛おしかった。
龍雷は本当に優しい子だ。
小さな手で私の指を握り、「母さん、大丈夫?」と何度も言った。
私はそのたびに、あぁ、この子の母でいられることが幸せだと実感した。
だからこそ、戦場へ送り出すとき、胸が張り裂けそうだった。
強くなったあの子を誇りに思う反面、
もし帰ってこなかったら——そう思うだけで息が詰まった。
けれど、龍雷は立派に戦い抜いた。
誰よりも勇敢に、誰よりも優しく。
私は彼の姿に、母としての誇りを感じた。
——その瞬間、矢が飛んできた。
痛みよりも先に、息が詰まった。
大和くんが間に入ってくれたおかげで、致命傷は免れた。
それでも視界が揺れ、血の匂いが世界を満たした。
動けない身体の中で、耳だけが生きていた。
魔法の轟音、剣のぶつかる音、誰かの叫び、泣き声。
そして——龍雷の声が聞こえた。
泣いていた。
あの子が、生まれて初めて声を上げて泣いていた。
その声を聞いた瞬間、
私の心に、再び“母”の炎が灯った。
「まだ……生きなきゃ……」
声にならない声で呟き、
最後の力で治癒の魔法を唱えた。
身体が焼けるように痛んでも、もう構わなかった。
あの子を、泣かせたくない。
——それだけだった。
光が身体を包む。
傷口が閉じていくのを感じながら、
私はそっと、心の中で祈った。
『どうか、この子が、幸せな世界で生きられますように——』
そう思ったところで、視界が静かに白く滲み、
意識が、音もなく途切れた。
___________________________________________________
〈大和視点〉
目を覚ますと、見慣れない木の天井が視界に映った。
鼻をくすぐるのは、どこか懐かしい薬草の香り。
体には柔らかい白い布がかけられていて、隣には湯気を立てる桶と、丁寧に畳まれたタオルが置かれている。
――病院、か。
けれど、窓から差し込む光は、現実世界の蛍光灯ではなく、やさしい朝日だった。
現実と夢の狭間にいるような感覚。
あの戦場での出来事がすべて幻だったのではないかと、ほんの一瞬だけ思ってしまう。
だが、血の匂い、叫び声、焼け落ちる音、そして――サラの倒れる姿。
そのすべてが脳裏に焼き付いて離れない。
「……サラは。龍雷は、どうなった」
胸の奥がざわつく。
気づけば、ベッドから勢いよく立ち上がっていた。
足元はふらついているのに、心だけが焦って前へと進もうとする。
廊下の扉には、それぞれ名前が記されていた。
木の板に焼き付けられた文字が、やけに温かく感じる。
その中で――ひとつの文字に目が止まる。
『サラ』
喉が渇いて、呼吸が浅くなる。
手のひらが汗ばむのを感じながら、ドアノブを握る。
力任せに、扉を押し開けた。
「――サラ!!」
部屋の中に飛び込んだ瞬間、張りつめた空気が肌に触れた。
窓から射し込む朝の光が白いシーツを照らし、まるで彼女を包み込むように広がっている。
部屋の中央、ベッドの上には――サラがいた。
彼女はまるで眠っているかのように穏やかな顔をしていた。
けれど、その頬の色はまだ薄く、唇はかすかに青みを帯びている。
心臓の鼓動が聞こえないほど静かな部屋の中、誰もが息を潜めていた。
龍雷はサラの枕元で、ただ俯いていた。
いつもなら堂々と背筋を伸ばしている彼が、今は小さく、壊れそうなほどに肩を震わせている。
その手には、サラの冷たい指が握られていた。
「お願いだ……」
かすれた声が、喉の奥から漏れた。
「もう一度だけでいい、笑ってくれよ……母さん」
師匠もまた、言葉を失っていた。
強くあろうとする彼の目にも、光が宿っていない。
まるで時間そのものが止まってしまったかのように、沈黙が部屋を支配していた。
――そのときだった。
小さく、風に溶けるような声が、シーツの上から零れ落ちた。
「……りゅ、う……らい……」
その瞬間、時間が一気に流れ出した。
龍雷の肩がビクッと跳ね上がり、彼の目が大きく見開かれる。
サラのまつげがゆっくりと震え、淡い光の中で瞳が開く。
焦点の合わない視線が、やがて龍雷の顔をとらえた。
「……龍雷。生きて……て、よかった……」
その言葉が空気を震わせた瞬間、龍雷の堪えていた感情が一気に溢れ出した。
「母さんっ!」
彼はサラの胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
嗚咽が止まらない。あの戦場でも見せなかった涙が、次から次へと頬を濡らす。
師匠も口元を押さえ、震える声で「よかった……本当によかった」と繰り返す。
響と冬香も、言葉を失いながら涙を流していた。
俺はその光景を、ただ立ち尽くして見つめていた。
胸の奥が熱くなる。喉が焼けるように痛い。
――これが、生きるってことなんだ。
どんな奇跡よりも、いまここにある命の温もりこそが本物なんだと、心の底から感じた。
光が差し込む窓の外では、鳥のさえずりが聞こえた。
その音がまるで「おかえり」と言っているようで――
俺は静かに目を閉じ、涙を拭った。
_________________________________________________
ここまで読んで頂きありがとうございます!
作品のフォローや評価など頂けると執筆のモチベーションがとても上がります!
作品についてのアドバイスや感想なども頂けると嬉しいです!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます